Tag: コミュニケーション

食事介助は相互関係の中にある

文字通り
食事介助は食べようとする方と介助する人との相互関係の中に成り立ちます。

たとえ
意識しようとしまいと

特に
準備期は食べようとする方に
介助する人のスプーン操作が直接影響します。

どんなに
重度の認知症のある方だとしても
適切なスプーン操作には適切に反応し正の学習が生じ
不適切なスプーン操作にも適切に反応し誤学習が生じます。

クリスティーン・ブライデン氏の
「異常な環境には異常な反応が正常だ」
というわけです。

本当に根深い誤解として
認知症のある方の食べ方を100%認知症のある方のせいにしてしまう
とりわけ咽頭期の問題に集約してしまう傾向がありますが
それは、ICIDHにまだまだ囚われていて脱却・卒業できていない
ということを意味していると感じています。

 

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対象者から始める

食事介助に関する相談で
「『自分が』うまく食べさせられない」という視点はあるけど
「対象者の食べ方が心配」という視点が少ないなーと感じています。

実は
非常に重要な視点の相違です。

たぶん、日本全国あるあるなのが
食べ方を観察せずに介助してしまう
その介助の過程において対象者の食べ方を観察していない
ムセの有無は気にするけど
というものです。

だから
相談の文言が
「口を開けて『くれない』」
「なかなか飲み込んで『くれない』」となっているのだと思います。

「口を開けようとしない」
「飲み込もうとしない」
ではなくて。

言葉は意思を表す
声は感情を表す

常々そう感じていますが
本当にそうだなー。。。

でも
『くれない』という言葉を使っているということは
前提として、介助者の介助に適応して『くれる』ものだと思っている
ということを意味してもいるということでもあります。

認識としては真逆ではありますが
(私たちが対象者の食べ方に合わせるのが本来の姿だと考えています)
根本的には、どこかで相互関係として把握しているということでもある。。。?

 

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偉大なるマンネリの効用2

作業に語らせる:輪くさり

認知症のある方は
作品作りでもゲームでも
ADLではない、何らかの余暇活動をする時には
「やり方を聞いて・理解して・覚えて・その通りに実行する」という
近時記憶が低下している方には至難の技を要求されます。

毎回毎回、異なる余暇活動に参加して
「楽しい」と感じることができるのは
「プラスの刺激」として楽しめるのは
かなり余力のある方だと思います。

やり方を聞いても理解できない
聞いたはずのやり方を覚えられない
実行しようとしても違うことはわかるけど、ちゃんとはできない

このような状態であれば
楽しいどころか、辛いだけです。

マンネリであったとしても
同じ活動を繰り返すことのメリットは
認知症のある方に再認を促しやすい
ということです。

そして
私たち援助者の側にしてみれば
同じ活動を繰り返すことで
認知症のある方の変化がわかりやすい
小さな変化も見逃さずに捉えやすい
ということもあります。

やたら怒りっぽい、多動になる
というような言動が見られた時に
実は発熱などの前兆だったということも多々あります。

マンネリは良くない
というのは、単なる私たちの思い込みです。

マンネリという状態には
プラスもマイナスもなく、ただ事実があるだけ
その事実をプラスの方向性に活かせるかどうか
それは、私たち次第なのだと考えています。

 

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ハウツー思考の弊害

「ヒトに関することで『こうすれば、ああなる』なんてことはない」
とは、養老孟司の言葉ですが
私も本当にその通りだと思っています。

ところが
ケアやリハの分野では
「こうすれば、ああなる」
「こういう時には、こうする」
という、ハウツー思考に基づいた対応が為されることも少なくありません。

例えば
「ムセたらトロミ」
「立ち上がりができない人には筋力強化」

トロミをつけたら、ますますムセるケースもありますし
立ち上がりができない人に筋力強化をしたら逆効果になるケースだってあります。
他にも、枚挙にいとまがありません。。。

対人援助職として働いていれば
困ることは山ほどあります。

本当は困った場面そのものに困りごとを解決するヒントがあるのですが
多くの場合に
「介助者を含めた困った場面」そのものを観察しようとするよりも
「困った場面を引き起こした対象者」に問題があると問題設定をして
その問題を解決するためには「こうしたら良い」という提案がなされがちです。

困りごとを引き起こしている対象者のために
なんとかしてあげたいといった善意の(でも独善の)気持ちから
あの手この手を試しても
良い結果が出せないと
必死になって対応した分、容易に反転、陰性感情が湧き上がります。

