認知症をにんちしよう会@ハルネ小田原

イベント

平成28年9月25日(日)に
小田原駅東口にあるハルネ小田原において
「認知症をにんちしよう会」イベントが開催されます。

参加費無料でどなたでもご参加いただけます。
詳細は上のチラシをクリックすると拡大されますので、ご参照ください。

モチロン、私も当日参加します。
認知症疾患医療センター曽我病院のコーナーでクイズを行います。
参加賞と全問正解賞があります。

全問正解賞の景品はコチラ〜☆

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手作りマグネットです (^^)

みんな来てね〜
ご参加お待ちしております m(_ _)m

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DFJ summit 2016のお知らせ

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2016年9月3日(土)4日(日)に
明治大学中野キャンパスにおいて
第3回認知症フレンドリージャパンサミット2016が開催されるそうです。

詳細はこちらで ↓
https://peraichi.com/landing_pages/view/dfjs2016
事前申込制だそうです。

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おかしなコト:言葉と概念

ちょっと待った

私はOTですが
同じOTギョーカイにおいて
時々、えー???って思うようなコトに遭遇します。

「作業療法を知らない人に説明するのは難しい」

以前に学生から
こんな言葉を聞いて「はい〜?」って思ったことがあります。

おかしな理由 その1:
どんな仕事なのか、どんなことをするのかといった説明は
知らない人にこそ、するものであって
知っている人にそんな説明は通常しません (^^;

医師に対して「どんなことをするんですか?」とは聞かないでしょう?
教師に対して「どんなお仕事なんですか?」とも聞かないでしょう?

相手が知らないからこそ、説明するんだけどな。

おかしな理由 その2:
学生であれば、当然、作業療法を一人前に実践なんかできないわけで
つまり、自分ができない、わからないことをまず自覚してほしい。。。

私もかつて学生の時に
高校時代の友人から、「作業療法って何?どんな仕事?」って尋ねられて
ちゃんと答えられずに定義を言ってみたり (^^;
テキトーなことを言ってみたりしていましたけど
少なくとも一般化はせずに
「私は作業療法をわかっていないんだ。だから説明できないんだ。」
って恥ずかしく思っていたものです (^^;

つまり、学生が堂々とこんなおかしなことを言えてしまうのは
周囲の作業療法士が学生に言っている可能性が高いんですよね。。。

「作業療法は説明しにくい仕事だから」
とかなんとか (^^;

学生が実習前は「認知の人」「高次脳の方」なんて言わなかったのに
実習から帰ってくるとそんな言葉を使い始めるとか。。。 (^^;
ある養成校の教員から聞いたことがあります。

素直な?学生に、R(有資格者)が変なコトを吹き込むのはやめてほしいなぁ。
今の学生が、将来の日本の作業療法という世界を背負って立つんだから
きちんと育てないとマズいんでないかい?
プラスの方向で育てられないなら
少なくともマイナスになるような言動は慎むべきだと思うけど?
将来のある学生に対して
高みに眼を向けさせるのではなくて
自分のレベルに引き摺り下ろしてどうするんだろう?

ちなみに
冒頭の学生には、にっこり笑ってこう言いました。
「自分がちゃんとわかってないと説明できないよね」

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衣類選択:構成障害&手続き記憶

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認知症のある方の病状の進行に伴い
更衣が困難になるケースがよくあります。

構成障害が進行すると
ズボンを上衣としてかぶったり
シャツが前後逆だったりすることはよくあります。

でも、そのような場合に全介助しか手だてがないわけではありません。

構成障害があったとしても
衣類の選択に注意深くなることで
能力を発揮しやすくなります。

どんな衣類だったら着ることが容易になるのか
どんな対応をしたら間違いが減るのか
具体的に根拠を明確にして
ご家族や職員に説明することができます。

それは、認知症のある方にとって
大きな助けとなります。

そのような判断ができ援助ができるのは
障害と能力のプロであるリハスタッフとりわけ作業療法士の役目
だと考えています。

一部で
認知症のある方に対して
日常生活のことやBPSDに対しては
介護スタッフに任せて
作業療法士はもっと早期の段階の方への作業的なアプローチをする
というようなことが言われていますが
(もちろん、その面への対応の重要性を否定しているわけではありません)
おかしな話だと感じています。

どんな衣類だったら着ることが容易になるのか
どんな関わりをしたらよいのか

目の前にいる方の
障害と能力と特性を判断できるからこそ
具体的にアドバイスすることが可能となります。

構成障害があっても
構成能力がゼロというわけではありません。

どんな条件であれば可能となるのか

それは残っている構成能力と手続き記憶を活用する
ということになります。

つまり
私たちは、構成障害の有無を確認するのが仕事ではなくて
目の前にいる認知症のある方の暮らしの援助をするために
構成障害の程度ーつまり構成能力を評価することが仕事なのです。
シロかクロか
ではなくて、シロとクロの間に無数にあるグレーの色調を見分けること
それこそが、私たち障害と能力のプロであるリハスタッフだからこそ
判断可能なことであり、また援助への活用について具体的に提案できるのだと
考えています。

