体験が引き起こす感情

認知症のある方が施設に入所されたり病院に入院されて
「帰りたい」と言った時に
現実場面においての「帰りたい」という言葉は正当です。

そんな時には「今すぐには帰れずにここにいる理由」を説明すべきです。
そして説明したとしても近時記憶障害があって忘れてしまうとしたら
繰返し「帰りたい」と言われても
こちらも繰返し同じ対応をするしかありません。

そして、その一方で
認知症のある方に
自宅にいる自分とここにいる自分とを天秤にかけて
ここにいる自分の方を善しと感じていただけるような体験を
提供し続ける方策を模索することを考えます。

けれど
もしも現在の暮らしの中の何かがきっかけとなって不安や心配といった感情が喚起され
その感情から過去の同じような感情を抱いた体験を想起したとしたら
別の対応が必要だと考えています。

たとえば
「まだ子どもが小さいから早く帰らないと」
というような言葉を表出された場合です。

見た目にはまったく違うAct.をしながらも
昔とった杵柄時代の思い出とともに感情を表出されるのと
同じコトが違うカタチで現れているのだと考えています。

一方はポジティブに
一方はネガティブに

体験− Occupy – のもつPower は、とても強い。

ピンチはチャンスなのです。

私たちOccupational Therapist は
この強いPowerをもつOccupationを使いこなすことができるプロです。

Powerには向きがありません。
どちらにも転びます。
そして強い効果のあるものほど
用い方によってはマイナスの作用をもたらしてしまいます。

今、ベテランのOccupational Therapistがすべきことは
作業療法の素晴らしさを旗を振って語ることではなくて
若手の作業療法士にも理解した上で実践できるように
Occupationの使い方、用い方を伝えること
マイナスの作用をもたらさないようにするにはどうしたらよいのか
できればプラスの作用をもたらせるようにするにはどうしたらよいのか
その方略をこそ伝えることだと考えています。

今の私に
臨床の場ではない場所で
どこまで伝えることができるのかわかりませんが
最善を尽くしてお伝えします。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3131

Act.の選択

認知症のある方に
Act.の選択をする時に
「昔とった杵柄」をそのまま用いることはしませんが
参考にはしています。

「昔とった杵柄」の要素と共通する要素で今できるAct.を提供する。
そのAct.がピンポイントで適切だった時には
必ず認知症のある方から自発的に
思い出話とともにその体験にまつわる感情を表出されます。

必ず起こります。

この選択過程や体験のもつ意味については
来月3月12日(日)に開催される作業療法総合研究所さん主催の
「「神奈川の地から作業を叫ぶ−愛と毒を込めて”作業”を問う−」」で
お話をいたします。
詳しくは、こちらをご参照ください。

同じコトがカタチを変えて起こっているコト
というのは、とても多いんです。

この体験のもつ意味がわかると
認知症のある方が過去と現在を一見混同して「帰りたい」と
訴える場面で起こっていることの意味がわかるようになる
そんなふうに感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3129

スタッフへの広め方

「OTジャーナル」を読んで下さった方
あるいは私の話を聴いてくださった方から
最近立て続けに、スタッフへの広め方について
お問い合わせをいただきました。

きっと他にも同じように思っている方がいるだろうな
と思ったので書いてみます。

スタッフへの広め方は大きく分けて2つ
1)自分が実践できるようになる
2)元ネタを一緒に見て今後をこれから一緒に考える
どちらかになるのではないでしょうか。

例えば
新しいトランスファーの方法論を知った
これはいい!と思った時にどうしますか?

私だったら、まず、自分が実践できるように練習します。
それから、こんな風なやり方も開発されているそうです。
とスタッフに知らせます。

状況によっては2)の方法もとれると思います。
スタッフの中にトランスファーに関する理解と力量が
自分と大きく変わらない人がいる場合には
元ネタをその人に一緒に見てもらうことから始めます。

認知症だからといって何も特別なことはありません。

たぶん「広めたい!」と思ってくださった方は
私の話が説得力をもって伝わったのだからこそだと思うので
とても嬉しく思います。

これから広まっていくことを心から願っています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3127

伝聞表現を使う その2

実は私も伝聞表現を時々使っています。

「家にはちゃんと帰るんだけど、今日じゃないんですって。
今日はここに泊まっていくんですって」

帰りたいという方に対してそんな風に言うこともあります。
よくよく考えると本来はそういう言い方しかできないですし。

でも往々にして
認知症のある方が帰りたいと言うと
なんとか気をそらしてそんな言葉を言わないように(忘れてもらえるように)
あの手この手を繰り出したり
「ここに泊まるの」と、入院だったら医師しか判断できないはずのことを
他の職種なのに言ってしまったり
そういうことってよくあると思います。

