Tag: コミュニケーション

Activityの選択

作業に語らせる:輪くさり

Activityの選択というのは、難しいものです。

「何もしないと認知症が進行しちゃうから何かさせよう」
「認知症進行予防のためにいろいろなプログラムを提供します」
という人もいるようですが。。。

私は、Activityの提供は慎重に検討しています。

「私、カラオケは好きよ。
だって、何も考えなくていいんだもの。」

この言葉は、HDS-R7/30点の方の言葉です。
胸がつまるような思いがしました。

朝から晩まで一日暮らすというだけで
考えなければならないいんだということが伝わってきました。

例えば
私は
服を着る時には、どういう順番でどのようにしたら着られるのか
ということは意識的に考えなくても着ることができます。
トイレに行きたい時には、迷うことなくトイレの場所に向かい
トイレ内での諸々の動作を済ませることができます。

遂行機能が低下したり
構成障害があったり
空間認知が低下したり
近時記憶が低下したり
そのような状況で以前にできていたことをするために
一つ一つ考え、緊張しながら過ごしている。。。

このあたりのことについては
当事者である、クリスティーン・ブライデンの本
「私は誰になっていくの?」「私は私になっていく」という本に詳細に記載されています。
ご一読をお勧めします。

冒頭に掲載した写真は
七夕の輪くさりを作ろうとして作れなかった写真です。

「輪くさりなら簡単だから作ってもらおう」
という人もいますが、実際には難しい人も大勢います。

このような作り方になってしまう方に対して
隣で「ここをこうしてこうするの」とお手本を見せても
何回も繰り返し教えても挑戦しても
作れるようにはならないことが多いのです。

輪くさりが悪いわけでも
作れなかった人が悪いわけでもありません。

今のAさんに対しては、輪くさりが不適切だった
ということなのです。

輪くさりは、
両手作業だし、手続き記憶としてあるものだし
認知症が進行しないようにやってもらおう
という意図は善意からのものですが
果たして、Aさんに対しては、プラスの刺激になったでしょうか?

何にもやらないより
できなかったとしてもやった方が良いなどと言えるでしょうか?

もし、そう言えるとしたら
Aさんが言える言葉であって私たちではないのではないでしょうか?

物理や数学が苦手な人に対して
物理や数学は論理的思考を鍛えるから
大人になっても毎日取り組んだ方が良いと言われて
本当に実践できるでしょうか?
その時間とエネルギーがプラスの刺激になったと言えるでしょうか?

普通に考えておかしなことを
リハやケアの名目で実施するのは、おかしなことです。

Activityの種目から考えてはいけない

「どうせ、ボケちゃってるからできなくたってわかんないわよ」
と言った人もいますが
決してそんなことはありません。

Activityを提供する立場にある、OTやケアワーカーさんなら
昔とった杵柄、若い頃によくしていたことを
良かれと思って提供したのに、
できなくて本人が落ち込んでしまった
あるいは見た目綺麗に上手にできているのに
ご本人はショックを受けて困ってしまった
という経験をしているはずなんです。

(続く)

 

 

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観察と洞察のチカラを磨く2

対人援助職の養成において
観察と洞察って最近はどんな風に扱われているのかはわかりません。

昔よりも
知っておくべきことが増えているということはわかる
それは知識と技術の集積が為されているという、とても貴重なことだと思う。

同時に
だからこそ、最も根本的なことが疎かになってしまっているんじゃないかな
という危惧もあります。

「見れども観えず」ということを痛感しています。

その時に自分が気になったことを見たいように見ていることを観察と誤解してる。

例えば
「食事場面で口を開けてくれない」という相談をされることが多いのですが
よくよく話を聞いてみると覚醒が悪いということが非常に多いです。

目で見えてはいても
「口を開けてくれれば介助できる→口を開けてくれないから介助できない」
という介助者の必要に迫られた観方になってしまうから
覚醒の悪さよりも開口しないということを観察してしまう。

まさしく
眼は外界の受容器で脳が認識するのだ
ということを実感させられますが。。。

例えば
車椅子で身体が傾いているからとクッションを当てたけれど傾いたまま
よくよく見てみると
単に座面が横にズレていただけで
座り直していただいたら真っ直ぐに座れた。とか。

