Tag: コミュニケーション

記録は予習・復習が大事

私は勤務開始前に必ず前日の記録を確認します。
休み明けには休み中の記録に全て目を通します。

経過を把握する
ということが大事だと考えているからです。

今は電子カルテが導入されているところが多いと思いますし
当院でも使用していますが、本当に便利、助かります。

多部門の記録が一元化して表示されるので
経過の把握が容易です。

特に多忙なPSWとご家族とのやり取りの状況が把握できることや
処方の変更、検査結果などが即座に反映されるので
他職種とお互い話ができる時間を調整しなくても
すぐに確認できるので本当に便利です。

逆に
他職種から私の記録をもとにした会話が進んでいくこともあって
記録をちゃんと読んで把握してもらえるという実感があるから
記録も疎かにできないな
読んでもらうに値する記録を残さないと。と感じています。

そんな話をある人としていたら
「記録も予習・復習が大事」
と言われて、ハタと膝を打ちました。
本当にそう。。。
記録は活用しなくては。

記録は実践の証でもあるけれど
実践に役立てるため

一人ひとりの経過を把握していないと
その場しのぎのやっつけ仕事になってしまいます。
もちろん、心身の状態を見れば何があったのか推測することもできますが
その場合でも確認の根拠は必要です。

今日一日
より良いリハが実践できるために
記録の予習・復習が大事だし
予習・復習に値する記録が書けるためには
実践が大事。

やってもいないことは書けるはずがありません。

記録には実践が反映される

大雑把な記録は、大雑把な観察や実践を反映しているし
ポイントをつかんだ記録は、ポイントをつかんだ実践を反映しています。

実践ー観察ー記録
どこか、1つの部分でも努力をすると
その努力が適正であれば、他の部分もつられて改善されてきます。

実習生や若手は
良い記録から学ぶことが多々あるはずだし
指導する立場のスタッフは
良い記録を残すことで伝えることができることも多々あると感じています。

 

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ヘンな言葉「なじみの関係」2

リハやケアの分野で
常識のように言われ為されていることでも
吟味・検討すると、とてもおかしなことがあると記載しました。

その一つが
「なじみの関係」

認知症のある方を担当したら
毎朝部屋を訪問して挨拶に行く。とか
信頼関係を作ってからリハをする。とか

でも
私たちは毎朝顔を合わせているから
なじみの関係だから
相手を信頼しているわけではありません。

相手の言動や志など
信頼に値すると感じた何かに共鳴して信頼するわけで。

つまり、信頼関係は結果としてできるので
結果と目的を混同させるのは
現場あるあるですが、やっちゃいけないことでもあります。

ただし
本当はおかしなことなのに
ある分野で長く言い伝えられてしまっているには
相応の理由があるとも考えています。

その多くは、おそらく
部分的に効果があった体験がそれなりの数の蓄積があり
その体験が意味する本当の概念を知らずにいたために
誤認が起こってしまった。と考えています。

その概念の誤認を説きおこし
正確な知識をもとに本当の概念を明示することが必要
だと考えています。

そこで本題

「なじみの関係」は「再認+プラスの感情記憶」

この人といると
楽しい・安心できる・癒される。。。など
プラスの感情が湧き起こる。
感情記憶は残るし
「誰か」ということを再生できなくても
顔を見たり、名前を言われたりすれば
「この人だ!」と再認することができる。

人によってプラスの感情が湧き起こりやすい方向は異なります。
Aさんは楽しさに
Bさんは安心に
Cさんは癒しに。。。

再認しやすいきっかけは
人により時期により状況によっても異なります。

目の前にいる認知症のある方が
どんなコトにマイナスの感情を抱きやすく
どんなコトにプラスの感情を抱きやすいのか
評価・アセスメント・状態把握することが最優先で行うべきことであると考えています。

毎朝挨拶をしようがしまいが、本当は無関係で
たまたま毎朝の挨拶がその時の相手のキモだった
そしてそういうケースがある程度あった。。。ということだったのではないかしら?

だって
重度の認知症のある方でも
礼節保持されている方はとても多いし
それなのに認知症というだけで、ぞんざいな対応をするスタッフもまだまだいるし

そもそも
テレビで何らかの事件が起こった時に
被害者であれ加害者であれ
「ちゃんと挨拶する人」というコメントが必ずと言っていいほど流れるのは
それだけ私たちの社会の根底に「挨拶」が大切とすり込まれているのではないかしら?