そもそもの問題設定が
「対象者の問題解決」なのですから
そこがズレています。

だから
良い結果が出なくて当たり前
陰性感情を抱いて当たり前
マイナスの悪循環になってしまう。。。

対象者は援助者の関与を含めた環境という横軸と
自身の人生という時間、縦軸とが絡み合う関係性に
反応し、働きかけをしています。
その結果が困ったカタチとして現れることもある。。。

それらの絡み合う関係性の観察・洞察、認識・判断を抜きにして
全てを対象者の問題として設定してしまうという独善
その独善性への自覚なく
自らの善意に基づいた行動の適否を検討することもなく
行動を一生懸命積み重ねれば積み重ねるほど
反転は激しく陰性感情は強く湧き起こってきます。

湧き起こった陰性感情を否定・抑圧すれば
介護うつやバーンアウトを引き起こしますし
否定・抑圧しない人は陰性感情を対象者に投影してしまいます。

今、虐待が問題視されていますが
虐待は結果として起こると考えています。

倫理や道徳、善意だけでは
対人援助はできません。
知識という武器を身につけなければ。

知識に基づいた観察・洞察・実践ができないと
安易にハウツー思考に頼ることになってしまいます。

本来は
知識に基づいた観察・洞察・実践ができるようになるために
自分自身が実践を通して学んでいかなくてはならないけれど
知識の習得とその時々での観察という最も地道な努力を放棄するから
ハウツー思考に陥ってしまう。
経験年数はあっても、経験年数に見合う観察・洞察を習得できないし
経験年数があればあるほど、地道な努力への抵抗を示すものです。
そして若手がその背中を見て同じように行動模倣する。。。
実習がccsに切り替わり、担当ケースの数が減り
自身の実践とともにPDCAを回した経験が少なくなれば
一層身近な対応例を規範とする人が増えるのは想像に難くありません。

ハウツー思考は、たまたま当たることもあるだけです。
「寄り添ったケア」というケアの崇高な理念にも逆行するものです。
虐待の温床でもあります。

結果として起こっている虐待を
「してはいけない」
と表面的に規制しても、虐待が隠蔽・陰湿化するだけで
本質的な解決にはならないと考えます。

ハウツー思考から脱却し
自身の関与を含めた場面の観察を徹底すれば
時間はかかっても結果として虐待を減らすことにも寄与できると考えています。

そのためにも
ハウツーに頼らなくても
場面の観察・洞察がきちんとできる人が増えなければ。。。

作業療法のギョーカイでは
「作業療法理論が必要」という人は少なくないけれど
本当かなぁ?

理論よりも先にもっと必要なのは
場面の観察・洞察が的確に行える、結果が出せる、臨床能力だと考えています。
理論はその次の段階で選択すべきものです。

理論だけあったって
認知症のある方に今何が起こっているのかを
解き明かせないのだとしたら
ピンポイントで適切な対応ができるわけがない。

認知症のある方の暮らしを支えるということに関して
移動や食事を含めたADLであれ
生活障害であれ
BPSDであれ
「どうしたら良いのか?」という本人・ご家族の切実な訴えに対して
改善・解決の道筋を具体的・現実的に提示できる臨床能力こそ
今、最優先で求められているものであり
磨かなければならないものであり
後進に伝えなければならないワザだと考えています。

そして
ワザが依拠するのは作業療法理論などではなくて
対象者が抱える病気そのものへの知識と
人間に関する心身の基本的な知識と
ICFが提示している相互関係論です。

基本の地道な習得と活用した実践の積み重ねができないから
安易な方向を選択・誤認するということがあちこちで起きている
その一つが、
現場あるあるな誤った常識であり
ハウツー思考なのだ
と感じています。

 

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記録は予習・復習が大事

私は勤務開始前に必ず前日の記録を確認します。
休み明けには休み中の記録に全て目を通します。

経過を把握する
ということが大事だと考えているからです。

今は電子カルテが導入されているところが多いと思いますし
当院でも使用していますが、本当に便利、助かります。

多部門の記録が一元化して表示されるので
経過の把握が容易です。

特に多忙なPSWとご家族とのやり取りの状況が把握できることや
処方の変更、検査結果などが即座に反映されるので
他職種とお互い話ができる時間を調整しなくても
すぐに確認できるので本当に便利です。

