「食事介助」研修会ご案内

じゃじゃーん!

本日は「食事介助の研修会」のご案内です。

神奈川県の県西地区のケアマネージャーさんの団体「OHMY」さんの主催で
平成29年7月10日(月)の夜、小田原市保健センターで開催されます。

タイトルは
「本当に怖い食事介助 Part2 〜あなたが知らない分かれ道〜」

昨年に引き続きの開催です。
今年はより実践的な臨床場面に即した内容と参加者同士での実技もあります。

どの職種の方でも、ご参加いただけます。

食事介助にお困りの職員は、実はとっても多いと感じています。
そして困っているご本人もご家族も実はたくさんいらっしゃいます。

今、食事介助なんか全然困ってないよー。という方も
ご自分の今の介助が将来の目の前にいる方と介助する方にとって
大きな影響があるということをご存知でしょうか?

ほんのちょっと気をつけるだけで
認知症のある方の食べやすさはとっても大きく変わってきます。

そして
もう1つお伝えしたいことは
この現実は果たして食事場面にだけ起こっていることなのでしょうか?
という問いなのです。

お申込は
上記チラシをクリックして拡大表示させてからプリントアウトし
必要事項をご記入の上「OHMY」さん宛にFAX送信してください。

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野望は温める

昨日、とてもとても嬉しいことがありました (^^)

長年の私の野望 (^^; を叶える扉が開いたんです。

もうそれはそれは嬉しくて嬉しくて。。。
あぁ!ほんっとに嬉しい。。。

お仕事してれば、いろんなことがあるでしょう?
でも、諦めないことって、とっても大事

野望は温める
そして時期を待つ
その間は1人でこっそり牙を研ぐ

幸いなことに
私たちの仕事は
技術職だから
結果に語らせることができる
これは一番の強みだよね

今、もしかしたら、辛い気持ちを抱えながらも
何とか踏ん張っている人もいるかもしれません。
心折れそうになるかもですが。。。

私もいっぱい泣いて、いっぱい何くそって思ったもの
そして、その間、牙を研ぎまくりました。

タイミングってあるし
風向きもあるし
自分ではどうしようもないことってヤマほどある

だけど、自分の牙をどう研ぐかは自分で決めて自分でできること

そして、一見悪いことのように見える良いことだってあるんです。
これは、ほんとのこと。

悪いことの渦中にいると、
とてもそんな風には思えないかもしれませんが
私は何度もそういう体験をしてきました。

私にとって
昨日、開いた扉の意味はとても大きい。

ひとつ扉が開けば、次の扉が開くことも多い。
最初の扉が一番重いってこともよくあること。

すごく嬉しい (^^)
扉が開いたことに感謝して。。。ガンバル☆

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ご家族の援助ができるように

頑張りすぎてしまうご家族はたくさんいらっしゃいます。
よくここまでご家族だけで頑張ってこられた
と思うケースにたくさん遭遇します。

それは、ひとつには
そうせざるをえなかった。。。という状況もあるのではないか
私たち専門家と呼ばれる側の努力不足もあるのだと感じています。

困っているから相談にいったのに
抽象的・総論的なことしか言われず
今の困りごとに対して的確に役に立ちそうな答えがもらえなかったりしたら
ご家族は次に相談に行くのをためらわれるのではないでしょうか。

だって、相談に行くことすら、大変だと思いますもの。

じっくり話を聴いてもらおうと思えば
その間、認知症のある方を誰かにみてもらわなければならないから
そのお願いをしなくちゃいけない

近くに頼める人がいれば、まだいいけれど
遠くまでお願いしにいくとなると
道中だって大変。。。

そこまでして相談に来られるんだから
相談して良かったって感じていただけるような
そんな対応がいつもできるようでありたいと思う

ご家族に
「頑張りすぎないで」
と言うのではなくて
ご家族が頑張りすぎないですむように
そんな相談先であるように

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私ならこう返す

朝日新聞のある記事が目に留りました。

『「奥さんはキレイな人?」若年認知症の妻に問われ、夫は』
http://digital.asahi.com/articles/ASK4T5SYYK4TPTFC00V.html?_requesturl=articles%2FASK4T5SYYK4TPTFC00V.html&rm=400