「ここに泊まるの」という言い方をした人が
ここにいることを決定したように認知症のある方が感じるのは
当たり前のことだと思う。
『そんなこと言わないで帰してください』
と認知症のある方が言うのは正当だと思う。
だってあなたが決定したんでしょ?と内心思うもの。

けれど多くの場合に
職員はお茶を濁すような言い方をしているのではないでしょうか?
あるいは説明したのに理解してもらえない。と判断したりとか?

そう言う職員に悪気はないけれど
認知症のある方にしたら
ここにいることを決めたこの人にお願いしてもダメなんだ
という風にしか受けとめてもらえないと思う。

でも、最初から伝聞表現を使っていれば
私が決定したことではないのだということを言外に伝えることができます。

誤解が多いのは
確かに認知症のある方の言葉を聞いて理解するはたらきが低下することはよくあるけれど
(そしてそのことをこちらでも繰返し書いていますが)
言葉のニュアンスや意図や意味をすべて理解できなくなるわけではありません。

認知症という状態像を引き起こす疾患によりけり
障害によりけり
元々の言葉の扱い方に関する特性によりけり
なんです。

伝聞表現を意図的に用いることによって
認知症のある方の会話し続けようとする意思をくじかずに
お話を聴くことが可能となってきます。

言葉に鋭敏になる
意図的に自覚的に扱えるようになる
それらのことをたくさんの方から教えていただきました。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3126

伝聞表現を使う

MCI〜軽度の認知症のある方に対して
ご家族の方へのアドバイスとして
「伝聞表現を使う」ことをご提案する場合もあります。

実は認知症のある方ご本人は
自分の物忘れを自覚している
でもしっかりしなければ。と自分で自分に言い聞かせている。
ご家族だからこそ、弱音を吐いて心配をかけたくない。
そういう方はとても多いのです。

そんな人に受診する。
薬を飲む。
水分を摂る。

そんな時にご家族の方は一生懸命だからこそ
「病院に行くのよ」
「薬を飲むのよ」
「水分をしっかり摂って」
と直接的な表現をしがちですが
そうすると認知症のある方は
ご家族が味方じゃないように感じがちです。

「うるさいわね!」と言いたくなる気持ちもわからなくないような。。。

「病院に早めに行くといいんだって」
「薬を飲むと身体がラクになるんだって」
「水分を摂るとぼーっとしなくなるんだって」
と伝聞表現を使うと
私はあなたの味方だ。。。ということを言外のニュアンスを伝えることができます。

入院に付き添ってこられたご家族が帰る時に嫌がられたらどうしよう
だからといって黙って帰るのも悪いし
と迷っているような時には
「今日はここに泊まるんですって」と言ってみてください。
とお伝えすることもよくあります。

ご家族の方は私たち職員に気を遣って
「今日はここに泊まるの」と説明しがちですが
そうすると認知症のある方には
ご家族が積極的に入院をすすめたのかと受けとめられる可能性があります。

そうではなくて
伝聞表現を使うと
ご家族は味方なんだけど
入院した方がいいと病院の人たちが言っている
というニュアンスを込められるというメリットがあります。

まったく知らない環境で知らない人たちと過ごすのですから
心配になって当たり前。
ご家族の方は味方なんだということが伝わるといいなと思います。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3124

3月OT Lab 準備中

「文章、読みましたよ。今度叫ぶんですね。」

ある人にそう声をかけられ赤面の至り。。。(^^;;;

ええ、そうです。
3月12日(日)に作業療法総合研究所さんの主催の研修会で
「神奈川の地から作業を叫ぶ−愛と毒を込めて”作業”を問う−」
というタイトルでお話をします。

詳細はこちらから

開催まで1ヶ月以上ありますが、準備を少しずつ始めています。

飲み会程度のお話で終わるわけにはいきませんし
どういう構成で
どういう表現で
う〜ん、難しいです。。。(^^;
手を挙げたはいいけれど、こういうテーマを系統立てて話すのは難しい。
でも、誰かがきちんと言っておかないと。という思いもあります。

だって、今、大混乱してるでしょう?

