Category: 工夫のひきだし あれやこれ

Activityの提供:問題提起

認知症のある方へのActivity提供をめぐる現状には
さまざまなことが反映・錯綜していると感じています。

そのひとつが
Act.提供者側が認知症のある方がAct.遂行する時の個々の困難を
予測し難いからなんだと考えています。

私たちには意識せずとも発揮している能力がたくさんある。
できて当たり前なので、そもそもそのことに無自覚なものです。
遂行機能障害や構成障害という障害の本質を理解せずに
バッテリーだけとっていると
目の前で起こっている言動に反映されているそれらの障害を見落としてしまいます。

かつては
「その場の話ができる=認知症じゃない」
という誤解が蔓延していました。
流石にこれだけ認知症に関する啓蒙が進んできてるから
今、そんなことを言う人は少ないでしょう。

けれど
その誤解は氷塊したわけではなくて
根深く残っています。

「その場の話ができる=いろいろなことができる」
という誤解は対人援助職にも根深く残っているものです。

  過去の記事にも書いていますのでご参照ください。
  「輪ぐさりは難しい」
  「折り紙は難しい:身体面」
  「折り紙は難しい:認知面」

風船バレーって
飛んできた風船を打ち返すだけだから簡単
って思われてますけど
重度の認知症のある方には難しいものです。

周囲の様々な視覚的刺激の中から
動いている風船に注意を固定し続けることができないと
「飛んできた風船を打ち返す」ことができません。

そもそも
集団での風船バレーが成立するためには
「その場面に座り続けている」ことが最低限求められますが
これが難しい。。。
 
「その場面がどんな場面で何をする場面なのか」
理解し、理解を保持し、理解に合わせて言動をコントロールするのは
重度の認知症のある方では難しいものです。

そして
風船バレーなら簡単だからできるんじゃない?と考える人は
目の前にいる認知症のあるXさんにとって
風船バレーが意味するものは何なのかということに
あまりにも無頓着に過ぎると感じてしまいます。

そもそも
どのような人にどのようなActivityが提供されるべきなのか
そしてそれはなぜなのか
という大命題について、どのように考えたら良いのか
ということを教えてもらった作業療法士がどれだけいるでしょうか?

「やりたいことをやる」
というのは一見正しいようでいて
(事実、それで救われたたくさんの対象者も作業療法士もいる)
だからこそ余計に
結果として問題の本質を見誤り議論検討することを回避させてしまった
と私は考えています。

 このあたりは、「褒めてあげる」という
 本来不適切なことが一見適切なように流布されてきた経緯と
 同じコトが違うカタチで起こっている
 と感じています。
 詳細は過去記事「常識の罠」に記載してありますので、ご参照ください。

なぜ、やりたいことができると良いのでしょう?

私は、自分が自分で在ることの再体験・再確認ができる
からと考えています。

つまり
概念構造としては
自分が自分であることの再体験・再確認>やりたいことができた体験
であると考えています。

 

希望を尋ねることは必須だけれど
希望を表明できない方に対して
あるいは表明された希望を表面的に把握するのではなくて
周囲の言語化された希望を実現するのでもなくて
表現された希望を尊重しても迎合することなく
真のニーズ、自分が自分で在ることの再体験・再確認
を探り、掘り下げ、援助が可能なのが
言葉だけに頼らずに
言葉ではない「作業」を媒介できる作業療法士なのではないかと考えています。

 

例えば
「遠方にある実家のお墓参りに行きたい」
と身寄りのない一人暮らしの認知症のある方に言われたら
作業療法士としてどうしますか?

歩けるようになったとしても
ひとりでは実現困難で
でも、お金さえあれば実現できてしまうかもしれないニーズです。
それは病院・施設に勤務する作業療法士が関与できることでもありません。
だからといって、却下してしまって終わりですか?

希望を尋ねたときに表明されたということは
その方にとっては意義のあることに違いありません。

では、どうしたら良いのでしょうか?

