Tag: リハビリテーション

あるある注意(≠意思=行動)

現場でよくあるあるなのが
「ちゃんと〇〇するように気をつけましょう」
という注意喚起

ところが
こういった注意喚起で行動を修正できる人ばかりとは限らない

〇〇するように気をつける
とは、どういう行動に変更するのか
具体的に言語化して伝えることが必要だったりします。

気持ちの問題じゃなくて行動を変えることにポイントがあります。

私は当院に実習にくる学生さんに
施錠確認について
「ちゃんとカギをかけるように気をつけて」とは言いません。

「カギをかけたら
目で見て確かめて
次に手でドアを両方向に動かして確認するのよ」
と言っています。

「ちゃんと」という副詞を明確に言語化して伝えるようにしています。

どうでしょう?
あふれていませんか?
ケアやリハの現場で「ゆっくり」「丁寧に」「ちゃんと」「きちんと」という言葉

 

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死人テストってスゴい

死人テストとは
1965年に行動分析学のOgden Lindsley によって開発された
「死人にできることは行動ではない」
という行動の定義のことです。

行動とは
状態ではないし
否定形ではなく肯定形で表されるということを意味します。

逆に言えば
肯定のカタチでの世界への働きかけ・意思表明=生きる
ということです。

雷に打たれたような
とは、まさにこういう状態を言うのか
というような気持ちになりました。

死人テストってスゴい。
端的な言葉で奥深い概念を明確に示しています。

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目標設定と能力の把握

認知症のある方は
失われた能力をどんなにトレーニングしても再習得することはできない。
でも、埋もれていて表面化していない能力を見いだしてもらえれば
合理的に発揮できるように再習得することは可能です。

だから
リハやケアの分野において
生活障害やBPSDの改善に関して
能力を見いだすということがとても重要なポイントになってきます。

「認知症があってもできることはある」
と旗を振る人が増えてきたのは良いことだと思います。
でも、旗を振ってるだけでは個々の現実を善くしていくことはできない。

「意思」していれば現実が変わるわけではない
「意思」を行動のカタチで表現することが大切
ということは前の記事で記載した通りです。

「できることはある」ならば
今、どんな場面でどんな風にどのくらいのどういう能力が
現れているのか、明確に把握できるようになること
それこそが求められていることなのだと考えています。

そして
能力を見いだす
とは、一見綺麗で簡単な言葉ですが
おいそれとできることではありません。

「観測できれば干渉することができる
干渉することができれば制御することもできる
観測できないものには手の出しようがない」
とは、魔法少女☆まどかマギカでキュウべえのセリフですが
まさに。まさに。

見れども観えず。の状態から
観える。ようになるために
実は目標設定のトレーニングという
一見全然関係のないように思える事柄が非常に深く関与しているのです。

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自分にわかることしか観えない

古今東西、当たり前のことだと思いますが
私たちは自分にわかることしか観察できない。

その時の自分にわからないことは
見れども観えず。になってしまっています。

そこからスタートするしかない。

そこからスタートすれば
今まで観えていなかったコトが何なのか
注意を向けることができるようになります。
注意を向けることができれば観察することができるようになります。

その過程を繰り返すしかない。

ただし
ここは誤解されていることが多いようですが
注意を向けようと意思すればできるようになるわけではなくて
その「意思」を具体化する「行動」として
目標設定の基準と条件の明確化をするという「自分の能力」を発揮することによって
注意を向けるポイントが明確化されるのです。

意思しているだけでは変わらない
「意思」を「行動」として表現することが必要なのです。

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汎化していく

目標設定のトレーニング過程において
概念の明確な理解が要求されます。

実践において
すりかえられがち、混同されがちな
目標と目的と方法

言葉の使い方が曖昧ということは
概念の理解が曖昧ということを示しています。

自分コトとして
概念の区分けができるようになると
目標設定において
実は重要な臨床能力というものは
対象者の能力を見いだすというセラピストの能力である
ということが明確に理解できるようになってきます。

最初は大雑把にしか能力が把握できないセラピストでも
目標を目標として設定する過程において
否応もなく細分化された能力の把握を要求されるので
自分で自分をトレーニングするようになってきます。

