HDS−Rをとってみて初めてわかることもある
HDS−Rをとらなくても、
ふだんの会話を意識することでわかることもある
記憶の連続性や時、場、人物の見当識など
会話のテーマによって
記憶の連続性が変わることもある
大切なことは
それらの情報をふだんの対応に活かすということ
そのための情報収集
現実には
順序が後先になってることが多いような気がするけど(^^;
11月 22 2011
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11月 21 2011
ご存知のように
HDS−Rの最後は語想起課題です。
あまり答えられなかった方は不全感を抱えてしまいます。
特にセッションの最後にHDS−Rを行った場合には
失敗体験、喪失体験を抱えたままリハ室を出ることになります。
ですので、終わり方には気をつけています。
例えば
野菜の名前を「じゃがいも、さといも」
の2つしか答えられなかったとしたら
「焼き芋にするお芋って何芋でしたっけ?」
「輪切りにして天ぷらにしたり、
大学芋にするお芋って何でしたっけ?」
等とヒントを出して答えてもらったり
「じゃがいもを使ったお料理って何がありましたっけ?」
「じゃがいもを使ったお料理で1番好きなものって何ですか?」
等とお話したりします。
もちろん、
ここで得られた情報は今後の展開に活用することはあっても
HDS−Rの検査結果に反映されることはありません。
検査終了後、すぐにおしまい!ではなくて
ワンクッションおくようにしているだけです。
そうしたからといって
失敗体験や喪失体験に伴う感情を解消できるわけではありませんが
こちらのマナーとしてそうしています。
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11月 18 2011
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11月 17 2011
昨今、実習生からよく聞く言葉です。
そんな時に私はこう言っています。
「HDS−Rをとらなくても記銘力について誰にでも明確に説明できるくらいに把握しているならとらなくていいよ。でも、それができないならきちんととりなさい。」
本来、HDS−Rに限らず、検査というものはすべからくそういうものです。
ある視点からみた一面を明確化してしまう…
もちろん、配慮は必要です。
でも、なぜ検査をするのか。
大切なことは
私たちはプロとして適切な援助をするために
必要な情報を得るために検査をするということなのです。
だとしたら、考えるべきは
必要な情報を他の代替手段で入手できるのか?
できなければ、必要な情報を入手できる方法を遂行するしかない。
そして、検査過程において
対象者を傷つけるおそれをおかしてまで入手したのだから
結果や得られた情報を
きちんと援助に活用するということなのではないでしょうか。
HDS−Rをとることが目的化してしまったり
援助にHDS−Rから得られた情報を活用できていないということを
もっと考え直したほうがいいように感じています。
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11月 16 2011
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11月 15 2011
個々の機能を別々にとらえているだけでは
改善へのきっかけがつかみにくくなってしまいます。
遊び食べをする
…という「結果として表面にあらわれている」ことの中には
たとえば
綺麗好きで口のまわりがちょっとでも汚れたり
食べこぼしたものがちょっとでもあると
すぐに手でぬぐおうとしたり
なんとかスプーンですくおうとして
適切に巧みに手指を動かすことができずに
かえって汚れてしまう
最初はその汚れをなんとかしようとしていたのに
いつのまにか、動作の目的を忘れてしまって
同じ動きを繰り返す…という場合もあります。
手遊びするから、とすぐに全介助と対応方法を決めるのではなくて
「何が起こっていたのか」
をきちんと観察することで
綺麗好きであるとか、食べこぼしを気にする人という
能力や特性をとらえることもできるし
上肢の操作性や手指の協調性が低下しているという困難も把握でき
手遊びのきっかけを作らないですむように
汚れたらすぐに介助者がふきとる…とか
食べこぼさないですむように
スプーンや食器やトレーに工夫をしてみる…などという
具体的現実的に対応の工夫ができるようになります。
私たちは
すぐに『どうしたらいいのか』という対応を求めてしまいがちですが
『何が起こっていたのか』という現実の中に
解決へのヒントも含まれているように感じています。
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11月 14 2011
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11月 11 2011
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