Tag: コミュニケーション

コップで水分摂取の介助2

下唇にコップの縁を当ててから
コップを傾け
上唇に液体を触れるのを確認します。

そうすると
対象者のお身体が動きます。
動く場所は人によって異なります。
頭部だったり、背中だったり、顎だったり。
それが一口量のサインなのでコップの傾けを元に戻します。

してはいけないのは
コップを口角まで押し当てたり
一度に大量の水分を口腔内に「入れてあげて」はいけません。

対象者が「飲むのを援助」してください。

本当に多いのが
食事介助を「食べさせて」あげている人です。

本当に少ないのが
対象者が「食べることを援助」している人です。

言葉遊びではなくて
文字通りに
食べさせているから
飲ませているから
食べられなくなる
飲めなくなる
ということが起こっているのです。

そして
食べることを援助し
飲むことを援助すれば
もう一度食べたり飲んだりできるようになる方が
圧倒的に多いのです。

 

 

 

 

 

 

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前提の見直し

食事介助も水分摂取の介助も対応の工夫も
根本的に、暗黙の前提となっている私たちの認識の見直しが必要だと考えています。

認知症のある方の問題は
認知症という病気「だけ」のせいでは決してありません。

食べ方の問題は
対象者の能力低下、咽頭期の低下「だけ」のせいでは決してありません。

切り離して、疾患や障害「だけ」に問題設定をするのは
ICIDHに囚われている証です。

ICFで考えれば、疾患や障害があって尚且つ
能力を生かして暮らしていく術を見出し、協働によって実現することができる

相互作用の中にいるのは
対象者だけではなくて、私たち対人援助職も同じなんです。

 

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コップで水分摂取の介助

いやーご無沙汰しました。
1週間ぶりですね。
ちょっと色々と急を要することが立て続けにありまして (^^;

今、職場でトロミは最小限にしようと取り組んでいます。
本当にガッツリ、トロミをつけられると
マズいし、喉の奥にへばりついて気持ち悪いし
「ゴクゴク飲みたい」っておしゃられる方の気持ちもわかります。

「ムセたら困る」「ムセないように」という気持ちから
不必要にトロミをつけられたり
トロミの粘性をあげられたりしていることもあるんじゃないでしょうか?

それは、善意からの行動ではありますが
プロとしては根拠なしの行動によって
対象者に不利益をきたしてしまっている恐れもあり得ます。

必要最小限のトロミにする
と、必然的にスプーンではなく、コップから介助で水分摂取してもらう
という場面が出てきます。

ところが、コップからの水分摂取の介助方法については
これまた、スプーン操作と同様に、
どこに気をつけるか、どのようにコップを扱うか
ということについては明確に言葉にして教えてもらっていない方が
圧倒的に多い現状があります。

起こっているのは
「同じことが違うカタチ」で現れています。

飲ませているけれど、飲む介助になっていない。
食べさせていても、食べる介助になっていない。

目の前にいる方の、飲みにくさ・食べにくさは
決して、その方だけの病状進行などの原因ではありません。

次の記事で
具体的な操作方法について記載していきます。

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食べ方は連続性の中にある

人間の身体は
解剖学的にも生理学的にも連続しています。

食べるということは
摂食・嚥下5相の一連の流れの中にあり
相互に影響しあっています。

つながっているから

決して
咽頭期だけの問題などではありません。

VFやVEで咽頭期の機能が目に見えるようになったことは
良いことではありますが
それが全てではありません。

咽頭期は口腔期の影響を受けますし
口腔期は準備期の影響を受けています。

だからこそ
準備期(=スプーン操作)を変えることに意味があります。

シュレディンガーは言いました。
「大切なことは誰もが見ていることの中に
誰も考えたことがないことを考えること」

私は意図していたわけではありませんが
結果として誰もが見ていることの中に
誰も考えたことがないことを考えていました。

それは私の頭の中だけで生じたわけではなくて
目の前にいる方の食べ方をありのままに観察したことによって生じたものなのです。

 

