Tag: コミュニケーション

否定しても始まらない

関係を作っていこうと思うなら
相手を否定しても始まらない。

いつでもそこから始めるしかない。

今、できていること

そこをみていくと
次につながる道が現れてくる。

そんな風に感じています。

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本当に凄い人は、本当に謙虚

本当に凄い人は、本当に謙虚。

私の周りをみても、そう思います。

何をしているか
ではなくて
どのようにしているか

「在りよう」というのは、滲み出るものだと
改めてそう感じました。

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「歌」の活用

「歌」は、ほんとに活用範囲が広い。

情動に直接作用する。

場を設定して歌うだけではなくて
認知症のある方が
悲しんでいる時
怒りをこらえている時
うれしい時
とりわけ、哀しみをこらえている時に
言葉にならない、言葉にできない気持ちを
言葉を超えた感情を
表現し、伝え合うのに、とても役に立ちます。

その方が知っている歌で
該当する感情を表しているような歌を
何も見ずに歌えるようになっているといいですね。

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質の担保のために

質の担保のために必須なのは
難易度の設定が適切にできること
言い換えれば
場面設定が適切におこなえる
ということでもあります。

認知症のある方に対して
「何をしたらよいのか」ということが喧伝されがちで
「どのようにしたらよいのか」ということが
疎かにされがちだという現実が示していることは

認知症のある方に対する対応の困難さ
というカタチで現れてはいるけれど
実は、分野を問わずに
潜在しているリハ職あるいはサービス提供者側の困難
を表しているように感じられてなりません。

もっと言うなら
いろいろな場でカタチを変えて現れてもいるように感じます。

「する」ことで「考える」ことを回避する。
的確に言うなら
「する」ことの悪い側面が悪い方向へ現れている。

「する」ことによって
具体的に「わかり」具体的に「修正する」ことができるはず
なんだと思うのですが … 。。。

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環境適応(学習)の質の担保を

「やればいいってもんじゃないのに…」

老健に勤務している時にずっと思っていました。
例えば、CVA後遺症で片麻痺がある方に
立ち上がり100回を課す…とか。
あるいは、逆に筋力増強としていながら負荷もかけずに10回…とか。

運動のパターンが問題なのに回数だけしたってしょうがないし
筋力増強なら負荷設定のしかたにのっとるべきなんじゃないのかな…って。

でも、辛くてたくさん頑張ると効果がある
…と思い込んでいる方も大勢いらっしゃいました。
そして、その結果、痙性を高めてしまったり腰を痛めたり

リハビリというのは
言い換えれば、学習であり環境(物理的・心理的)適応の過程です。

効果的なアウトプットを求めるためにはインプットの調整が必須です。

やり過ぎも、やりなさ過ぎもよくない。
質の担保が先で、質の担保があってこそ量が生きてきます。

そこがわかってないからこそ
量にこだわる(こだわりすぎない)という過剰な対応を
してしまったり、求めてしまったりするのではないかと感じています。

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刺激がないと進行してしまう?

「何をしたら(させたら)いいんでしょう?」

ご家族からこのように聞かれることも多いのですが
この言葉の裏にあるのは
「何かさせないと刺激が少ないと進行してしまう」
という恐れなのではないかと感じています。

少しでも進行を送らせるために
できることは何でもしたい…というお気持ちはよくわかります。

けれど、できることがいろいろあればともかく
ご本人のできることが限られているような状態では
ご家族ができることも限られてくるのです… 。

そして、 何よりも
「低刺激=進行説」の根深さを感じます。

刺激があれば
することがあれば
いいってもんじゃありません。

害がなければまだしも
不適切な刺激は逆効果にすらなってしまうのです。

老健勤務時に、身体障害…骨折やCVA後遺症のある方の
リハビリでも感じていたことですが
この続きは次回に。

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仕事を追いかけてると辛くなる

仕事より前に自分がいないと…ね。

同じ仕事量でも
仕事を追いかけるような働きかたをしてるとしんどいだけ。
消耗しちゃう。

自分が仕事より前にいれば
工夫することができる。
工夫ができれば発見もできる。
仕事そのものから「プラス」を得られる。

… 物理的な限界はあるにせよ。

仕事はしても、仕事に使われない。
その違いは大きいよね。

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声かけの工夫 距離(ココロの巻)

昨日の記事の続き。
そのココロは…のココロの巻です (^^)

遠くから指し示した椅子に座れる
…ということは
たくさんのモノの中から
椅子に注意を焦点化することができ
それを覚えていられて
なおかつ、椅子にたどり着いた時に
「座る」という動作を遂行することができる
…という能力があることを表しています。

目的地まで歩く+座る
という同時並行課題ができる
目的地を明確化できる
目的地を忘れずに覚えていられる
…ということです。

目的地の椅子のところまでお連れして
その場で「座る」こと「だけ」を 説明する。
そうすればできる方も大勢いらっしゃいます。

物理的距離の遠近によって
必要とされる能力も異なってくる。

ご本人の能力は必ず任意の環境下で発揮されるものなのですから、環境とペアで語られるべき性質のものです。
そこにこそ、私たちの介入・対応の工夫の余地がある。
ところが、現実には、この部分が あまりにも自覚されていないように感じられてなりません。

「対応の工夫」というモノが
いろいろなところでいろいろに囁かれていますが
結局のところ、『ご本人の能力』と 『対応の工夫』とは、一対のものであって切り離しては語れない。

まず、評価があって、初めて工夫を語ることができるのだと感じています。

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