記事によると
週に数回、妻に「奥さんはキレイな人?」と尋ねられるのだそうだ。
夫は、いつもどう応じたらいいのか、悩むとのこと。
友人たちは、妻を混乱させないように「大丈夫」とその場をおさめる。
妻もひとまず落ち着く。
かつては戸籍謄本を見せたり、結婚式の話を聴かせたりもしたとのこと。
話を合わせようとしようかとも思うが、それでは夫婦の距離が遠くなってしまうようで言えないと
記事には夫の揺れる心の内が記載されていた。

私は直接には、その方のことを知らない。
だから、無責任なことは言えない。
でも、夫が「どういう言葉を返すのが適切なのか」真剣に悩んでいることは伝わってくる。
友人たちの対応も自分の対応も納得できるとは感じていないが
どう考えたらよいのか逡巡していることは伝わってくる。

「混乱」「落ち着く」という言葉だけでは
今ひとつ状況が伝わってこないが
だからこそ、私ならこの夫に
「どうしてそんな風に思ったの?」と尋ねることを勧めるだろう。
「どうして」という言葉がキツい、問いつめるように受けとめられる可能性があるとしたら
「どんなところでそう思ったの?」という表現をするだろう。

妻が繰り返し尋ねるという言葉には
何かしらの思いや意図が明確に現れている
たとえ忘れてしまったために同じ言葉を繰り返すにしても
その都度ある一定の見方・感じ方をしているということを表しているのだから
「何と言う言葉を言うか」を考えるよりも
まず、「どうしてそう思ったのか」率直に尋ねてみたい。
言葉に込められた妻の気持ちがどんなものなのか
尋ねられれば答えてくれるのではないだろうか。

私にこんなに親切にしてくれる人だったら
奥さんだってきっとキレイで良い人なんだろうと思った。とか。
奥さんが羨ましいと思った。とか
それは聞いてみないとわからないから。

それによって答える言葉だって変わってくる。

「大丈夫」と
その場をおさめようとする人たちは善かれと思って対応してくれていることを
妻はしっかりと感じ取っていて
内心夫からの返事を聞きたいと思ったとしても
それ以上は言葉にしないように気遣っている可能性だってあるし
(多くの人は誤解してるけど、その場のことはよく理解できて配慮できる方はとても多い)
だとすると「その場がおさまる」ことが良いことなのだろうか?

「その場をおさめる」ことを優先しなくちゃいけない時もあるだろうけれど。。。

自分の気持ちや考えを表現しようとしているのだということをどう考えたら良いのだろうか?

「混乱しないように」という目的は誰のための目的なのだろうか?

混乱とその後の分かち合いは、双方にとってとても辛い
その後に訪れる悲嘆の分かち合いも、双方にとって辛い体験になる

けれど
生きるということは、辛いことにも嬉しいことにも遭遇するものではないだろうか?
嬉しいこと、楽しいことだけが起こる人生なんてあるだろうか?

認知症があろうが、なかろうが
誰もが辛さと嬉しさとその他諸々の感情を抱いて生きていく

だとしたら
考えるべきは表現しかけた感情や考えを
途中でおさめることではなくて
表現しきれるように援助するには、どうしたらよいのか
表現した後で訪れる辛い感情をどのように分かち合えるのか
ということなのではないだろうか

辛い感情を分かち合えるかもしれない
辛い感情を受けとめようとすると思う
そういう信頼が根底にあるかどうかということも問われているのではないだろうか

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「失敗は必然、成功は偶然」という言葉

かつて、野村克也が言ったという
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」

「勝ちには偶然の勝ちがあり、負けには偶然の負けはない」という言葉は
江戸時代の剣豪、松浦清(松浦静山)の言葉の引用なのだそうです。

そこから
「失敗は必然、成功は偶然」という言葉も広く使われているとか。

その通りだと思います。

認知症のある方に対して考えついた方法が
「たまたま上手くいく」(この表現もどうかとは思いますが)こともあるでしょう。
「Aという状態の人には、Bという対応をしてみたら?」という考え方は
ギョーカイを席巻しています。。。
そして、多くの場合に、Bという対応が「うまくいかない」
その時には、「次はどうしよう?」「Cという対応をしてみたら?」