逆に
他職種から私の記録をもとにした会話が進んでいくこともあって
記録をちゃんと読んで把握してもらえるという実感があるから
記録も疎かにできないな
読んでもらうに値する記録を残さないと。と感じています。

そんな話をある人としていたら
「記録も予習・復習が大事」
と言われて、ハタと膝を打ちました。
本当にそう。。。
記録は活用しなくては。

記録は実践の証でもあるけれど
実践に役立てるため

一人ひとりの経過を把握していないと
その場しのぎのやっつけ仕事になってしまいます。
もちろん、心身の状態を見れば何があったのか推測することもできますが
その場合でも確認の根拠は必要です。

今日一日
より良いリハが実践できるために
記録の予習・復習が大事だし
予習・復習に値する記録が書けるためには
実践が大事。

やってもいないことは書けるはずがありません。

記録には実践が反映される

大雑把な記録は、大雑把な観察や実践を反映しているし
ポイントをつかんだ記録は、ポイントをつかんだ実践を反映しています。

実践ー観察ー記録
どこか、1つの部分でも努力をすると
その努力が適正であれば、他の部分もつられて改善されてきます。

実習生や若手は
良い記録から学ぶことが多々あるはずだし
指導する立場のスタッフは
良い記録を残すことで伝えることができることも多々あると感じています。

 

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ヘンな言葉「なじみの関係」2

リハやケアの分野で
常識のように言われ為されていることでも
吟味・検討すると、とてもおかしなことがあると記載しました。

その一つが
「なじみの関係」

認知症のある方を担当したら
毎朝部屋を訪問して挨拶に行く。とか
信頼関係を作ってからリハをする。とか

でも
私たちは毎朝顔を合わせているから
なじみの関係だから
相手を信頼しているわけではありません。

相手の言動や志など
信頼に値すると感じた何かに共鳴して信頼するわけで。

つまり、信頼関係は結果としてできるので
結果と目的を混同させるのは
現場あるあるですが、やっちゃいけないことでもあります。

ただし
本当はおかしなことなのに
ある分野で長く言い伝えられてしまっているには
相応の理由があるとも考えています。

その多くは、おそらく
部分的に効果があった体験がそれなりの数の蓄積があり
その体験が意味する本当の概念を知らずにいたために
誤認が起こってしまった。と考えています。

その概念の誤認を説きおこし
正確な知識をもとに本当の概念を明示することが必要
だと考えています。

そこで本題

「なじみの関係」は「再認+プラスの感情記憶」

この人といると
楽しい・安心できる・癒される。。。など
プラスの感情が湧き起こる。
感情記憶は残るし
「誰か」ということを再生できなくても
顔を見たり、名前を言われたりすれば
「この人だ!」と再認することができる。

人によってプラスの感情が湧き起こりやすい方向は異なります。
Aさんは楽しさに
Bさんは安心に
Cさんは癒しに。。。

再認しやすいきっかけは
人により時期により状況によっても異なります。

目の前にいる認知症のある方が
どんなコトにマイナスの感情を抱きやすく
どんなコトにプラスの感情を抱きやすいのか
評価・アセスメント・状態把握することが最優先で行うべきことであると考えています。

毎朝挨拶をしようがしまいが、本当は無関係で
たまたま毎朝の挨拶がその時の相手のキモだった
そしてそういうケースがある程度あった。。。ということだったのではないかしら?

だって
重度の認知症のある方でも
礼節保持されている方はとても多いし
それなのに認知症というだけで、ぞんざいな対応をするスタッフもまだまだいるし

そもそも
テレビで何らかの事件が起こった時に
被害者であれ加害者であれ
「ちゃんと挨拶する人」というコメントが必ずと言っていいほど流れるのは
それだけ私たちの社会の根底に「挨拶」が大切とすり込まれているのではないかしら?

だから
余計に
目の前にいる方にどうしたら良いのか
何もわからない、できない時に
すぐにできることとして「挨拶」が取り上げられてしまった

そして
部分的にでも効果的な体験の蓄積があり
現場では効果的な対応が切実に求められていたために
概念と実践のすり合わせを行う過程で「間に合わせ」が生じてしまった。。。
のではないかしら?

