観察と洞察のチカラを磨く2

対人援助職の養成において
観察と洞察って最近はどんな風に扱われているのかはわかりません。

昔よりも
知っておくべきことが増えているということはわかる
それは知識と技術の集積が為されているという、とても貴重なことだと思う。

同時に
だからこそ、最も根本的なことが疎かになってしまっているんじゃないかな
という危惧もあります。

「見れども観えず」ということを痛感しています。

その時に自分が気になったことを見たいように見ていることを観察と誤解してる。

例えば
「食事場面で口を開けてくれない」という相談をされることが多いのですが
よくよく話を聞いてみると覚醒が悪いということが非常に多いです。

目で見えてはいても
「口を開けてくれれば介助できる→口を開けてくれないから介助できない」
という介助者の必要に迫られた観方になってしまうから
覚醒の悪さよりも開口しないということを観察してしまう。

まさしく
眼は外界の受容器で脳が認識するのだ
ということを実感させられますが。。。

例えば
車椅子で身体が傾いているからとクッションを当てたけれど傾いたまま
よくよく見てみると
単に座面が横にズレていただけで
座り直していただいたら真っ直ぐに座れた。とか。

このような比較的わかりやすいケースもあれば
繰り返し書いているように
なんでも「筋力低下」「廃用」「意欲低下」と判断するような
一見正当に思えるような、わかりにくいケースもあります。

対人援助職で観察していないという人はいないと思います。
でも観察力と洞察力を磨く重要性を身にしみて理解し
実践している人は、実はそう多くはありません。

だから
「観察は大事」と言われても
「そんな当たり前のこと、わかってるしやってるし、何を今さら」
って反感を覚えてしまうのだと思う。

でも、実は、反感ではなくて、本当は抵抗だったりします。

観察はしていても
観察が足りない
観察が部分的
観察が周囲の状況や観察者の必要や意図によって歪められている
ということは自戒していても起こります。
自戒できなければ必発します。

それらをどこかで感受しているからこそ
そして観察力・洞察力を磨くための努力をするためには
今の自分に向き合うことを要請されることをどこかで感受しているからこそ
「抵抗」するのであって
表向きにはそれが「否定」というカタチで現れているだけなんだと思っています。

観察力と洞察力を磨くことにゴールはない。
どんなに磨いても磨きすぎということはありません。

対象者の方も
援助者としての私たちも
相互関係論というICFの中にいるから

モノゴトの本質に触れ
本当に理解できるように促し
実践を続けられるようになるためには
臨床現場での実習、あるいは卒後養成という実践の場で
教え、学ぶことのような気がします。

観察力と洞察力の有無や多寡によって
こんなにも得られる情報の量も質も違ってくるんだよ
ということを学べる場は実践の場そのものであり
観察力と洞察力に秀でた先達と学ぼうと意思する人があって
成り立つものだと感じています。

  

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4433