Tag: コミュニケーション

リハサマリーの工夫

記憶の連続性の低下が見落とされている

当院に入院される方は
施設やご自宅からといろいろです。

ご自宅から入院される方の場合では
ケアマネさんは、ほぼ100%に近い形で在宅サマリーを送ってくれます。
何らかの理由で他の医療機関に入院されていた方の場合では
病院のリハスタッフからは、どの病院であっても
ほぼ100%、サマリーを送ってもらえます。
激務の中、本当に頭が下がります。
 
一方、施設から入所される方の場合では
老健から来られる方でサマリーをいただける場合は少ないのが現状です。
病状改善した患者さんが当院から老健に入所されるにあたって、
こちらからサマリーを送ってもお礼状が来なかったり
その老健から他の方が当院に入院される時に、
リハサマリーが送られてこないこともあります。。。
まぁ、そういうところなんだと思うだけですけど。

でも、サマリーを送ってくださる老健も少数ながらちゃんとあって
本当にありがたい限りです。

そんなわけで
私も可能な限り、リハサマリーを送るようにしています。

病状改善し、当院を退院する時には
退院先が老健であれ、特養であれ、グループホームであれ、在宅であれ
退院先を問わずにサマリーを記載します。

一方、転倒骨折やCVA発症などで他院に転院することもあります。
そのような時にもリハサマリーを送っています。

転倒骨折であれば、骨折前の歩容や移動能力については
転院先のリハスタッフが欲しい情報の一つだと思いますし
転院先での認知症のある方へのリハが少しでも進展するように
どのような声かけであれば理解しやすいのか
混乱せずに済むように、回避すべき場面はどんな場面か
会話の糸口やAct.の参考になるように、
その方が好きなこと、若い頃の職業や趣味、得意なことや好きな歌や歌手名を伝えたり
こちらでの実践や対応の工夫を記載するようにしています。

また、リハサマリーを受け取った時にちょっとした工夫もしています。
お礼状をすぐに出すのではなくて、1週間くらい経ってから
直近のご様子も含めて伝えるようにしています。

私だったら、元気かな?頑張っているかな?と心配だし
そんなコメントをもらえたら、やっぱり嬉しいですし。

専門職がどんどん増え、対象者が利用するサービスが多様化している中にあって
連携のキーワードの一つが情報共有だと思います。

でも、連携のための連携にならないように
対象者のリハが進展するようにという本来の目的を忘れないように
気をつけています。

関連記事
「伝達するときは具体的に/意味も添えて」もご参照ください。

 

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「あそこに行く!」

転倒リスクの高い方が
食堂からパントリーを指さして
「あそこに行く!」と言って立ち上がろうとしています。

(あそこに行って何をしたいんですか?)と尋ねたら
「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」と答えました。

パントリーには食べおわった食器が並んでいます。
パントリーの向こうは廊下です。

さて
あなただったら、どう対応しますか?

答えは
今週の土曜日、2月19日に掲載します。

 

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連携について:実践的な考え方と工夫

オミアシヲアゲテクダサイ

多職種連携、チームアプローチは
古くて新しい課題
私が学生の頃から課題として取り上げられていました。

作業療法は、
確かにさまざまな知見を集積・発展してきたと感じています。
一方で、本質的な課題ほど
私が学生の頃と比べてあまり改善が為されていないように感じています。

例えば
目標設定について
評価について(検査やバッテリーではなく状態像把握という意味)
多職種連携、チームアプローチについて

目標を目標というカタチで設定できず目的や治療内容と混同していたり
検査やバッテリーをとっても、
結果を対応に活用せずに評価と乖離した実践をしていたり
対象者のための連携ではなくて連携のための連携にすり替わっていたり。。。
 
就職したての作業療法士が困惑し
先輩に相談しても本心から納得できるような援助が得られず
提示された表面的な対応をやってみるしかない
そしてあまり効果がないにもかかわらず
代替案がないのでなんだかなぁと思いつつも
なんとなく口を濁してしまう以外の手が見つからない。。。
実習生や新卒に指導する時にも
実は内心困惑しながら指導しているうちに
数年経つと困惑すら感じないようになってしまう。。。
といった状況が昔も今も変わらずあるんじゃないかなぁ。。。?