 

いきなり難問だったかもしれません (^^;
でも、「やりたいこと」「希望」を尋ねた
その後が肝心ということはおわかりいただけたと思います。

「やりたいことをやる」「やりたいことの実現を援助する」という考えでは
必ず行き詰まってしまいます。
もうそういった現状にたくさんの作業療法士がぶち当たっているはずなんです。

次の記事から
もう少し現状を紐解いていきたいと思います。

 

 

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Activityの提供:現状共有

認知症のある方に
Activityを提供する際には
さまざまな困難が伴います。

過去にもいろいろな記事を書いてきましたが
ここで一度総括してみようと思います。

長くなるので
シリーズとして連続記事で書いていきます。

まずは
認知症のある方へのActivity提供の現実モロモロの共有化から。

やりたいことの希望を聞いたけれど
・特にないと言われた
・私は何もできないと言われた
・言われたことが認知症のためにできなかった
・過去の趣味を提示したけれど、やりたがらなかったorできなかった

何を提供して良いかわからずにとりあえず
・折り紙を提示したけどできなかった
・塗り絵を提示したら怒られた
・風船バレーならできるかと思ったけどできなかった

他職種から
・徘徊しないように何かできることはない?
・立ち上がりが頻回で困るから何かやらせてほしい
と聞かれた

などなど、作業療法士あるあるではないでしょうか?

次の記事で
これらの表面的な事象に反映されている
本当の困難や意味について書いていきます。

 

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観察・洞察から始める対応の工夫

ほとんど休眠状態だったこちらのサイトに
こんなにもたくさんのアクセスをいただき
ありがたく思うと同時に
再開への誓いを新たにしました。

個人のサイト(OT佐藤良枝のDcゼミナール)を立ち上げたこともあり
どのように使い分けをしていくかは
走りながら考えていこうと思っています。

ただ
再開にあたり考えたこともあります。
それは事実に即して記述していくということです。

そんなの、当たり前じゃん。って思われるかもしれませんが
多くの場合に、常識とされている慣習的対応や視点、考え方に
無自覚のうちに支配されていることって多々あります。

  例えば
  老年期のリハ場面で立ち上がりの練習をするセラピストは
  大勢いると思いますが
  同時に座る練習をするセラピストは多くありません。

  私は立ち上がりの練習をするよりも座る練習をした方が
  より安全に円滑に立ち上がれるようになると考えており
  第12回神奈川県作業療法学会のワークショップで発表もしましたし
  こちらのサイトでも「立ち上がり」で検索していただければ
  多数の記事がヒットすると思います。

「できることのでき方をよくしていく」
という考え方が私の根幹にあります。

実は
できていることにも
できていないことにも
同じように能力も障害も困難も反映されています。

セラピストは
表面的な「できていること」「できていないこと」を見るのではなくて
表面的な事象に反映されている
impairmentの能力・障害・困難を観ることが重要で
(ここまでは、当たり前と思われると思います)
「できていること」の中には、かなり代償を使って
特に粗大なPowerを使って代償している面があります。

  立ち上がりを例にとれば
  腰背部の筋力があるからこそ立ち上がれてしまう。
  疾患によって筋力が以前のように発揮できない状態に陥ると
  立ち上がれなくなる。 
 
  そこで、筋力強化→立ち上がりの練習
  というのが今の一般的な方法論だと思いますが
  そうではなくて
  せっかく筋力が発揮できない状態になることができたので
  本来の身体協調性を発揮して立ち上がれるように再学習する

  そのためには、立ち上がりの練習をすると
  どうしても脳内にインプットされている過去の回路が起動してしまうので
  新しい回路を作るために、座る練習という体験を通して
  筋力を過剰に使わずとも身体協調性を再学習し能力発揮する
  このような方法論で多数の老年期の方が立ち上がれるようになる
  という体験をしてきました。

  私に言わせれば
  立ち上がり100回!とか、大腿四頭筋の筋力増強訓練!とか
  生活期にある方に対してはとんでもない話で
  せっかくの再学習の機会を奪ってしまっているとしか思えません。