もしかしたら
世の中には天才的にパッと対象者の能力を
感覚的に明確に把握できて
常に適切に対応することが可能なセラピストも
いるのかもしれません。
そういう人には関係ない話ですが
目の前にいる方にちゃんと役立てるようになりたい
少なくとも不毛なことはしないですむようになりたい
そう願っていた私にとっては切実な問題でした。

能力を細かく明確に把握することができる
ということと
目標を適切に設定できる
ということは
別の問題ではなく相当深いところで関連し合っている。

なぜなら
目標というのは行動のカタチで表される
行動というのは生きている人にしかできない

このことの意味に気がついた時には身震いしました。

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苦手なコトは武器になる

よく実習に来る学生さんに言っています。

今できないコトや苦手なコトは
苦しいけど、辛いけど、心配はいらないよ。

苦手なコトは武器になる
って言っています。

なんとなくできてしまうことは
できてしまうからこそ、人に伝えられなかったりする。
つまり、はっきり自分で理解できていなくてもできちゃう。
良くも悪くも。

苦手なコトに直面するのは辛いけど
苦手だからこそ明確に理解しようとするし
できないことがわかっているからこそ、できるようになったこともよくわかる。

なんとなくできちゃう人より
はっきりわかったうえでできるようになってる。

どうしようもないのは
困ることすらできないってこと

ピンチはチャンス☆なんです。

元・目標設定が全然わかっていなかったかつてのOTSより

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目標設定の研修会(平成29年度)

「よい目標が設定できる作業療法士になろう(仮)」
平成29年11月12日(日)に
作業療法総合研究所さん主催で開催される予定です。
まだ詳細は決定していませんが
速報として掲載されています。

養成校で
実習地で
必ず教えてもらう目標設定ですが
わかったようなわからないような
モヤモヤした気持ちになりませんでしたか (^^;

誰でもできそうで
案外できていないのがこの目標設定です。

老年期においてよく為される目標が
「現状維持」
「安全に移動できる」

この設定のどこがどう不適切なのか
言語化できますか?

目標と目標でないものの区別がつく
目標でないものを目標として設定できる

そうすると、その後の展開が変わってきます。

目標は対象者の目標なので
対象者とセラピストが恊働で設定することが要件ではありますが
恊働は言葉だけで為されるものではありません。
対象者のもう1つの言葉を聴き、提案することができるのは
Occupational Therapist の強みです。

重度の認知症のある方を対象にOTRとして働いているからこそ
自分の中で明確にする過程をもう1つのtaskとして行ってきたからこそ
お伝えすることができると感じています。

重度の認知症のある方とともに行ってきたOTによって
認知症でない方にも通じる普遍的なことを
(Act.設定や意味、注意点など)
ある程度の確かさをもって言えると感じています。

ありそうでないのが「目標設定」の研修会

詳細が決まりましたら
作業療法総合研究所さんのサイトに掲載される予定です。
そうしたら、こちらでもお知らせしますね (^^)

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特別なことではなく

OT Labでお話したように
私は自分で計画的に決めて実行してきたというより
肝心なことは結構その時々のコトに影響されやすかったりして
そんなにカッコよくはないOT人生なのです。

世間では
「私=認知症専門のOT」と言われるようになっていますが
それだって、なんだか、いつのまにかそうなっていたという。。。

その時々で
目の前にいる方に
ちゃんと役に立てるようになりたい
お題目を語るのではなくて
困りごとが少しでも少なくなるように
できれば善いことができるように
少なくとも、私が担当して悪くなることがないように
痛切にそのことは願い続けてきました。

私の話は(つまり実践は)
なんにも特別なことはしていなくて
本当に基本的なことを地道に積み上げてるだけなのです。

でも、だから
多くの人の臨床場面と重なることが多いのかもしれませんね。

私とある方との体験という個別のケースが
お話を聴いてくださった方とその方が担当している方にも
通じることになるのかも。

「個を突き詰めていくと普遍に通じる」
とは河合隼雄の言葉ですが
そのようにつながる実践やお話の途上に
もしも、私がいることができているとしたら
それは本当に心底嬉しいな。

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