私は臨床家として
対象者の役に立てるようになりたいと必死になって考えてきました。
良いと言われたものは必ず自分で実践して
どこがどう良くて
どこがどう使えないのか
事実に即して具体的に考えながら
抽象化・言語化するという過程を実践してきました。

それらについては
講演や論文という形でも世に問い続けてきましたが
総まとめとして別の形でもまとめてありますので
よかったらご参照ください。

目標設定について

関与しながらの観察について

今回、多職種連携・チームアプローチについて
実践的な考え方と工夫について概観できるように連載記事を書きました。

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連携について

1 飲みニュケーションでは連携の問題を改善できない
2 プロのチームスポーツに学ぶ
3 連携という抽象論ではなく具体的に改善していく
4 情報伝達において前提要件を認識する
5 看護介護職は変則交代勤務
6 情報伝達の工夫:使う場所に情報提供
7 対象者が変われば職員も変わる
8 そもそも何のための連携?
9 たったひとりでも変わる意義

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日々の実践を高め深めるための臨床家としての提言です。

 

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Activityの提供:本当にあったこと2

ずいぶん昔の話ですけど
私が毛糸を巻き取っていたら
ある人に
「それならXさんでもできそうだから、やらせてみたら?」
と言われたことがあります。

Xさんは、90歳代の男性で長く農業を営んでいた方です。
確かにXさんなら動作的にはできそうです。
でも。。。

今でこそ、男女同権(に近い)。
夫婦揃ってお買い物したり
男性が出勤途中にゴミ出ししたり
家族のためにご飯を作ったり
といったことは珍しくありませんが
私が子供の頃には、ほぼありえないことでした。
(良いか悪いかはともかくとして)
「男子厨房に入るべからず」
という言葉だってあったくらいです。

毛糸を巻き取るという行為は
昔は女子供(昔はこの言葉が使われていました)の仕事でした。

Xさんが生きてきた時代と
今の若い人たちが生きている時代は
明らかに違っているのです。

Xさんは確かに認知症は進行していて
何かを作ることは難しそうです。
でも、できれば良い。毛糸の巻き取りで良い。
とは私は考えていませんでした。
尊厳の問題です。

「Xさんに毛糸巻きを提示する」
ということは
「あなたには、これがふさわしいと(私が)考えている」
ということを言葉にはしなくても伝えることを意味します。

私は
「できる」ことよりも「特性に合致しているか」
ということを重要視しています。
その理由と展開の仕方は「Activity選択の考え方」をご参照ください。

ちなみに
私がXさんに提供したのは
他の方がそれぞれ各自のAct.を行なっている並行集団に入ってもらい
「監督」の役割を担ってもらうことでした。

Xさんは、それぞれの方に
優しく労いの言葉をかけ
褒め称え
時には冗談を言って場を盛り上げ
お一人お一人の様子を気にかけ
優しく鷹揚に年長者として場を取りまとめてくださっていました。

お若い頃のちょっとした集まりの時にも
こんなふうに和やかな場づくりを意識されていたんじゃないかな
と感じました。

Activityを提供する時に
その方にとっての意義を第一に考えるということは
( 意味ではなくて意義 )
とても重要だと考えています。

 

 

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ご家族に苦行させない

私は食事介助は本当に大切に考えています。
それにはさまざまな理由があるのですが、それはまた別の機会に書くとして。

食事介助は
特別の技術も知識もなしでも誰にでもできるだろうと
心のどこかで思われているのではないかと感じることが多々あります。
(親なら誰でも乳幼児には必ず食べさせる時期がありますものね)

とんでもない誤解です。
どうしたら食べやすくなるだろうか?
そして、その意味について考えながら実践を積んできましたから
安全に楽に美味しく食べられるように食事介助できる自信も
(逆に、決して実行しませんが)
全然美味しくなく辛く危険な介助をすることもできます。
(マイナスがわかるからこそプラスが実践できるという意味です)
そしてそれがどうしてなのか、具体的に言葉で明確に説明することもできます。
それだけの知識と技術を持っている自負があります。

職員同士で会話しながらの食事介助とか
嚥下5相を観察せずに介助するとか
喉頭挙上していないのに次の食塊を介助するとか
口の奥にスプーンを入れるとか
斜め上にスプーンを引き抜くとか
無理矢理口をこじ開けて食べさせるとか
覚醒が悪いのに介助するとか
。。。書いていて本当にイヤになってきますが
そんなことは決してしません。

その代わりに
身体の動き全体を含めた食べ方をよく観察します。
表情や視線をよく観察します。

言葉にならない、表情や行動という
もうひとつの言葉を聴こうと心を澄ませます。

食事介助は、どうやって「食べさせるか」ということではありません。

その方がどんな風に食事という場面に向き合っているのかを知り
その方なりの食べるという環境へのアウトプットを援助し
その方の環境感受・認識・対応という一連のループを
ループとして完結するように援助することです。

例え、
ループが小さなループであっても、歪な形であっても
その方のループがループとして完結できるように援助することです。

例え、
表面的には食べていたとしても
ループがちぎれた形であれば
援助ではなくて従属の要請になってしまいます。

とりわけ
ご家族は、職業として介助に従事しているわけではありません。
大切なご家族だからご家族としてできることをするので
ご家族に苦行をさせるような「指導」を対人援助職はすべきではないと考えています。

「ちゃんと食べさせないと体が弱っちゃうからしっかり食べさせて」
「ちゃんと水分を摂らせないと脱水になっちゃうからしっかり飲ませて」

ご家族にそんな風に「言う」のではなくて
ご家族が「ちゃんと」できるように「なる」ためには
どこをどうしたらいいのかをまずやってみせられる
そして具体的に明確に言葉で伝える
ことが対人援助職の仕事なんじゃないかな。