  抵抗と防衛のために
  慣習的視点、対応、方法論にセラピストも支配され
  脱却が困難になってしまっています。

「できることのでき方をよくしていく」
というのは、代償を使わず本来の能力発揮を援助する
能力がより合理的に発揮できるように援助する
という意味なのです。

同じコトが違うカタチで現れていることは
ヤマほどあります。

認知症のある方への食事介助しかり
対応の工夫しかり
「褒めてあげる」「なじみの関係」etc.
(こちらも過去の記事にありますので、検索してみてください)

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。」

この言葉は
内村鑑三の言葉で
私が大切にしている言葉でもあります。

理論というのは
まさしく〇〇理論、〇〇法も該当しますが
常識、慣習的対応という言葉に置き換えても該当すると考えています。

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。
 事実はことごとくこれを信ぜよ。
 その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、
 あえて心を痛ましむるなかれ。
 事実はついに相調和すべし。
 その宗教的なると科学的なると、
 哲学的なると事実的なるとにかかわらず、
 すべての事実はついに一大事実となりてあらわるべし。」 

後半のくだりは、まさしくその通りで
実際に認知症のある方と接していて何回膝を打ったことか。。。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問であり
まして作業療法は実践の科学です。
実践の科学であるからこそ
解剖学・運動学・症候学などの基礎知識を習得し、
知識を活用して観察・洞察できるようになることが
未来の作業療法に貢献することに他ならないと考えています。

「観察の重要性を知った」
「評価しているつもりだったが、まだまだだと思った」
私の講演を聞いた方から、そのような感想をいただくと本当に嬉しく思います。

ハウツー的思考回路から脱却し
uniqeな目の前の対象者の困りごとの場面そのものを
自身も含めた環境因子の中で
明確に観察・洞察・対処できるようになる人が
一人でも多くなることを願って
このサイトを再開させたいと思います。

 

 

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非習慣的遂行機能の評価

「非習慣的遂行機能の評価」

当院に実習に来る学生さんには、遂行機能の評価は習慣的遂行機能と非習慣的遂行機能の2つを評価するように指導しています。
でも認知症の病態が進行してくると、非習慣的な遂行機能評価の「使えるバッテリー」がないのです。
正確に言うと、現存する非習慣的な遂行機能評価バッテリーは要求水準が高すぎて、中等度・重度の認知症のある方には実施できないのです。
そこで、たとえ標準化されていなくても「評価」ができるツールを考えようと思いました。
それがこちらです。

非習慣的遂行機能の評価

「この線の上にシールを3枚貼ってください」という課題です。
もうすでに、講演等で紹介してはいますがより多くの方に知っていただこうと思ってご紹介します。

用意するものは、写真にあるように、真ん中に太い線をくっきりと引いたA4用紙1枚とシール数枚。
写真ではシールがたくさんありますが、通常はシールは6枚提示しています。
その場の言語理解が可能であれば、HDS-R0/30点の方でも行えました。
この課題のオススメは、日々の暮らしの場面で失敗体験を重ねている認知症のある方にとって失敗やわからないという不安を想起させにくい。いかにも「テスト」「検査」という雰囲気が少ないということです。
また手指の巧緻性の低下があっても、シールを「貼る」だけなら失敗もしにくい。
認知症のある方にとっては「紙に○を書く」よりも「丸いシールを貼る」ほうがずっと心理的抵抗感は少ないものです。
それでいながら遂行機能の「意図・計画・立案」「実行・評価・修正」「目標保持」の過程を明確に評価することが可能です。

「線の上にシールを貼る」のは、線の真上に並べて貼っても良いし、重ねて3枚貼っても良い。
線の上の方の空間にシールを貼っても間違いではありません。
肝心なことはそれらのうちどの方法を選択したのかということです。
なかには、どの方法を選択すべきか確認する人もいるかもしれません。

そして指示した枚数よりも多めにシールを用意しておくというのがもう1つのポイントとなります。
3枚で貼り終えることができるのか、それとも「3枚」を忘れてしまって用意されたシールをすべて貼ってしまうのかが観察ポイントになります。

一見単純に見える「ツール」ですが、人によってさまざまな結果を見せてくれます。
もちろん、私は日常生活での行動観察を重視していますが、認知症のある方の非習慣的な遂行機能障害が明確になることによって、日常生活での暮らしの困難がどういうものであったのかより明確になり、ひいてはどのような援助が適切なのか具体的に考えることができるようになります。