だから
余計に
目の前にいる方にどうしたら良いのか
何もわからない、できない時に
すぐにできることとして「挨拶」が取り上げられてしまった

そして
部分的にでも効果的な体験の蓄積があり
現場では効果的な対応が切実に求められていたために
概念と実践のすり合わせを行う過程で「間に合わせ」が生じてしまった。。。
のではないかしら?

ハインリッヒの法則は
事故だけに限らずに適用されるように感じています。

事故は起きる必然がある
だからこそ、予防できる事故もある

ヘンな常識は伝わる必然がある
だからこそ、バージョンアップできる
正当な常識として生まれ変わらせられるものもある
そう考えています。

 

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ヘンな言葉「なじみの関係」

いまだに
「毎朝、挨拶に行って関係性を作る」
「なじみの関係を作る」
「信頼関係ができてからリハをする」
ということが言われているようですが。。。

おかしな言葉です。

第一に、時間がもったいないです。

認知症のある高齢者は
明日が確実にあるとは限りません。
基礎疾患を抱えている場合も少なくないし
突発的な体調変化は常に起こり得ます。

第二に
看護介護職員は
なじみの関係になっていようがいまいが
毎日のADLの援助をしなくてはいけません。
最初から大きな除外要件があるということは本質的ではないと考えています。

そしてこの言葉の最もヘンなことは
結果として起こることと目的を取り違えているということです。

普通に考えて
あなたは毎日会っている同僚や先輩や他職種をそれだけの理由で信頼していますか?
信頼している同僚や先輩や他職種の人は
あなたが信頼に足ると感じる何かがあるから信頼しているのではないですか?
毎日顔を合わせても信頼できない人っているでしょう?
言葉にしないだけで。

信頼関係は結果としてできる

大切なことは
自分が相手から信頼されるに足る人だと感じてもらえるような
援助ができることなのではないでしょうか。
その積み重ねで信頼してもらえる。

信頼してもらいたいのなら
まずは、こちらが相手を信頼しなければ。

どこかで
認知症のある方の能力を軽んじているから
毎日顔を合わせて挨拶するなんて発想を実行できるんじゃないかな?

「なじみの関係」という言葉から私が感じるのは
認知症のある方の能力を把握できていないんじゃないかな?
把握する術を知らないんじゃないかな?
ということです。
そんな方にオススメします。

「OT臨地実習ルートマップ」メジカルビュー社

この本の「認知症」のページは私が担当しました。
評価の進め方について記載してあります。
笑顔で「なじみの関係を作る」なと言いつつも
心のどこかで違和感を感じて
でも他にどうしようもないから違和感にフタをするしかなくて
そんな状況から抜け出したいと思っている人は読んでみてください。

そんなことはない!大丈夫!という人も
日本の各分野の第一人者がわかりやすく執筆しているので
若手作業療法士にも各分野の入門編としてオススメします。
本来は学生向けに企画された本ですが
いろいろな疾患・障害のある方を前にして
悩むことの多い若手作業療法士にとっても
実践的で臨床に役立つ良い本だと思います。

 

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ヘンな言葉「認知だから」

「認知だから」「認知の人」「認知のある方」

ギョーカイの人なら
あぁ、認知症のある方のことね。ってすぐにわかると思いますが
この言葉ってすごく変です。

実際、疑問に思われる一般の方もいました。
公民館に出向いて地域住民の方に
「認知症予防」のお話をした時のことです。
終わってからある人に声をかけられました。

「あの。。。ちょっといいですか?
今日の講演のことじゃないんですけど気になることがあって」

「『認知だから』『認知の人』って言葉をよく聞くんですけど
あれっておかしな言葉ですよね?」

その通りです。
日本語として成り立たない。
認知のある方って、認知があっていいじゃないですか。
認知、なければ困ります。

私はいつも
「認知症のある方」という言葉を使っています。
その時もいつもと同じように「認知症のある方」という言葉を使いました。
だから声をかけてくださったのだと思います。

「認知」
周囲が言っているから使っている
略して言うと専門家っぽく聞こえるから使う
と思っているのかな?

それこそ、メタ認知の観点からすれば
日本語として成り立たない言葉を使える人は
流行には敏感とか
周囲の状況に染まりやすいかもしれないけれど
物事をきちんと吟味・検討しているかどうかは別問題
ということを自分で世界に表明しているとも言えます。

気にしない人は全然気にしないでしょうけれど
きちんと検討している人からしたら
信頼の対象外と認識されてしまう恐れだってあります。

何よりも
末梢からの感覚・運動刺激の入力をコントロールすることで
中枢の機能の変革を仕事とするリハスタッフは
もっと言葉を吟味して扱う必要があるのではないでしょうか?

