「塗り絵」下絵の用意

いろはカルタを筆ペンでなぞってから拡大コピーして使います。

塗り絵に飽きたり疲れたりしたら

いろはカルタの話題でお話することに切り替えられます。

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「塗り絵」下絵の工夫

下絵にもひと工夫します。

市販の塗り絵の本をそのまま使うんじゃなくて

何の絵かを明確にするために

対象を太ペン、細ペン、鉛筆でなぞります。

たとえば、こんな風に。

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「塗り絵」幼稚な画題はNG

「塗り絵」は、よく使われる課題の1つです。

よく使われるわりには、

あんまり工夫されていないようにも感じています。

幼稚な画題はNG

たとえばこんなの。

 

 

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丁寧な場面設定「歌」

ほんとにちょっとしたことでも丁寧に為すことが大切。

たとえば

よく使われる「歌」

お年寄りはアカペラでは歌いにくい。

伴奏だけでも無いよりは有ったほうがいいし

伴奏だけよりも歌声があったほうがいいし

歌詞も用意したほうがいいし

懐メロだったら

歌ってる歌手の顔写真があるともっといい。

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評価を活かす

評価として

記憶の連続性をみたり、見当識の状態をみても

それだけでは片手落ち

日々のいろいろな場面で起こったことを

記憶の連続性や見当識の状態と

関連づけて「何が起こっているのか」を推測できることが大事

もちろん、障害だけでなくて

代償もふくめて残存能力をどのように使っているかということも

そうやって考えると

身体障害と認知障害と

症状や障害は異なっても

なんら考え方に違いはないのよね

私たちは

現実的に具体的に

対象者の役に立つことをできるように評価するのであって

ただ単にチェックリストの項目を埋めるために

記憶の連続性をみたり、見当識の状態をみるわけではない

疾患特性による違いはあっても

それらを支える下部概念としての考え方は同じなんだよね。

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おまけの追加

毒にもならないものは薬にもならない…と思っている私ですが

作業療法は、その特性上

使役とすりかわってしまいやすい運命をもっているからこそ

取り扱いに用心が必要なのだと思っています。

なんとか、リハにノせなくては…などという態度は

認知症のある方に対して

使役と化してしまうおそれのある態度でもあります。

 

特定の枠組みを共有できないのだとしたら

相手をどう枠組みにのせるか考える…のではなくて

相手のおこなえる枠組みにこちらがのっていけばいいのです。

それが行為という自発的な場面の観察を

ということでもあるのです。

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リスク回避としての意味

12/1(木)の記事の続きです。

なじみの関係というのは

言葉はきれいですけど

要するに相手の情に訴えるわけで(^^; 

それもいいですけど

でも、あんまり相手頼みじゃありません?

そういうことがモノを言う場面だってありますが

下手すると

無自覚であったとしても

「リハビリをやらせる」ために相手の情に訴えていた、利用した

…ということにもなりかねないわけで。

こちらが設定した枠組みしか使えないとなると

どうしたって避けては通れない課題となってしまいます。

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前提となる根本的な条件が共有できない

12/1(木)の記事「行為という自発的な場面の観察を」の続きです。

http://kana-ot.jp/wp/yosshi/176

どの疾患による認知症であれ

時や場の見当識が低下してしまった方は

自分がいるここがどこで何をするところなのかが

わからなくなったり、とりちがえてしまいます。

また、リハビリというのは

ある目標達成のために

ある目的をもって

ある一定時間、特別の場で特別のことを

対象者と作業療法士が恊働しておこなうもので

これら二重の前提条件の理解の上に

体操しましょう、歌を歌いましょう、これを作ってみませんか

…ということが成り立つわけですが。

ところが、この前提条件が共有できていないのに

表面だけ、何かしましょう…と言っても

「今はそれどころじゃない」となってしまいます。

もちろん、上手い具合に?取り違えてくれている場合もありますが。

大切なことは

単に、「なじみの関係」づくり…というのではなくて(^^; 

障害としての見当識の低下という状態と

その代償を、何を使ってどのようにおこなっているのか

ということを、こちらが適切に把握できているかどうか…であって

どうやったら、リハビリにノってくれるかどうか

…などではないと思うのです。 

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