このような比較的わかりやすいケースもあれば
繰り返し書いているように
なんでも「筋力低下」「廃用」「意欲低下」と判断するような
一見正当に思えるような、わかりにくいケースもあります。

対人援助職で観察していないという人はいないと思います。
でも観察力と洞察力を磨く重要性を身にしみて理解し
実践している人は、実はそう多くはありません。

だから
「観察は大事」と言われても
「そんな当たり前のこと、わかってるしやってるし、何を今さら」
って反感を覚えてしまうのだと思う。

でも、実は、反感ではなくて、本当は抵抗だったりします。

観察はしていても
観察が足りない
観察が部分的
観察が周囲の状況や観察者の必要や意図によって歪められている
ということは自戒していても起こります。
自戒できなければ必発します。

それらをどこかで感受しているからこそ
そして観察力・洞察力を磨くための努力をするためには
今の自分に向き合うことを要請されることをどこかで感受しているからこそ
「抵抗」するのであって
表向きにはそれが「否定」というカタチで現れているだけなんだと思っています。

観察力と洞察力を磨くことにゴールはない。
どんなに磨いても磨きすぎということはありません。

対象者の方も
援助者としての私たちも
相互関係論というICFの中にいるから

モノゴトの本質に触れ
本当に理解できるように促し
実践を続けられるようになるためには
臨床現場での実習、あるいは卒後養成という実践の場で
教え、学ぶことのような気がします。

観察力と洞察力の有無や多寡によって
こんなにも得られる情報の量も質も違ってくるんだよ
ということを学べる場は実践の場そのものであり
観察力と洞察力に秀でた先達と学ぼうと意思する人があって
成り立つものだと感じています。

 

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基本の習得=意味理解

目の前の対象者に
適切なスプーン操作ができるためには
スプーン操作の基本が習得できている必要があります。

なぜか
ここをすっ飛ばしてしまう人がいるんですよねぇ。。。
「寄り添った食事ケアを」と言いながらも。。。

摂食・嚥下5相を理解した上で
・食塊認識を確認できる
・スプーンをまっすぐ正面に差し出すことができる
・スプーンを奥に入れすぎずに下唇or前舌を操作できる
・上唇を丸めて取り込むことを促すように操作できる
・スプーンは斜め上に引き上げずに水平に引き抜くことができる
・一口量を調整できる

できるということは
意味の理解もできているから
行動として常に実行できるということ

摂食・嚥下5相という言葉を聞いたことがある、知っている
という人は多いと思いますが
自身のスプーン操作を摂食・嚥下5相と結びつけて
なぜそうしてはいけないのか、なぜそうする必要性があるのかを
理解している人は、残念ながらそう多くはありません。

自身のスプーン操作を摂食・嚥下5相と結びつけた理解ができていないから
目の前の対象者の食べ方を摂食・嚥下5相と結びつけた観察ができないのです。
自身のスプーン操作と他者のスプーン操作の違いすら認識できないのです。
スプーン操作の違いがどれだけ対象者の食べ方に影響を与えるのか想像もできないのです。

逆に言えば
そこを学べば変われるということです。

自身のスプーン操作を
摂食・嚥下5相と結びつけた理解の上で修正習得できるようになれば
対象者が必死になって食べようとしていることを身に染みてわかるようになります。

「ちゃんと食べてよ」
という言葉の残酷さを痛切に感じるようになるでしょう。

「認知症のある方も食べられるようになるスプーンテクニック」
という本には基本的なスプーン操作とその意味が具体的に記載してあります。
ここまで実践的に基本操作とその意味が記載されている本は他にありません。

摂食・嚥下5相と結びつけたスプーン操作の基本を習得することは
対象者の食べ方の評価の入り口に立てることを意味します。

基本は大切

高い志を掲げるのなら、なおのこと

 

 

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適切なスプーン操作は評価の入り口

適切なスプーン操作ができないと
対象者の方の準備期を阻害してしまいます。

準備期の過剰適応・誤学習が
口腔期を混乱させ
咽頭期を低下させてしまいます。

逆に言えば
適切なスプーン操作ができれば
対象者の方の本当の食べるチカラを現前させることができます。

ここからが本番

対象者の方の食べ方をよく観察すれば
食べることの困難と能力を洞察できるようになります。
(ただし、知識があればの話です)

食べることの困難と能力を洞察できるようになれば
どうしたら食べやすくなるのか
どうしたら今の状態でも食べられるようになるのか
長期的な見通しとともに今すぐにできることが自然と浮かび上がってきます。