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現場における作業療法という問い

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Occupational Therapy を日本語で 作業療法 と言います。
でも、とても誤解がある言葉でもあります。

作業=手工芸ではありません。
作業=楽しみでもありません。
それらは、本来の作業の一部にしか過ぎません。

ある作業療法士は
ADL>労働>余暇という優先順位がある
と言っていましたが
まさしく、このことを私は自分自身の身をもって痛感しました。

実は私は、昨年、座骨神経痛を発症し一時期休職するほどの状態でした。
寝返りできず、座っていられず、間欠性跛行著明で5M連続歩行困難な状態でした。
私は映画を観るのが大好きですが
その時には映画のえの字も思い浮かびませんでした。
まず、座って食事ができる、仰向けで眠れる、寝返りができる
これらのことができるようになった時には本当に嬉しかったことを覚えています。
毎日暮らすことが必死でした。
生活がかかっていますから、仕事のことは気にはなりますけど
それどころじゃなかったというのが本当のところです。
職場復帰して少し慣れた頃から映画のCMを見た時に
あぁ、映画観たいなぁと感じるようになり
その時になって、あぁこんなことを感じることができるようになったんだ
と思ったものです。

作業療法士だからと言って
手工芸や楽しみという視点からだけ、治療や評価を考えるのは
occupation の枠組みを自ら狭めてしまう恐れがありますし
解決・改善できるはずの対象者の暮らしの困難に対処せずに
手工芸や楽しみという視点で実践することしかできないとしたら
対人援助職の在り方として適切なのでしょうか?

このあたり、現場では大きな深い混乱が生じているように感じられてなりません。

認知症のある方に対して
どう対応してよいかわからない。という声をよく聞きますが
そのような場合には、本当は評価ができていない。
どう評価してよいかわかっていないのです。
評価できていないから、どうしたらよいのか、わからない。
対応つまり治療がわからないのではなくて、評価の問題なのです。
でも、なぜか、問いのカタチとしては、評価の問題が出てこない。

作業療法についても同じコトが違うカタチで現れているように感じられてなりません。

作業をどう提供するか、作業とは何か
というカタチでいろいろなコトが言われていますが
結局は作業療法士として、どう評価するか曖昧なことが本質の問題なのではないか。

私たちは自分自身の問題でありながら
問いのカタチを取り違えている。
だからコタエを掴み損ねている。
今本当に必要なことはコタエの模索ではなくて、問いをもう一度問い直すこと
なのではないでしょうか。

そして、なぜ、問いのカタチを取り違えてしまってきたのか
なぜ、そのことに自覚がないのか
そこにも、根深い問題があるように感じています。

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「シン・ゴジラ」観ました

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先日、ふと思い立ち
「シン・ゴジラ」観てきました。

映画は好きずき、人それぞれですから
あくまでも私の好みで書いていきますので、そこはご勘弁を。

私は総監督があんまり好きじゃないし
エヴァも好きじゃないから
本当はあんまり興味なかったのですが
あんまりネットでの評判が良いので
それなら観てみるかと思って (^^;

観終わっての感想は
「ハリウッド映画みたい。」

ものすごい贅沢な俳優さん達と
ものすごいお金をかけて
シンプルで明解なストーリー
少年漫画の王道を行くような協力と諦めない努力によって得られる達成という展開
戦闘シーンの連続は爽快感すらある。

これは確かにものすごく情動を揺さぶられる。
「売れる」映画だ。。。と思いました。

加えて、俳優さん達の見事な演技。
中でも高橋一生さんと市川実日子さんの演技は素晴らしかったと思う。

観て良かった?
と聞かれれば、観て良かったと言える。

でも、良い映画だった?
と聞かれたら、うん。とは言えないなぁ。。。
もちろん、悪くはないけど。

ものすごく、情動を揺さぶられるけど
その分、あんまり深く考えるようには促されない。

エヴァとは方向性が違うけど
そういうところは似てるかも。

映像技術とか音響とか、シン・ゴジラの方が遥かに素晴らしいけど
初代ゴジラ(1954年)の方が内容的には深みがあって凄かったと思う。

そのあたり、ちょっと気になったりして。

一度腰を落ち着けてじっくりと考えてみたら
OTの世界で流行してることだけど、変なことってある。
認知症のある方に対して言われていることで常識みたいなことでも、変なことってある。
だけど大多数が良し!としていると、あんまり考えずに迎合されちゃうことって結構ある。

変なのー、なんだかなー。

シン・ゴジラの作中で
主人公が先の大戦での日本軍の反省点として
根拠の無い楽観的気分による判断を挙げていたけど
それだけなのかなー?

