Tag: コミュニケーション

コミュニケーションの二重性

他者とのやりとりとは
その時その場のその関係性において
為されるものではあるけれど
同時に
自分自身の世界への表明でもある。

だから
やりとりに際して
いろいろなことが起こるけれど

たとえば
理不尽な思いとか
相手の本心に触れて傷つくとか
真っ正面で受けとめてもらえた実感とか
それはさまざまな感情を自分の内に引き起こすけれど

その時にどうするか
ということに関して言うと
世界への表明なのだから
問われているのは自分の在りようそのもの
ということにもなってくる。

アンテナを高く張っている人はたくさんいる。
より善いものを求めている人はたくさんいる。
真贋を見分ける眼をもつ人はたくさんいる。
そうでない人や見せかけだけの人もたくさんいるけれど
それが世界だもの。

多様な世界に対して
自分がどう在るのか

その時その場のその関係性において何を優先するのか
自己保身に走る人もいるけれど
その人が世界に対してそういう表明をしているだけのこと。
でも、世界に対してそういう在りようの表明をしない人だってたくさんいる。

目の前にいる誰かとのやりとりは
見た目、目の前にいる人と為されるものだけれど
同時に世界への自己表明をしている。
自分がどう在るか、在りたいかの選択をしている。

目の前に立ち現れる日々の暮らしにおいて
最優先になるのは厳然として目に映ることだけど
起こっていることはそれだけじゃない。

人との出会いって本当に不思議なもので
必要な時に必要な出会いが起こるし、出会い直しも起こる。
世界が広がっていくし深まっていく。

この歳になって
わかり直すことがたくさんある。

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プラトーを味わう

一見すると伸び悩みのような
学習曲線が水平のような状態になっていることをプラトーと言います。

リハの世界でもよく言いますよね。

成長の過程においては
誰にでもプラトーって訪れる状態だと思う。
習得する過程において右肩上がり一直線なんてことはないもの。

右肩上がりに成長した後、必ずいったんは水平状態で大きな変化が見えない時がくる。

でも、
本当に停滞なのか、
本当は次へのステップとしての雌伏の時期なのか
どっちでも起こりうるけど、傍目には区別がつきにくいかも。
当の本人にだって、わかりにくいかも。

今回の自分自身のプラトーは長く感じました。
と言っても、対外的には(他者的には)あちこちで異なる活動をしていたから
他者にはそんな風には見えなかったかもしれないけれど
自分としては感じることが多々ありました。
現実の世界での実践は多面的で連続していても
内面での思考の深まりが実感できなかったりするとちょっとしんどい。
そういう時はOut Putしにくかったりします (^^;
自分の中で混沌としてるから。
とりわけ今思えばラストの時期がしんどかったかも。

でも、フッと抜けた気がする。

現実に自分が抱える困難のゴールが自分なりに納得のいくレベルで明確になった
そのとたん、いろんなことがクリアに見えて
同時に(だからこそ)現実的なやりとりが意味のある答えとして返ってくる
といったような。

年とったおかげで
プラトーで苦しい時にも味わいながら身を浸すことが少しはできるようになり
タイミングという、時の訪れを待つことができるようになった気がする。

年とったおかげで
過剰な(あるいは)余分な他者への期待をしなくてすむようになり
同時に、明確な現実的根拠がなくても揺るがない信頼感のようなものが生まれてくると感じています。
自分自身への
誰かという他者の存在への
生きるということへの

プラトーの時期はしんどいけど
内的に次への変化のステップの時期としても現れ得ると感じています。
組み上がったものを崩してもう一段組み上げ直すという。

準備が整ったら
なんらかのきっかけ(本当はきっと幾つものきっかけが連なっている)があって
それと知ることができるようになる。

焦らずにプラトーを味わう
それも一興だと思えるようになりました。

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暮らしを主語にする

認知症という病気から始まるのではなくて
Aさんという固有の人がいて
Aさんの暮らしが最初にあって
たまたまAさんが病気のために認知症という状態像になって
さまざまな障害を抱えながらも暮らしていく