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食事介助は相互関係の中にある

文字通り
食事介助は食べようとする方と介助する人との相互関係の中に成り立ちます。

たとえ
意識しようとしまいと

特に
準備期は食べようとする方に
介助する人のスプーン操作が直接影響します。

どんなに
重度の認知症のある方だとしても
適切なスプーン操作には適切に反応し正の学習が生じ
不適切なスプーン操作にも適切に反応し誤学習が生じます。

クリスティーン・ブライデン氏の
「異常な環境には異常な反応が正常だ」
というわけです。

本当に根深い誤解として
認知症のある方の食べ方を100%認知症のある方のせいにしてしまう
とりわけ咽頭期の問題に集約してしまう傾向がありますが
それは、ICIDHにまだまだ囚われていて脱却・卒業できていない
ということを意味していると感じています。

 

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対象者から始める

食事介助に関する相談で
「『自分が』うまく食べさせられない」という視点はあるけど
「対象者の食べ方が心配」という視点が少ないなーと感じています。

実は
非常に重要な視点の相違です。

たぶん、日本全国あるあるなのが
食べ方を観察せずに介助してしまう
その介助の過程において対象者の食べ方を観察していない
ムセの有無は気にするけど
というものです。

だから
相談の文言が
「口を開けて『くれない』」
「なかなか飲み込んで『くれない』」となっているのだと思います。

「口を開けようとしない」
「飲み込もうとしない」
ではなくて。

言葉は意思を表す
声は感情を表す

常々そう感じていますが
本当にそうだなー。。。

でも
『くれない』という言葉を使っているということは
前提として、介助者の介助に適応して『くれる』ものだと思っている
ということを意味してもいるということでもあります。

認識としては真逆ではありますが
(私たちが対象者の食べ方に合わせるのが本来の姿だと考えています)
根本的には、どこかで相互関係として把握しているということでもある。。。?

 

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偉大なるマンネリの効用2

作業に語らせる:輪くさり

認知症のある方は
作品作りでもゲームでも
ADLではない、何らかの余暇活動をする時には
「やり方を聞いて・理解して・覚えて・その通りに実行する」という
近時記憶が低下している方には至難の技を要求されます。

毎回毎回、異なる余暇活動に参加して
「楽しい」と感じることができるのは
「プラスの刺激」として楽しめるのは
かなり余力のある方だと思います。

やり方を聞いても理解できない
聞いたはずのやり方を覚えられない
実行しようとしても違うことはわかるけど、ちゃんとはできない

このような状態であれば
楽しいどころか、辛いだけです。

マンネリであったとしても
同じ活動を繰り返すことのメリットは
認知症のある方に再認を促しやすい
ということです。

そして
私たち援助者の側にしてみれば
同じ活動を繰り返すことで
認知症のある方の変化がわかりやすい
小さな変化も見逃さずに捉えやすい
ということもあります。

やたら怒りっぽい、多動になる
というような言動が見られた時に
実は発熱などの前兆だったということも多々あります。

マンネリは良くない
というのは、単なる私たちの思い込みです。

マンネリという状態には
プラスもマイナスもなく、ただ事実があるだけ
その事実をプラスの方向性に活かせるかどうか
それは、私たち次第なのだと考えています。

 

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ハウツー思考の弊害

「ヒトに関することで『こうすれば、ああなる』なんてことはない」
とは、養老孟司の言葉ですが
私も本当にその通りだと思っています。

ところが
ケアやリハの分野では
「こうすれば、ああなる」
「こういう時には、こうする」
という、ハウツー思考に基づいた対応が為されることも少なくありません。

例えば
「ムセたらトロミ」
「立ち上がりができない人には筋力強化」

トロミをつけたら、ますますムセるケースもありますし
立ち上がりができない人に筋力強化をしたら逆効果になるケースだってあります。
他にも、枚挙にいとまがありません。。。

対人援助職として働いていれば
困ることは山ほどあります。

本当は困った場面そのものに困りごとを解決するヒントがあるのですが
多くの場合に
「介助者を含めた困った場面」そのものを観察しようとするよりも
「困った場面を引き起こした対象者」に問題があると問題設定をして
その問題を解決するためには「こうしたら良い」という提案がなされがちです。