ハインリッヒの法則は
事故だけに限らずに適用されるように感じています。

事故は起きる必然がある
だからこそ、予防できる事故もある

ヘンな常識は伝わる必然がある
だからこそ、バージョンアップできる
正当な常識として生まれ変わらせられるものもある
そう考えています。

 

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ヘンな言葉「なじみの関係」

いまだに
「毎朝、挨拶に行って関係性を作る」
「なじみの関係を作る」
「信頼関係ができてからリハをする」
ということが言われているようですが。。。

おかしな言葉です。

第一に、時間がもったいないです。

認知症のある高齢者は
明日が確実にあるとは限りません。
基礎疾患を抱えている場合も少なくないし
突発的な体調変化は常に起こり得ます。

第二に
看護介護職員は
なじみの関係になっていようがいまいが
毎日のADLの援助をしなくてはいけません。
最初から大きな除外要件があるということは本質的ではないと考えています。

そしてこの言葉の最もヘンなことは
結果として起こることと目的を取り違えているということです。

普通に考えて
あなたは毎日会っている同僚や先輩や他職種をそれだけの理由で信頼していますか?
信頼している同僚や先輩や他職種の人は
あなたが信頼に足ると感じる何かがあるから信頼しているのではないですか?
毎日顔を合わせても信頼できない人っているでしょう?
言葉にしないだけで。

信頼関係は結果としてできる

大切なことは
自分が相手から信頼されるに足る人だと感じてもらえるような
援助ができることなのではないでしょうか。
その積み重ねで信頼してもらえる。

信頼してもらいたいのなら
まずは、こちらが相手を信頼しなければ。

どこかで
認知症のある方の能力を軽んじているから
毎日顔を合わせて挨拶するなんて発想を実行できるんじゃないかな?

「なじみの関係」という言葉から私が感じるのは
認知症のある方の能力を把握できていないんじゃないかな?
把握する術を知らないんじゃないかな?
ということです。
そんな方にオススメします。

「OT臨地実習ルートマップ」メジカルビュー社

この本の「認知症」のページは私が担当しました。
評価の進め方について記載してあります。
笑顔で「なじみの関係を作る」なと言いつつも
心のどこかで違和感を感じて
でも他にどうしようもないから違和感にフタをするしかなくて
そんな状況から抜け出したいと思っている人は読んでみてください。

そんなことはない!大丈夫!という人も
日本の各分野の第一人者がわかりやすく執筆しているので
若手作業療法士にも各分野の入門編としてオススメします。
本来は学生向けに企画された本ですが
いろいろな疾患・障害のある方を前にして
悩むことの多い若手作業療法士にとっても
実践的で臨床に役立つ良い本だと思います。

 

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ヘンな言葉「認知だから」

「認知だから」「認知の人」「認知のある方」

ギョーカイの人なら
あぁ、認知症のある方のことね。ってすぐにわかると思いますが
この言葉ってすごく変です。

実際、疑問に思われる一般の方もいました。
公民館に出向いて地域住民の方に
「認知症予防」のお話をした時のことです。
終わってからある人に声をかけられました。

「あの。。。ちょっといいですか?
今日の講演のことじゃないんですけど気になることがあって」

「『認知だから』『認知の人』って言葉をよく聞くんですけど
あれっておかしな言葉ですよね?」

その通りです。
日本語として成り立たない。
認知のある方って、認知があっていいじゃないですか。
認知、なければ困ります。

私はいつも
「認知症のある方」という言葉を使っています。
その時もいつもと同じように「認知症のある方」という言葉を使いました。
だから声をかけてくださったのだと思います。

「認知」
周囲が言っているから使っている
略して言うと専門家っぽく聞こえるから使う
と思っているのかな?

それこそ、メタ認知の観点からすれば
日本語として成り立たない言葉を使える人は
流行には敏感とか
周囲の状況に染まりやすいかもしれないけれど
物事をきちんと吟味・検討しているかどうかは別問題
ということを自分で世界に表明しているとも言えます。

気にしない人は全然気にしないでしょうけれど
きちんと検討している人からしたら
信頼の対象外と認識されてしまう恐れだってあります。

何よりも
末梢からの感覚・運動刺激の入力をコントロールすることで
中枢の機能の変革を仕事とするリハスタッフは
もっと言葉を吟味して扱う必要があるのではないでしょうか?

言葉を吟味して適切に扱うというトレーニングをすることで
普段のリハ場面でも場面設定や自らの言動に
もっとsensitiveになれる
もっと広く深く鋭敏になれるのではないでしょうか。

 

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