だから
具体的にどうしたらいいのかがわかる

最初に
「〇〇という状態の方には、△△したら良い」があるわけではありません。

適切なスプーン操作ができることが
評価の入り口に立てるということなのです。

 

 

 

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嚥下5相は連続している

人の身体は
解剖学的にも生理的にも連続性があります。

嚥下5相は
それぞれの相が前後の相と関連しあっています。

あまり知られていないようですが
「飲み込みが悪い=咽頭期の問題」とは限りません。

準備期の不合理な能力発揮
つまり不適切なスプーン操作に代償的に適応した結果
口腔期の能力低下を来し
ひいては咽頭期の能力低下を来してしまう
ということは実は珍しいことではありません。

(続く)

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食事介助は準備期の協働

食事介助において
スプーン操作って想像以上に重要です。

ちょっとしたスプーン操作の違いで
食べやすくもなり
食べにくくもなります。

対象者の食べようとする働きを
促しもするし
阻害してしまうことすらあり得ます。

なぜなら
介助者のスプーン操作とは
対象者にとっては
嚥下5相準備期の協働を意味するからです。

(続く)

 

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頸部後屈位の方への対応

「認知症本人と家族介護者の語り」ディペックス・ジャパン

頸部後屈は誤嚥しやすい肢位だ
という知識があっても
実際の食事場面で
「あ、頸部後屈してる」と気がついても
どうしたら良いのかわからない、教えてもらっていない
という人はすごく多いのではないでしょうか。

お年寄りや認知症のある方、脳卒中後遺症で生活期にある方に
「首を起こしてね」と言ったり
枕を当てたりしても
後屈位が解消されず
「マズいことだ」と感じながらも
その現実を改善するためにどうしたら良いのかわからないと
とても怖いですよね。

そのような時には
頸部を前屈させようとしてはいけません。

頭部の重さを支えてあげてください。

介助者の手掌で支えながらの介助は疲れてしまうし
どうしても前屈させてしまうような力が入ってしまうので
手掌で支えるのではなく
介助者の前腕で対象者の頭部を支えてあげてください。

そうすると
対象者の後屈方向への力が抜けてきて
頸部中間位になってきます。

頸部後屈位で拘縮してしまったように感じる方でも
動きを感じられるケースがかなり多く見られます。

詳細は
「介護人材」という雑誌の特集「介護施設の『食』を考える」
イラスト入りで記載してありますのでご参照ください。

 

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困ることは成長への扉

困ることは成長できる機会なのだから
困れることは良いコト
成長できる良いチャンス

仕事をしていれば
さて、どうしよう?
と思うことはいくらでも巡ってくる

今までの自分からもう一歩成長できるチャンスなんだから
困ることができるのは真摯に仕事に自分に向き合っている証とも言える

今までの自分の見方を広げてくれたり深めてくれたり
一段と深いレベルで再確認させてくれたり
思いもよらぬブレークスルーへの扉だったりする

本当は
自分が困ったと自覚できるもっと前の段階で
何かしらの違和感があったはずなんだけど
自分にとって必要なことはカタチを変えて繰り返し起こる
自分にとって準備ができた時に「困る」という自覚を伴って
起こっていることが明確にわかるようになる

ピンチはチャンス
問題は目の前にあるのと同じように
解決への道筋も目の前にある

見ているだけではわからないことも
じっと観る
観ることができれば洞察できるようになる
そうすると自然と解決策も浮かび上がってくる

そのためには知識を身につけねば
身につけた知識を根拠に観察せねば

安寧のために
目をつぶり
耳を塞ぎ
口からその場しのぎの言葉を紡いでいるうちに
目を見開き
耳をすまし
問いかけるということを忘れてしまう

でもそれは、忘れただけで眠っているだけで失ってしまったわけではない

意図すればもう一度誰でも困れるようになる
困ることすらできない人から脱却できる

ただし
誰かから与えられるものではなくて
天から降ってくるものでもなくて
自らの手の中にあるものだから意思しなければ

学ぶということは
ラクになることではない

学ぶということは
知識や手技を鎧兜のように身につけることでもない

天高く
海深く
たった一人でも
飛翔するための翼を
潜泳するための鰭を
自らに見出す過程なのだと思う

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