物事をじっくりきちんと考える人は
何かおかしい、どこかおかしい。と感じながらも
そのおかしさを言語化できず、
あちらこちらからの旗ふりに押しつぶされそうになっているのを
必死な思いで、こらえているのではないでしょうか。

私は
「作業療法は素晴らしい」と叫ぶつもりはありません。
作業療法の素晴らしさを伝えるために
体験談を紹介するつもりも、毛頭ありません。

もっと具体的な話をしようと思っています。
だって、世の中に〇〇療法と名のつくものは全てツールに過ぎないから。

ツールはツールとして役立てるために存在します。
ツールに使われているようでは目的を果たせません。
ツールをツールとして使いこなせるようにならなければ。
作業をツールとして使いこなせるのがプロとしての作業療法士なんだと考えています。

作業療法士の目的は何か?

対象者の方のRe-Habilisの援助です。
「やりたいことができて嬉しい」のは、Re-Habilisの下位項目に過ぎません。

そして、もうひとつ
ここで、手段と目的の混同が起こっていませんか?

じゃあ、どう考えたらいいのでしょうか。
その提案をしたいと思います。

ある人は私の話を聴いてくださった後に
「目新しいことはなかった。基本的な当たり前のことだ。」
と感想を寄越してくださいました。

そうです。
その通りなんです。
私の実践は本当に泥臭くて基本にのっとって当たり前のことを当たり前にしてるだけです。

「作業療法ジャーナル 」Vol.51No.2には
身体合併症のある認知症の方への対応の考え方について記載したものが掲載されました。
もしよかったらご参照ください。

当たり前の実践によって
多くの重度の認知症のある方に行動変容が起こるということをお伝えしています。

その事実は何を意味しているのでしょうか?

私は旗を振りたいタイプの人間ではないんです。
旗を振るよりも目の前にいる方に
現実に具体的に
役立つことができるようになりたいと痛切に願い続けています。

体験談として紹介する許可をご家族にいただく時に
「えぇ。えぇ。いいですよ。困っている方の役に立つなら。」
そうおっしゃっていただける言葉の重み

その重みを思いながら準備を少しずつしています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3116

ミニ研修会「食事介助」ご案内

平成29年3月4日(土)10:00〜12:00
曽我病院内にて「食事介助」のミニ研修会を開催します。

「認知症家族教室」というタイトルになっていますが
どなたでも参加できます。
関係職種の方は事前にご連絡をお願いしておりますが
どの職種の方でも無料でご参加いただけます。

当日は相談員さんからのミニレクチャーに続いて
「奥が深いのに知られていない食事介助のホント」についてお話します。
デモもありますし、実際に食事の介助−被介助体験も考えています。

何かご不明なことがありましたら
ご遠慮なくお問い合わせください。
病院の電話番号でも結構ですし
『 yoshiemon.atあっとgmail.com 』(あっとは変換してください)
メールでも結構です (^^)

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3107

内向きに深める

先日の講演の最後に
「内向きに深める」について質問してくださった方がいて凄くうれしかったです。

健康寿命を伸ばすという意味で
厚労省はじめいろいろな人たちがいろいろなことをPRしていて
それは本当にその通りだと思います。

病気も障害もなく過ごせる期間が長いのなら長いに越したことはありません。
活動的に過ごせる「場」が保障されるのであればこんなにいいことはありません。

でも「生きもの」としての人間には
必ず「老い」が待ち受けている。

その時に
量的向上をだけ追い求めるような思想は
「老い」に「負けた」人を結果として作り出してしまう恐れがある。

現に自分自身を追いつめている人がもう既に現れている。

外向きに広げられるように
考え、施策を充実させ、協力体制を整え
それはとても大事。

一方で
内向きに深める
ことの担保について
どこかで考えておかないと
誰かが実践できるように準備を整えておかないと

単なる「老いの否定」になってしまう。

老いのただ中にいる人だけでなく
老いを迎えつつある人
老いを遠くから見つめる人まで巻き込んで
結果として、たとえ意図していなかったとしても
「老いの否定」の大合唱になってしまう。

いずれそう遠くないうちに
人口の1/4が75歳以上になるというのに

「内向きに深める」
この実践ができる一番近道にいるのは Occupational Therapist だと思っています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3100