Tag: コミュニケーション

適切なスプーン操作は評価の入り口

適切なスプーン操作ができないと
対象者の方の準備期を阻害してしまいます。

準備期の過剰適応・誤学習が
口腔期を混乱させ
咽頭期を低下させてしまいます。

逆に言えば
適切なスプーン操作ができれば
対象者の方の本当の食べるチカラを現前させることができます。

ここからが本番

対象者の方の食べ方をよく観察すれば
食べることの困難と能力を洞察できるようになります。
(ただし、知識があればの話です)

食べることの困難と能力を洞察できるようになれば
どうしたら食べやすくなるのか
どうしたら今の状態でも食べられるようになるのか
長期的な見通しとともに今すぐにできることが自然と浮かび上がってきます。

だから
具体的にどうしたらいいのかがわかる

最初に
「〇〇という状態の方には、△△したら良い」があるわけではありません。

適切なスプーン操作ができることが
評価の入り口に立てるということなのです。

 

 

 

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嚥下5相は連続している

人の身体は
解剖学的にも生理的にも連続性があります。

嚥下5相は
それぞれの相が前後の相と関連しあっています。

あまり知られていないようですが
「飲み込みが悪い=咽頭期の問題」とは限りません。

準備期の不合理な能力発揮
つまり不適切なスプーン操作に代償的に適応した結果
口腔期の能力低下を来し
ひいては咽頭期の能力低下を来してしまう
ということは実は珍しいことではありません。

(続く)

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食事介助は準備期の協働

食事介助において
スプーン操作って想像以上に重要です。

ちょっとしたスプーン操作の違いで
食べやすくもなり
食べにくくもなります。

対象者の食べようとする働きを
促しもするし
阻害してしまうことすらあり得ます。

なぜなら
介助者のスプーン操作とは
対象者にとっては
嚥下5相準備期の協働を意味するからです。

(続く)

 

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頸部後屈位の方への対応

「認知症本人と家族介護者の語り」ディペックス・ジャパン

頸部後屈は誤嚥しやすい肢位だ
という知識があっても
実際の食事場面で
「あ、頸部後屈してる」と気がついても
どうしたら良いのかわからない、教えてもらっていない
という人はすごく多いのではないでしょうか。

お年寄りや認知症のある方、脳卒中後遺症で生活期にある方に
「首を起こしてね」と言ったり
枕を当てたりしても
後屈位が解消されず
「マズいことだ」と感じながらも
その現実を改善するためにどうしたら良いのかわからないと
とても怖いですよね。

そのような時には
頸部を前屈させようとしてはいけません。

頭部の重さを支えてあげてください。

介助者の手掌で支えながらの介助は疲れてしまうし
どうしても前屈させてしまうような力が入ってしまうので
手掌で支えるのではなく
介助者の前腕で対象者の頭部を支えてあげてください。

そうすると
対象者の後屈方向への力が抜けてきて
頸部中間位になってきます。

頸部後屈位で拘縮してしまったように感じる方でも
動きを感じられるケースがかなり多く見られます。

詳細は
「介護人材」という雑誌の特集「介護施設の『食』を考える」
イラスト入りで記載してありますのでご参照ください。

 

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困ることは成長への扉

困ることは成長できる機会なのだから
困れることは良いコト
成長できる良いチャンス

仕事をしていれば
さて、どうしよう?
と思うことはいくらでも巡ってくる

今までの自分からもう一歩成長できるチャンスなんだから
困ることができるのは真摯に仕事に自分に向き合っている証とも言える

今までの自分の見方を広げてくれたり深めてくれたり
一段と深いレベルで再確認させてくれたり
思いもよらぬブレークスルーへの扉だったりする

本当は
自分が困ったと自覚できるもっと前の段階で
何かしらの違和感があったはずなんだけど
自分にとって必要なことはカタチを変えて繰り返し起こる
自分にとって準備ができた時に「困る」という自覚を伴って
起こっていることが明確にわかるようになる

ピンチはチャンス
問題は目の前にあるのと同じように
解決への道筋も目の前にある

見ているだけではわからないことも
じっと観る
観ることができれば洞察できるようになる
そうすると自然と解決策も浮かび上がってくる

そのためには知識を身につけねば
身につけた知識を根拠に観察せねば

安寧のために
目をつぶり
耳を塞ぎ
口からその場しのぎの言葉を紡いでいるうちに
目を見開き
耳をすまし
問いかけるということを忘れてしまう

でもそれは、忘れただけで眠っているだけで失ってしまったわけではない

意図すればもう一度誰でも困れるようになる
困ることすらできない人から脱却できる

ただし
誰かから与えられるものではなくて
天から降ってくるものでもなくて
自らの手の中にあるものだから意思しなければ

学ぶということは
ラクになることではない

学ぶということは
知識や手技を鎧兜のように身につけることでもない

天高く
海深く
たった一人でも
飛翔するための翼を
潜泳するための鰭を
自らに見出す過程なのだと思う

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自立度を維持するための全介助:カタチと働き

ADLの自立度を維持するためには
例えば立ち上がりや移乗動作を維持するためには
全介助の場面を作ることが必要な場合もあります。

全介助によって身体の働きを高める機会を作る。

身体の働きを維持する、高めるために必要なことは
人によって異なります。

自立度を高めるためには
なんでも一人でやらせれば
一人でやる能力が維持できるとは限りません。

一人でやるだけの身体の働きを保てる

その部分をちゃんと観察・洞察・評価しなければ。

普段の移乗動作は自分一人で頑張ってやってもらって
リハの場面では全介助で両下肢で自重を支えながら抗重力伸展活動を行うことで
普段の移乗動作の自立度が保てる方もいれば
(自立度を保つために介助場面が必要)