言葉を吟味して適切に扱うというトレーニングをすることで
普段のリハ場面でも場面設定や自らの言動に
もっとsensitiveになれる
もっと広く深く鋭敏になれるのではないでしょうか。

 

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ヘンな言葉

認知症のある方への対応について
よくよく考えるとすごくおかしいのに
昔から言われているからと
吟味検討もせずに
そのまま伝えられている言葉がいくつもあります。

言葉は概念を現します。

適切に言葉を扱えないということは
適切に概念を扱えていない
つまり実践の根幹を成す概念が疎かになっているということは
実践そのものが疑われてしまいかねないということを意味しています。

実際に
言葉の不適切さについて疑問を呈した方もいます。
(後述します)

ご家族の中には
一般企業で丁寧にお仕事に向き合っていられる方も大勢いらっしゃいます。
論理的思考についてものすごくトレーニングされている方も大勢いらっしゃいます。

面と向かっては言わないだけで
ケアやリハで飛び交う言葉に疑問を抱いている方だっていらっしゃるのではないでしょうか?

 

 

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Activityの選択

作業に語らせる:輪くさり

Activityの選択というのは、難しいものです。

「何もしないと認知症が進行しちゃうから何かさせよう」
「認知症進行予防のためにいろいろなプログラムを提供します」
という人もいるようですが。。。

私は、Activityの提供は慎重に検討しています。

「私、カラオケは好きよ。
だって、何も考えなくていいんだもの。」

この言葉は、HDS-R7/30点の方の言葉です。
胸がつまるような思いがしました。

朝から晩まで一日暮らすというだけで
考えなければならないいんだということが伝わってきました。

例えば
私は
服を着る時には、どういう順番でどのようにしたら着られるのか
ということは意識的に考えなくても着ることができます。
トイレに行きたい時には、迷うことなくトイレの場所に向かい
トイレ内での諸々の動作を済ませることができます。

遂行機能が低下したり
構成障害があったり
空間認知が低下したり
近時記憶が低下したり
そのような状況で以前にできていたことをするために
一つ一つ考え、緊張しながら過ごしている。。。

このあたりのことについては
当事者である、クリスティーン・ブライデンの本
「私は誰になっていくの?」「私は私になっていく」という本に詳細に記載されています。
ご一読をお勧めします。

冒頭に掲載した写真は
七夕の輪くさりを作ろうとして作れなかった写真です。

「輪くさりなら簡単だから作ってもらおう」
という人もいますが、実際には難しい人も大勢います。

このような作り方になってしまう方に対して
隣で「ここをこうしてこうするの」とお手本を見せても
何回も繰り返し教えても挑戦しても
作れるようにはならないことが多いのです。

輪くさりが悪いわけでも
作れなかった人が悪いわけでもありません。

今のAさんに対しては、輪くさりが不適切だった
ということなのです。

輪くさりは、
両手作業だし、手続き記憶としてあるものだし
認知症が進行しないようにやってもらおう
という意図は善意からのものですが
果たして、Aさんに対しては、プラスの刺激になったでしょうか?

何にもやらないより
できなかったとしてもやった方が良いなどと言えるでしょうか?

もし、そう言えるとしたら
Aさんが言える言葉であって私たちではないのではないでしょうか?

物理や数学が苦手な人に対して
物理や数学は論理的思考を鍛えるから
大人になっても毎日取り組んだ方が良いと言われて
本当に実践できるでしょうか?
その時間とエネルギーがプラスの刺激になったと言えるでしょうか?

普通に考えておかしなことを
リハやケアの名目で実施するのは、おかしなことです。

Activityの種目から考えてはいけない

「どうせ、ボケちゃってるからできなくたってわかんないわよ」
と言った人もいますが
決してそんなことはありません。

Activityを提供する立場にある、OTやケアワーカーさんなら
昔とった杵柄、若い頃によくしていたことを
良かれと思って提供したのに、
できなくて本人が落ち込んでしまった
あるいは見た目綺麗に上手にできているのに
ご本人はショックを受けて困ってしまった
という経験をしているはずなんです。

(続く)

 

 

