≠「言う」=「する」

先週書いた記事の中で
村上龍が初台リハビリテーション病院のことを
「可視できるヒューマニズム」と評したことをとりあげました。

願いとしてのヒューマニズムを
現実の中で実践を通して見えるカタチで実現していく
それができることがプロなのだと感じました。

プロというのは
実現できる知識と技術をもっている人のことだし
だからこそ実現する時に丁寧にきめ細やかに実践していく人のことだと感じています。

日曜日のセミナーでもお話しましたが
願いをカタチにするための知識と技術がない状態で願いだけがいくら強くあっても
現実を変えることはできない。

美味しく食べていただきたい
栄養や水分をちゃんと摂取していただきたい
そのような願いを抱いているのであれば
対象者に対して「食べてね」と言うのではなく
対象者が食べられるように自分が「する」のだと

知識と技術がなければ
自分が「する」のではなくて
対象者に対して「ちゃんと食べてね」と言うしかなくなってしまうのだと

そして
認知症のある方への食事という場面で起こっていることは
認知症のある方への生活障害やBPSDという場面でも
まったく同じことが違うカタチで現れているだけなのだと

「認知症のある方へ寄り添ったケア」
「その人らしさを大切にしたケア」
そのようなケアの理念を実現するために
私は語るよりも考える
ある特定のそれぞれの場面において
私自身の
どのような言動が認知症のある方へ寄り添ったケアに該当して
どのような言動が認知症のある方へ寄り添ったケアに該当しないのか
どのような言動がその人らしさを大切にすることになって
どのような言動がその人らしさを大切にしていないことになるのか
尊重と迎合との違いは何か

私は臨床でとても困っているから
いつも具体的に考えるようにしているし
セミナーや研修会の講師を務める時にも
抽象的なことを語ることはしない
自分自身のポリシーとして
抽象的な理想論を語っているだけでは目の前の現実を変えることはできない
必要なのは、理想を具現化する過程においての
在りようであり具体的で明確な考え方なのだと考えているから

私自身の体験として
涙をこぼさずにいられないような体験はヤマほどあるけれど
そのような体験を講師として話すことはしないから
人によっては感動や共感を求めて研修会に参加する人もいるようですけれど
そのような人にとっては私の話は物足りないと思います。

私が講師をお引き受けする目的は
認知症のある方は能力をもっているが故に暮らしの困難に遭遇する
だからこそ、対応を工夫する意義がある
ということを明確にお伝えするため
1人でも多くの困っている対人援助職の人と
1人でも多くの認知症のある方とご家族の余分な困難が少なくなるため

今の自分でできることを「する」ために
その1つの手段として
たとえばこのブログの記事で「言う」ことを活用しています。 

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