普段の移動は杖歩行で自分一人で頑張って歩いていただき
リハの場面では杖を使わずに両下肢での動的バランスの維持を行うことで
普段の移動能力の自立度が保てる方もいる。
(自立度を保つために杖なしというより高い場面設定が必要)

移乗動作の自立度を維持するために一人でやらせれば維持できるわけではなく
移動能力の自立度を維持するために漫然と杖で長時間歩くだけでは維持できるとは限らない。

実際の動作という「カタチ」には
身体の困難だけではなく必然性も含めた身体の「働き」が反映されている
「働き」を観察・洞察・評価できれば
自ずと自立度を保つために必要なことが浮かび上がってくる。

「カタチ」だけ見て
「カタチ」だけ修正しようと
言うのではなく
「カタチ」に反映されている「働き」を観て
「働き」を高める(否定・修正するのではなく)方策を実践できる。

表面的には同じように見えるかもしれないけれど
全く異なる在りようと関与の仕方です。

 

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結果としてできるように:「前を向いて」?

身体に必要なことを
身体は常に行なっている。

必然があってしていることに対して
表面的に修正させようとして「言う」ことは
必然のある身体の対応を否定することになってしまいます。

下を向いて歩いているお年寄りのリハ場面で
「前を向いて」
「顔を上げて」
と「言う」。。。

でも
いくら「言って」も「直らない」
まさしく、文字通りに。

必然性のある身体の働きを否定されることは
身体にとって不利益になるから。
身体は身体を総体として守っている。

必然があって下を向いて歩いているのだから
下を向いている必然性のある身体の働きを観察・洞察・評価して
下を向くよりも前を向く方がより良い働きの反映になるように
身体の働きをトレーニング「できる」ようになることを考えるのがプロなんじゃないかな?

その時にすべきことは
「何回も言ってるでしょう?」と「言う」ことではなくて
言わなくても対象者の身体が「できるようにする」ことだよね。

身体が身体を守らなくても済むようになれば
総体としての働きがカタチになって現れる。

ここでも
食事介助と全く同じ問題が違うカタチで現れています。

「ちゃんと食べてね」
「口を開けて」
と「言う」のではなくて「できるようにする」

必然があって「ちゃんと食べない」「口を開けない」
その必然を観察・洞察・評価しなくては。

下を向いて歩いている必然性を観察・洞察・評価しなくては。

ちなみに
下を向いて歩いている方は
たいていの場合に、非麻痺側や骨折していない側の足の
遊脚期に足関節の背屈が起こらない「ベタ足歩き」になっていることが多いです。

「歩く時には良い方の足の動きに気をつける」

↑ の記事に書いていますが
いわゆる「問題のない」「良い」足のベタ足歩きがなくなってくると
結果として前を向いて歩けるようになってくる方がとても多かったです。

 

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結果としてできるように:「足を大きく前に」?

結果としてできるように
ということを考えています。

どういうことかというと
直接的には「させない」という意味です。

例えば
歩幅が狭いから歩幅を広く歩くように
「足をもっと前に出すように」とは「言わない」

「後に残っている脚の膝の裏側を伸ばすように」意識しながら歩いてもらいます。

つまり
大腿四頭筋を意識して使うのではなくて
ハムストリングスを動きの中で使うように促します。

「え?」と思った方は試してみて。
結果として足が前に出やすくなり
結果として歩幅が広くなるから。

廃用や低運動の問題として
「筋力低下」ってよく言われるけれど
私は疑問に感じています。

筋力低下は結果として起こっている
筋力低下をきたす必然がある
主要問題は身体の使い方、身体の働きの低下であって
筋力低下は二次的に起こっている。

ところが
現行の多くの方法論では
身体の働きを高めずに筋力を強化するから
筋力で過剰代償させてしまっているから
身体の働きを高めるどころか、低めてしまう。

その場の「やった感」「がんばった感」はあっても
動作の改善にはつながらず、身体を痛めてしまうから続けることが難しい。

何回も書いていますが
立ち上がり100回なんて百害あって一利なしですよー。

二次的に起こっていることに対して
表面的な対応だけしてしまうと
(そしてその対応は表面的にでも、見えているからこそセラピストも本人も必要だと誤認しやすい)
一時的には改善したように見えても
それは代償しているだけだから
本質的な改善にはつながらなくて
長期的には逆効果になってしまう。

不適切なスプーン操作にすら適応して誤学習が生じるのと
全く同じことが違うカタチで現れているだけ。

人間の身体は本当に凄い

環境を意識的・無意識的に感受し
総体として常に適応しようとしている。

 

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