困りごとを引き起こしている対象者のために
なんとかしてあげたいといった善意の(でも独善の)気持ちから
あの手この手を試しても
良い結果が出せないと
必死になって対応した分、容易に反転、陰性感情が湧き上がります。

そもそもの問題設定が
「対象者の問題解決」なのですから
そこがズレています。

だから
良い結果が出なくて当たり前
陰性感情を抱いて当たり前
マイナスの悪循環になってしまう。。。

対象者は援助者の関与を含めた環境という横軸と
自身の人生という時間、縦軸とが絡み合う関係性に
反応し、働きかけをしています。
その結果が困ったカタチとして現れることもある。。。

それらの絡み合う関係性の観察・洞察、認識・判断を抜きにして
全てを対象者の問題として設定してしまうという独善
その独善性への自覚なく
自らの善意に基づいた行動の適否を検討することもなく
行動を一生懸命積み重ねれば積み重ねるほど
反転は激しく陰性感情は強く湧き起こってきます。

湧き起こった陰性感情を否定・抑圧すれば
介護うつやバーンアウトを引き起こしますし
否定・抑圧しない人は陰性感情を対象者に投影してしまいます。

今、虐待が問題視されていますが
虐待は結果として起こると考えています。

倫理や道徳、善意だけでは
対人援助はできません。
知識という武器を身につけなければ。

知識に基づいた観察・洞察・実践ができないと
安易にハウツー思考に頼ることになってしまいます。

本来は
知識に基づいた観察・洞察・実践ができるようになるために
自分自身が実践を通して学んでいかなくてはならないけれど
知識の習得とその時々での観察という最も地道な努力を放棄するから
ハウツー思考に陥ってしまう。
経験年数はあっても、経験年数に見合う観察・洞察を習得できないし
経験年数があればあるほど、地道な努力への抵抗を示すものです。
そして若手がその背中を見て同じように行動模倣する。。。
実習がccsに切り替わり、担当ケースの数が減り
自身の実践とともにPDCAを回した経験が少なくなれば
一層身近な対応例を規範とする人が増えるのは想像に難くありません。

ハウツー思考は、たまたま当たることもあるだけです。
「寄り添ったケア」というケアの崇高な理念にも逆行するものです。
虐待の温床でもあります。

結果として起こっている虐待を
「してはいけない」
と表面的に規制しても、虐待が隠蔽・陰湿化するだけで
本質的な解決にはならないと考えます。

ハウツー思考から脱却し
自身の関与を含めた場面の観察を徹底すれば
時間はかかっても結果として虐待を減らすことにも寄与できると考えています。

そのためにも
ハウツーに頼らなくても
場面の観察・洞察がきちんとできる人が増えなければ。。。

作業療法のギョーカイでは
「作業療法理論が必要」という人は少なくないけれど
本当かなぁ?

理論よりも先にもっと必要なのは
場面の観察・洞察が的確に行える、結果が出せる、臨床能力だと考えています。
理論はその次の段階で選択すべきものです。

理論だけあったって
認知症のある方に今何が起こっているのかを
解き明かせないのだとしたら
ピンポイントで適切な対応ができるわけがない。

認知症のある方の暮らしを支えるということに関して
移動や食事を含めたADLであれ
生活障害であれ
BPSDであれ
「どうしたら良いのか?」という本人・ご家族の切実な訴えに対して
改善・解決の道筋を具体的・現実的に提示できる臨床能力こそ
今、最優先で求められているものであり
磨かなければならないものであり
後進に伝えなければならないワザだと考えています。

そして
ワザが依拠するのは作業療法理論などではなくて
対象者が抱える病気そのものへの知識と
人間に関する心身の基本的な知識と
ICFが提示している相互関係論です。

基本の地道な習得と活用した実践の積み重ねができないから
安易な方向を選択・誤認するということがあちこちで起きている
その一つが、
現場あるあるな誤った常識であり
ハウツー思考なのだ
と感じています。

 

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