当院では重度の認知症のある方が多いので、このような形で実施していますが、もう少し軽度の方であれば課題を複雑にするように工夫できると思います。

認知症のある方に心理的抵抗感がより少ない方法で、重度の認知症のある方の非習慣的遂行機能障害を評価できる「ツール」としてご紹介しました。

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ひも三つ編み

キャッチボールは「やりとり」の象徴の1つとして、どんな分野でもよく使われているAct.の1つだと思います。
でも、相手めがけて投げることや投げられたボールを落とさずにつかむことができないと導入するのは難しいですよね。
私も風船やバランスボールで代用していた時もありますが、それでも難しい方がいらっしゃいます。
疎通困難で注意の転導性が著明だったり、対象との距離があると認識しづらくなってしまう方など…同じような経験のある方も少なくないのではないでしょうか。

そこで、使えるアイテム、ひも三つ編み登場 (^^)
ひも三つ編み
荷造りしたり、応援用のポンポンを作る時に使うスズランテープを使います。

まずは、相手にテープ端を持ってもらい、私が三つ編みをします。
この時に、私が編む作業に同調してテープ端を引っ張りながら持つことができるかどうか…がポイント。
これができるということは、言葉は介さないけれども、相手を認識して相手との恊働作業をおこなえるということを意味します。

疎通困難で注意集中ができなくて失敗への予期不安が強く情緒不安定な方が他者との恊働作業に集中することができるなら、もうそれだけでも十分だと思います。
非言語のレベルでの「やりとり」という体験をする…ということの意味はとても大きなものがあると感じています。

言語的な意思疎通が困難であったとしても
私が編みやすいようにひもの引っぱり加減を調整する方もいます。
常に一定のテンションでなく微調整しているのです。
また、長い時間続く時には、疲れないようにひもの持ち方を変えたりという工夫をする方もいます。

非言語ではあるけれど
非言語だからこそ、わかることもあります。

それだけではなくて、認知症のある方の場合、さらにその次に進むことができる場合も多いのです。
ひもを触ったり、結んだり…手いたずらを通して「三つ編み」することを思い出す場合も多々あります。
三つ編み…おさげ髪を結ったり、わらじを編んだりと昔の人は「編む」ことはなじみのある動作です。
手続き記憶を活用しやすいのです。

この時にポイントはいくつかあります。

まずは、疎通困難な方や注意集中困難な方には、ウォーミングアップの過程を怠らないこと。です。
挨拶であったり、笑顔でのアイコンタクトであったり…
使う材料を手いたずらする…なんてことも制止したくなるかもしれませんが
手で材料に触れるということは重要な対象認識の一過程でもあるので大切にしていただきたいと思います。
対象者の傍らに寄り添っていれば、まだ「その時」ではないのか、あるいは導入開始の時なのかといったタイミングがわかると思いますので、そのタイミングを逃さずに介入してみてください。

また、対象認識が低下している場合には認識しやすいような工夫も必要です。
例えば、スズランテープを3色使うと重ね方が明確になりますし
言葉で「左端のひもをもって…」と説明するよりも、「赤いひもをもって…」と説明したほうが理解しやすくなります。
「左端」という言葉は相対的な説明ですので1つの場面内の複数の対象を認識してさらにそれらの相対的な関係性を認識できていないと理解できません。
このような説明は認知症のある方にとってハードルが高すぎます。
一目瞭然という場面設定、作業に語らせるという場面設定を工夫することが重要なのです。

そして、何よりも重要なことは、三つ編みができるようにという観点から引き算で対象者をみない。ということです。
ここができないから三つ編みできない…ここをがんばってできるように…ではないのです。
それでは三つ編みを「させる」ことになってしまいかねません。

非言語での恊働作業ができるだけでいい。
1人でひもで手遊びに集中できるならそれでいい。
三つ編みできたら「もっと」いいね。
というように、今を否定せずにプラスを積み重ねていく「みかた」です。

スズランテープは材料費が安い。入手しやすい。
ひも三つ編み
そして、何よりもシンプルな工程で段階付けや切り替えをスムーズに展開しやすい…というところが大きな利点です。