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観察と洞察のチカラを磨く2

対人援助職の養成において
観察と洞察って最近はどんな風に扱われているのかはわかりません。

昔よりも
知っておくべきことが増えているということはわかる
それは知識と技術の集積が為されているという、とても貴重なことだと思う。

同時に
だからこそ、最も根本的なことが疎かになってしまっているんじゃないかな
という危惧もあります。

「見れども観えず」ということを痛感しています。

その時に自分が気になったことを見たいように見ていることを観察と誤解してる。

例えば
「食事場面で口を開けてくれない」という相談をされることが多いのですが
よくよく話を聞いてみると覚醒が悪いということが非常に多いです。

目で見えてはいても
「口を開けてくれれば介助できる→口を開けてくれないから介助できない」
という介助者の必要に迫られた観方になってしまうから
覚醒の悪さよりも開口しないということを観察してしまう。

まさしく
眼は外界の受容器で脳が認識するのだ
ということを実感させられますが。。。

例えば
車椅子で身体が傾いているからとクッションを当てたけれど傾いたまま
よくよく見てみると
単に座面が横にズレていただけで
座り直していただいたら真っ直ぐに座れた。とか。

このような比較的わかりやすいケースもあれば
繰り返し書いているように
なんでも「筋力低下」「廃用」「意欲低下」と判断するような
一見正当に思えるような、わかりにくいケースもあります。

対人援助職で観察していないという人はいないと思います。
でも観察力と洞察力を磨く重要性を身にしみて理解し
実践している人は、実はそう多くはありません。

だから
「観察は大事」と言われても
「そんな当たり前のこと、わかってるしやってるし、何を今さら」
って反感を覚えてしまうのだと思う。

でも、実は、反感ではなくて、本当は抵抗だったりします。

観察はしていても
観察が足りない
観察が部分的
観察が周囲の状況や観察者の必要や意図によって歪められている
ということは自戒していても起こります。
自戒できなければ必発します。

それらをどこかで感受しているからこそ
そして観察力・洞察力を磨くための努力をするためには
今の自分に向き合うことを要請されることをどこかで感受しているからこそ
「抵抗」するのであって
表向きにはそれが「否定」というカタチで現れているだけなんだと思っています。

観察力と洞察力を磨くことにゴールはない。
どんなに磨いても磨きすぎということはありません。

対象者の方も
援助者としての私たちも
相互関係論というICFの中にいるから

モノゴトの本質に触れ
本当に理解できるように促し
実践を続けられるようになるためには
臨床現場での実習、あるいは卒後養成という実践の場で
教え、学ぶことのような気がします。

観察力と洞察力の有無や多寡によって
こんなにも得られる情報の量も質も違ってくるんだよ
ということを学べる場は実践の場そのものであり
観察力と洞察力に秀でた先達と学ぼうと意思する人があって
成り立つものだと感じています。

 

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基本の習得=意味理解

目の前の対象者に
適切なスプーン操作ができるためには
スプーン操作の基本が習得できている必要があります。

なぜか
ここをすっ飛ばしてしまう人がいるんですよねぇ。。。
「寄り添った食事ケアを」と言いながらも。。。

摂食・嚥下5相を理解した上で
・食塊認識を確認できる
・スプーンをまっすぐ正面に差し出すことができる
・スプーンを奥に入れすぎずに下唇or前舌を操作できる
・上唇を丸めて取り込むことを促すように操作できる
・スプーンは斜め上に引き上げずに水平に引き抜くことができる
・一口量を調整できる

できるということは
意味の理解もできているから
行動として常に実行できるということ

摂食・嚥下5相という言葉を聞いたことがある、知っている
という人は多いと思いますが
自身のスプーン操作を摂食・嚥下5相と結びつけて
なぜそうしてはいけないのか、なぜそうする必要性があるのかを
理解している人は、残念ながらそう多くはありません。

自身のスプーン操作を摂食・嚥下5相と結びつけた理解ができていないから
目の前の対象者の食べ方を摂食・嚥下5相と結びつけた観察ができないのです。
自身のスプーン操作と他者のスプーン操作の違いすら認識できないのです。
スプーン操作の違いがどれだけ対象者の食べ方に影響を与えるのか想像もできないのです。

逆に言えば
そこを学べば変われるということです。

自身のスプーン操作を
摂食・嚥下5相と結びつけた理解の上で修正習得できるようになれば
対象者が必死になって食べようとしていることを身に染みてわかるようになります。

「ちゃんと食べてよ」
という言葉の残酷さを痛切に感じるようになるでしょう。

「認知症のある方も食べられるようになるスプーンテクニック」
という本には基本的なスプーン操作とその意味が具体的に記載してあります。
ここまで実践的に基本操作とその意味が記載されている本は他にありません。

摂食・嚥下5相と結びつけたスプーン操作の基本を習得することは
対象者の食べ方の評価の入り口に立てることを意味します。

基本は大切

高い志を掲げるのなら、なおのこと

 

 

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