言葉を適切に使うことって、概念を適切に扱えることにつながると思ってるので
とても大切にしています。
リハの世界もご多分にもれず、流行り廃りがあります。
今はあんまり聞かなくなったけど
QOLを改善とか、QOLの向上とかってあちこちで言われていた時期がありました。
その時にも、自分自身の中で
QOLという概念が大切なことはわかるけれど
自分の実践において、何がQOLに関与するのかということはとても難しかった。
今でも難しく感じています。
だから、言葉としてはあまり使わない。というか使えない。
それと同じ意味で自分自身では基本的に使わないようにしているのが
「その人らしさを大切にする」「ナラティブアプローチ」「ともに生きる」とか。
自分の実践において
どういう言動がその人らしさを大切にしていることで、
どういう言動がその人らしさを損なっていることなのか、よくわからないから。
以下、略。(^^;
そんな態度を自分自身でとっていると
周りから見たら、もしかしたら不遜に思われたり、変わり者認定されるかもですが
自分自身にとっては、良いこともあって
その1つが、「評価は検査ではない」「評価とは何か」ということを
明確に言語化して伝えることも自分自身の実践に落とし込むこともできている
ということなんです。
「評価」と銘打ちながら内容は「検査」のこと。というのは、あるあるなこと。
モチロン、誤解のないように言うと
私自身は検査を不要と言っているわけではありません。
記憶の連続性が明確にわからないなら「HDS−Rをとれ」と言う派ですから。
「相手を傷つけるからHDS-Rはとりません」という人に限って
記憶の連続性を「評価」できていなかったりすることがとても多いという印象を抱いています。
検査は必要です。
認知症のある方の状態像とりわけ障害を明確化するために必要です。
ただし、いくら検査しても「対応」の方向性は出てきません。
検査は診断の補助になりますが、検査だけでは援助の補助にはならない。
的確な診断は的確な援助の前提として必要ですが
的確な診断ができれば必ずしも的確な援助ができるわけではない。
援助の補助になるのは「評価」です。
私たちの仕事は、援助することだから
評価ができることが必要です。
まずは必要な検査をすることだけど
検査をする時には量的な部分ではなく質的な部分にも着目すること
検査の過程においても、結果においても
その人の特性というのは、否応もなくにじみ出ているものです。
その人の障害だけでなく、裏返しとしての能力も明確になります。
ここが見られるようになると、それだけで評価の前段階の情報が豊かになります。
でも「評価」はそれだけではない。
それらを根拠として
今、何が起こっているのか、かつて何が起こっていたのか、これから何が起こりうるのか
その場面場面での暮らしの困難やBPSDが起こる必然性について
ある程度の確からしさをもって推測できる時に
ある程度の確からしさをもってピンポイントでオーダーメイドで
対応の工夫を具体的に明確に言語化して提案できるようになります。
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