Bという対応がうまくいかなかった必然があるのだとしたら
それは、打開策のヒントにもなるのに
そこを考えずに、表面的に方法だけを考えても「うまくいく」はずがない。
それこそ、数打って当たることはあるでしょうけれど
本当は、そういう話じゃない (^^;

認知症のある方の
気持ちや状態に原因を求めるのではなくて
ある状況の中で起こる状態像にとっての必然と考える。

多くの人が無自覚のうちにとらわれている
視点を変換することが一番重要なんだと考えています。

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毒の怖さがわかるから薬として扱える

本当にパワーのあるものは
扱い方に注意が必要

でも
そのパワーの怖さが実感できないと
リスクヘッジが疎かになってしまう。

そういうことって
あちこちで起こっているように感じています。

かつてよりも
さまざまな情報をずっと入手しやすい世界になり
これから、プロフェッショナルとアマチュアの垣根が今よりもさらに低くなっていくでしょう。

そのことの
メリットもデメリットも甘受するしかない。

プロのプロたる所以は
誤解されやすいけれど、
本当は、対象者の方にとって
どれだけ良いことができるか。ではなくて
どれだけ悪いことを回避できるか。なのだと考えています。

これから先
リスクヘッジの重要性は、どんなに強調されても
し過ぎることはない
と考えています。

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毒にも薬にもなる

かねがね思っていることですが。。。
本当に有効なモノはマイナスへの働き方も強い
毒にも薬にもなる
チカラはプラスマイナス両方向にはたらくから
パワーのあるモノほど取り扱いには注意が必要

作用の方向性に気をつける
ということは非常に重要なことだと感じ、また考えてもいます。

逆説的ですが
認知症のある方に対して、
有効な対応の工夫を具体的に提案できるということは
困難を来す場面をも具体的に想定できるということをも意味しています。

だからこそ
リスクヘッジとして
言葉、行動、状況をひとつひとつ回避することができる。

同時に、プロとして、非常に怖さを感じることもあります。

用い方ひとつ、扱い方ひとつで
相手を援助することも困惑を作ることにもつながってしまう。

チカラは、プラスマイナス両方向にはたらく
そして、同時には両方向にははたらけない

チカラがはたらく時には
プラスかマイナスかどちらか一方の向きにしかはたらけない

援助と使役は、紙一重。なんだということに。

作業療法士が本当にActivityのもつパワーを使いこなせるのであれば
Activityのもつ怖さを十分に認識し言語化し回避できることこそが重要なのだ。ということに。

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評価→対応:両方向

私がお会いする認知症のある方は
何らかの生活障害とBPSDが積もり重なってきた方です。

私の仕事は
認知症のある方の困りごとが少なくなるように
できればその方の良い面が良い方向性で発揮できるように
援助すること

そのために状態像つまり障害と能力がどのように現れているか確認する
そうするとどう対応したらよいのかは必然的に浮かび上がってくる。

その方の困難がひとつ改善されたことは、
良いことではあるけれど
これで終わりではなくて
入院前に生活障害やBPSDがどんな風に起こってしまったんだろう?
と考えることもしています。

たとえ、今、「よくなって」生活障害やBPSDが目立たなくなったとしても
「障害」そのものがなくなったわけではない。

かつて陥ったことのある状況は
再現されるおそれがあります。

生活障害やBPSDが起こった時に
「つながらないと困るね」「怒りのスイッチがわからない」
といった表現をする人もいるようですが
私は基本そのような抽象的な言葉は使わないようにしています。
というか、自分で自分がよく意味のわからない言葉を使うことに抵抗を感じるからです。

人間だから突発的なことは起こりうるし
人間だからわからないことはありうるし
病状としての変動もありうるし
だからこそ、わかっていることは明確にしておきたいと考えています。

認知症のある方の障害と能力を把握できれば
どのような場面設定であれば困ることが少なくなるか必然的に明確になります。
同じ意味で
どのような場面設定であれば困り果ててしまうのか
そして、困った時にどのように対応しようとするのかおおよそ推測できます。

評価を絞り込めれば込めるほど
両方向に、良くも悪くも、どのような現れ方をするのか明確化できる。

現れ方の方向性を両方向に考える

臨床において、実はとても重要なことだと感じています。

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