そんなことを考え
こちらに書かずにはいられなくなりました。

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第23回日精看専門学術集会でお話をします

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平成28年11月26日(土)27(日)新潟朱鷺メッセにて開催される
第23回日本精神科看護専門学術集会で
《実践セミナー》【認知症看護】作業療法士から学ぶ技(ワザ)
「食事介助を変えれば食べ方が変わる」
のプログラムでお話をさせていただきます。

一般社団法人日本精神科看護協会 http://www.jpna.jp
第23回日本精神科看護専門学術集会 http://jpna-gakujutsu.jp/senmon/

今後、精神科病院に入院する認知症のある方は
重度化・障害の複合化というように、より困難なケースが増えることが想定されます。
そのような方の食事介助というのは非常に大変です。
職員も大変ですが、認知症のある方ご本人も大変です。
本来、楽しみであるはずの食べることが苦痛・困難になってしまうのは
認知症のある方ご本人にとっても、美味しく食べていただきたいと願っている職員にとっても
辛く哀しいことです。

でも、そのような困難を改善することは可能です。

認知症のある方の食べることを援助することができるようになるためには
「食べる」ことと「認知症」についての両方の知識が必要です。

誤嚥性肺炎を再燃させず、CRPも陰性化したままでもう一度食べられるようになる
ムセっぽくなってしまった方がムセずに食べられるようになる
口腔内にためこんでいた方がスムーズに食べられるようになる
舌でスプーンを押し出してしまって、なかなか食べられずにいた方がスムーズに食べられるようになる
コップ1杯のお茶ゼリーを40分かかってやっと摂取していた方が5分で摂取できるようになる
125ccのペムパルという栄養補助食品1本を40分かかってやっと摂取していた方が20分でソフト食1人前を食べられるようになる

これらは本当に起こっていることなのです。

嚥下5相をどのように介助に活かし
どのように介助を考えるのか
その考え方を事例を提示することでお伝えします。
《実践セミナー》ですので、実際にスプーン操作のデモンストレーションも考えています。

経口から安全に円滑に早く食べられるようになることは
認知症のある方にとっても
ご家族の方にとっても
職員にとっても
とても大切なことです。

そして私たちは、「食べることの援助」の実践を通して
食べさせる(使役)ことと食べることの援助(援助)の違いを体験することができます。
その体験はメタ認識を通して他の援助場面での自分自身の実践の振り返りと
もう一段深い視点による実践を否応もなく問い返してきてくれます。

認知症のある方に寄り添ったケアとは何か
尊重と迎合の違いは何か

問いも答えも
私たち自身の実践の中にある

それを教えてくれるのは
目の前にいる認知症のある方なのだということを

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OTRがOTRとして寄与する

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他の多職種との連携を考える時に大切なことは
作業療法士なんだから作業療法士として寄与する
ということだと考えています。

作業療法士のあるあるな傾向として (^^;
「心身両面をみられる」
「個別性をみられる」
ということを
抽象的・総論的・一般的にはアピールしても
個々の具体例に関して、とたんに逃げ腰になるという。。。(^^;
そしてその理由が
「こうすればいいというのはない」
「100人いれば100通りある」というありがちな逃げ口上で (^^;
だとしたら、
どう考えたらよいのか、
その考え方の道筋を提示すべきだと思うけど
明確に言語化している人の話を聞いたことがない。
その時の逃げ口上がまたあるあるな
「作業療法を説明するのは難しい」という。。。 (^^;

もうそろそろ、そういう自己欺瞞から卒業しませんか?

作業療法が技術である以上、
どうしても言語化できない部分って
確かに存在します。
「技」だから。

だけど、
言語化=明確化であり、
言語化=伝達可能化・再現可能化でもあります。

作業療法と作業療法士が
この日本に言葉として、つまり概念と実存を併せ持った存在として
誕生して50年

本当にこの先、
作業療法士として対象者の心身の健康増進に寄与できる
ということをアピールしたいと考えるなら
一人ひとりが自分のしていることを
明確に言語化するという不断の努力から始めないと
「口先OT」「抽象OT」と思われ
現実に具体的な場面では相談できない
と思われちゃうかも。

これから先は地域が主体となってくる。
いろいろな職種との連携が求められるようになってくる。

時には職種を超えての実践が要請されることだってあるでしょう。
そういう時って連携している職種が少ない時だったりする
実働部隊としてのメンバーが限定されていたりする

臨機応変に優先課題を判断して動くことが求められる時もある。

でも、本当に多くの職種が集まった時には
必ず「あなたは誰?」「あなたは何ができるの?」と尋ねられる
そしてできることを「言う」のではなく、実践「する」ことが求められる。

その時に職種として
作業療法士が求められる職種であるか
作業療法士として寄与できる職種であるか
作業療法士であるあなたができることをしてみせられる
という真価が問われるようになる。
そんな日はもうすぐそこまで来ている。

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