職業として関わっている自分ができないことを
ご家族に「させる」のはおかしなことだと思う。

ご家族は、ご家族としてそばにいるだけで
対象者の方の支えになっている。

「うまく食べさせられなくてごめんね」
「無理矢理食べさせてごめんね」と思わせながらご家族に介助させるのは
対象者の心の支えを剥奪してしまうことになりかねないと思います。

今よりもずっと過酷な時代を生き抜いてこられ
人生の総まとめの時期にあるお年寄りにとって
食べられないなら食べられないなりに
食べようとしているなら食べるチカラに合わせて
介助していく方法とその姿勢を伝えて
食事介助という場面に
対象者がどんな風に向き合っているのかを理解すると
まるで、その方自身の生き様が浮かび上がってくるように感じられます。
かつてのその方を彷彿とするような類似したエピソードを
ご家族が思い出すことができれば
例え、食べられても食べられなくても
その方とご家族との絆をもう一度再構築することになる。

「ちゃんと食べさせる」ことを最優先するように仕向けられたご家族は
必死なご家族ほど、対象者の言動を感受観察する機会に目をつぶらされ
その事によって絆を再構築する機会を失ってしまう。

対象者は自身の尊厳をご家族によって損なわれるという体験をする事になってしまう。

私たち人間は、食べる機械じゃない。

ご家族は、介助「要員」ではない。

介助は仕事であってもご家族がしても
大変だけれども
介助したからこそ、介助という体験そのものから得られることもあるのだから。。。

年の瀬に新たな決意をしました。
がんばるぞー!

今年はどなたも大変な年だったと思います。
お身体にはくれぐれもお気をつけて。。。
良いお年をお迎えください m(_ _)m

 

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コップで水分摂取の介助2

下唇にコップの縁を当ててから
コップを傾け
上唇に液体を触れるのを確認します。

そうすると
対象者のお身体が動きます。
動く場所は人によって異なります。
頭部だったり、背中だったり、顎だったり。
それが一口量のサインなのでコップの傾けを元に戻します。

してはいけないのは
コップを口角まで押し当てたり
一度に大量の水分を口腔内に「入れてあげて」はいけません。

対象者が「飲むのを援助」してください。

本当に多いのが
食事介助を「食べさせて」あげている人です。

本当に少ないのが
対象者が「食べることを援助」している人です。

言葉遊びではなくて
文字通りに
食べさせているから
飲ませているから
食べられなくなる
飲めなくなる
ということが起こっているのです。

そして
食べることを援助し
飲むことを援助すれば
もう一度食べたり飲んだりできるようになる方が
圧倒的に多いのです。

 

 

 

 

 

 

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前提の見直し

食事介助も水分摂取の介助も対応の工夫も
根本的に、暗黙の前提となっている私たちの認識の見直しが必要だと考えています。

認知症のある方の問題は
認知症という病気「だけ」のせいでは決してありません。

食べ方の問題は
対象者の能力低下、咽頭期の低下「だけ」のせいでは決してありません。

切り離して、疾患や障害「だけ」に問題設定をするのは
ICIDHに囚われている証です。

ICFで考えれば、疾患や障害があって尚且つ
能力を生かして暮らしていく術を見出し、協働によって実現することができる

相互作用の中にいるのは
対象者だけではなくて、私たち対人援助職も同じなんです。

 

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コップで水分摂取の介助

いやーご無沙汰しました。
1週間ぶりですね。
ちょっと色々と急を要することが立て続けにありまして (^^;

今、職場でトロミは最小限にしようと取り組んでいます。
本当にガッツリ、トロミをつけられると
マズいし、喉の奥にへばりついて気持ち悪いし
「ゴクゴク飲みたい」っておしゃられる方の気持ちもわかります。

「ムセたら困る」「ムセないように」という気持ちから
不必要にトロミをつけられたり
トロミの粘性をあげられたりしていることもあるんじゃないでしょうか?

それは、善意からの行動ではありますが
プロとしては根拠なしの行動によって
対象者に不利益をきたしてしまっている恐れもあり得ます。

必要最小限のトロミにする
と、必然的にスプーンではなく、コップから介助で水分摂取してもらう
という場面が出てきます。

ところが、コップからの水分摂取の介助方法については
これまた、スプーン操作と同様に、
どこに気をつけるか、どのようにコップを扱うか
ということについては明確に言葉にして教えてもらっていない方が
圧倒的に多い現状があります。

起こっているのは
「同じことが違うカタチ」で現れています。

飲ませているけれど、飲む介助になっていない。
食べさせていても、食べる介助になっていない。

目の前にいる方の、飲みにくさ・食べにくさは
決して、その方だけの病状進行などの原因ではありません。

次の記事で
具体的な操作方法について記載していきます。

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