最初に病気があるんじゃなくて
暮らしが最初にある

かつて
中井久夫が
「医師に治せない病気はあっても看護師が看護できない病気はない」と言ったように
認知症は病気そのものは進行していくけれど
暮らしの援助ができないわけじゃない

まず、暮らしを観ること
暮らしを支えること
暮らしを主語にすること

そうするとブレたり混乱したりメゲたりせずに
着実に歩を進めていけるんじゃないだろうか

地域という押し進められるキーワードの中で
多職種連携が形骸化せずに
実態を伴って進んでいけるんじゃないだろうか

そんな感触があります。

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在りようを工夫するこれからの地域

使えるお金は限られているから
これから先に新しいハコモノや制度を作るのには限界がある。

もっと有機的なシステムが否応もなく求められてくると感じています。

既存の組織や制度の中で
誰かがスーパーヒーローになるのではなくて
厳しい状況ではあるけれど
みんなが少しずつ一歩前に踏み出し合って
知恵を出し合ってできることをしていき合う

誰もがみな今でさえも十分に忙しいけれど
もしも一歩ずつ前に進むことができれば
そして進み合っていることを確認できれば
状況は変わる可能性がたくさんあるとも感じています。

古来、私たち日本人は環境と用途を1対1対応ではなく
同じ素材を用途に応じて使い分ける工夫を
暮らしそのものの中で行ってきました。

たとえば
1枚の布を対象に合わせて包み変えたり
1つの部屋を時に寝室、時に食堂、時に作業場、時に団らんの間と使い分けたり

そういう知恵ってDNAに組み込まれているんじゃないかな

私たちが知らずにしてきて
一度は自らなくしてしまったものの意味を
もう一度わかり直した上で活用し直す

そういったことにもつながるんじゃないかな

従来通りの在りようから
一歩だけ前に踏み出す

最近になって
いかに自分が地域のことを知らないできたのか
痛切に感じています。
ちょっと調べるだけで
ちょっと電話をかけて教えていただくだけで
こんなにもいろいろなことが現在進行形で為されているのだということに
驚くとともに知ることの無かった自分を反省しています。

ただ、案外バラバラに所属している何らかのテリトリーの中で
そっと(当たり前のように)行われている(だからこそスゴイ)から
今所属しているテリトリーの外のことは知らないでいる
知るきっかけがないままでいる

誰かの発想が
他の誰かの新たな発想を呼び起こすように
誰かの実践が
他の誰かの次の実践を呼び起こすかもしれない

そんな可能性を感じる今日この頃です。

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思考回路が伝わる

方法論ではなくて思考回路が伝わっていく

だから
やっちゃいけないこと(方法論)は、やっちゃいけない(方法論)と
おかしなことは、おかしなことだと
明確に言わなくちゃいけない。

ただ
言い方に関して、人としてのマナーがあるだけだと
今はそんな風に考えています。

認知症のある方への対応で困った時に
「食事介助で口を開けてくれないのですが、どうしたらいいのでしょうか?」
「大声で介護抵抗のある人に対して、どうしたらよいのでしょうか?」
というパターンで質問されることは本当に本当によくよくあります。

こういうパターンで質問する
ということは、こういうパターンで臨床しているということを表してもいるのです。
その意味は、リハ職が一番わかるはずだと思います。

結果としてのAという現れ方に対して、万能な方法論があるわけがない。

考え方や方法論は
人により時代により変遷していくものでしょう。

でも、根本的な考え方、在りようとでも言うものは
本質に迫るものであればあるほど変遷していくはずがない。

認知症のある方への対応に関して
切実に困っているからこそ、
さまざまな方法論が提唱されているし
また要望もされるのだろうとも考えます。

「徘徊する人がいるんです。どうしたらよいでしょうか?」
「高齢の女性だったらタオルをたたんでいただければ?」
実際にあったやりとりですし
また臨床でもよくあるあるな対応でもあるでしょう。
そしてそれで「済んでしまう」場合だってあるでしょう。
済んでしまった場合には「何が起こっていたのか」ということについて
検討されにくいという現実もあります。

そのような現実の中で
一生懸命な優秀な人ほど
方法論が暗黙のうちに伝える無自覚な思考回路に傷つき悩み
思考回路と提唱されている理念の乖離に疑問を抱き
現状に対しての違和感や苦悩を共有化できる人が周囲にいなかったり
ということも起こってきます。

そしてまた
認知症のある方ご本人が体験した
「一度起こったことはなかったことにはならない」
「感情の体験は積み重なっていく」
という当たり前のことの吟味が為されない
ということも起こってきます。

私自身、今までは明確に言語化できなかったことがたくさんありますし
これから先においても、繰返し繰り返しこういった思いを味わっていくのだろうと
覚悟もしています。

だからこそ
伝えていく意義があるのだと
言語化する意味があるのだと
はっきりともう一段わかり直しました。

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POST連載記事「ナウシカに絡めて」

POSTさんのサイト
「風の谷のナウシカから考える認知症対応」という記事が掲載されました。
https://1post.jp/2838

できるだけ早く「続き」を書きたいと思っています。
もう少しだけお待ちください m(_ _)m

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当てる>はずさない>当たる

昨日の記事の続き。です。

私はプロとして
少なくとも、認知症のある方を対象として働いている人間として
適切な対応の工夫を考えられる、つまり、「当てる」ことができるように努力をするのは、
作業療法士という対人援助職を選択した自分の義務だと考えています。
でも、努力をする…ということは、ウラを返せばカンペキではない自分を認めている。ということでもあります。
今、目の前にいる方に対して、いつでも誰に対しても、常に100%のことがすぐにできているわけではありません。
だからこそ、そうなれるように、仮にできたとしても、できるだけ早く、より円滑に。と願います。

「当てる」ことができるように
でもそれは「当たる」こととは違う
結果として「当たる」のではなくて
当たりがわかったうえでの「当てられる」ことを目指す。
それが叶わない時には、少なくとも「はずさない」ことを目指します。
当たらずとも遠からじ。から始める。
そして当たりに近づくように。

「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。」

この言葉に出会った時には、なるほどなーと思いました。
本質を突いた言葉ってそういうチカラもあります。
1つの言葉がジャンルを超えて通ずる。
勝負の世界の言葉が認知症のある方への対応についてにも通ずる。

私は結果として「当たってよかったよかった」とは喜べない。
当たったとしたら、どこが当たりだったのか考えます。
そして、その当たりは本質なのか、考えます。

かなり重度の認知症のある方でも、こちらに合わせてくださいます。
つまり、自分の意志や感情を抑制して合わせられる能力がある。
でも、表面には「この方策が有効だった」「当たった」という受け取り方をされがちです。
本当は「当たった」ように見えるだけで「当てる」ことができたわけではない。
こういうことはヤマほど起こります。

ここでは、前の記事との関連もあって
敢えて、「当てる」「当たる」「はずさない」など
ちょっと誤解を招きかねない言葉を使いましたが
意図する言葉の意味はおわかりいただけていると思います。

適切な方法を根拠を明確にして考えられる>根拠を明確にして不適切なことはしない>根拠はわからないけれどとにかく「問題」が解決した(見えなくなった)

こういった思考過程を繰り返すことで
根拠を明確にして適切な方法をより早くより簡潔により明確に提供できるようになる
そんなふうに感じています。

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勝ちに不思議の勝ちあり

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。」

プロ野球の野村克也監督の言葉だそうですが
実は原典があって
「勝ちには偶然の勝ちがあり、負けには偶然の負けはない」という言葉は
江戸時代の剣豪、松浦清(松浦静山)の言葉の引用なのだそうです。

そこから
「失敗は必然、成功は偶然」という言葉も広く使われているとか。

ふと、そんな言葉を思い出しました。

このことは以前のブログにも書いてあります。

認知症のある方への対応についても同じコトが言えるように感じています。

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