どの分野でも使われているキャッチボールですが
キャッチボールが象徴している「はたらき」を活用したAct.として「ひも三つ編み」をご紹介しました。

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評価に基づいた家族支援

評価に基づいた家族支援自分としては、当たり前だと思ってやってきたことが
実は、当たり前ではなかったんだ…と思わされることがよくあります(^^;
家族評価もその1つ。

一時期、インフォームドコンセントでも話題になった説明のありかた。
最近はあんまり話題にならないような気がしますが
こちらが言いたいことを(医学上言うべきことを)ただ言うだけで本当によいのか?
という問題提起がかつて為されていました。

退院支援も同じだと思うんです。
とりわけ、認知症のある方には「対応の工夫」がとても大切だから。

でも、いろいろなご家族がいらっしゃいます。
…療法士だっていろいろな療法士がいますけどね (^^;

老老介護、認認介護という言葉も耳にしますが
キーパーソンが高齢の方だって少なくありませんから、ご家族の介護力の評価は必須だと考えています。

せっかく入院して良くなって退院されるのですから
できるだけ長く家で暮らしていただきたい
良い状態が続いてほしい
そう思えば、ご本人だけでなく、ご家族(心理的環境)と家(物理的環境)の評価は必然です。
家庭訪問は相手のテリトリーに入ることですから、家屋構造だけでなくご家族の状況の理解も進みます。
(ご家族だって病院という場よりも自分の家のほうが話しやすくなることも多いようです)
そんなわけで退院前の訪問指導は必ず行くようにしています。
また、当院はご家族の面会が非常に多いので、ふだんからなるべく状態報告も含めて積極的に声をかけるようにしています。

そういった一連の過程を通して、ご家族のできること、苦手なことなどを把握していきます。
つまり、家族評価…家族の能力と困難と特性の把握に努めています。
ご家族に何をどこまでどんな風に伝えるか、ということは、すごく気をつけています。

在宅生活は長期戦ですから、続けられなければ意味がありません。
ご家族にはご家族の生活だってあります。
介護者が倒れたら在宅生活だって破綻してしまいます。
そのあたりを念頭において、家族評価をおこないます。

話をして「はい、わかりました」と言ったから、このご家族は大丈夫…というような判断はとてもできません(^^;
きちんと「行動」を確認しています。
複数の異なる種類と難易度も違う課題を依頼して、その結果を確認します。
大切なことは、どんな風に…という質的な評価です。
必要であれば、評価をより明確にしぼりこむために「やりとり」を「使う」こともしています。
つまり、対象者の評価をするために場面設定や課題の種類、難易度を工夫するということと同じことをしているのです。
「家族評価は難しい」「そんなのわからない」という声も聞きますが、判断の範囲を狭めることは十分に可能です。

ないものねだりはできない。
できないことを要請したってお互いに苦しくなるだけです。
それよりも、できることをお互い努力する。
できないことでどうしても必要なことは次善の策を考える。

対象者に対しても、ご家族に対しても、チームの仲間に対しても言えることです。
現状を把握することができて初めて適切な対応を考えることができます。

今、できることをする。
そこからスタートする。
そのために私たちができる工夫はいっぱいあります。

障害を抱えた方は
自身の暮らしを変えざるを得ません。
ご家族も今までの暮らしを変えることを否応なく要請されます。
私たちは…?
私たちだって、工夫する…ということを要請されているのだと感じています。

対象者へのリハがオーダーメイドであるなら
家族支援だってオーダーメイドのはず。
どちらも肝心なのは「評価」です。
「評価」があって初めて適切な支援を行うことができます。

私たちの仕事は
対象者を「診断」することではなく「暮らしの援助」であるように
ご家族の介護力を揶揄することではなく「援助」なのですから。

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作業に語らせる:輪くさり

時節柄のご紹介。と言っても、七夕さまはもう過ぎてしまいましたが…(^^;
イベントに必須の輪くさり。です。
作業に語らせる:輪くさり
一見簡単そうに見えますが
たかが、輪くさり。されど、輪くさり。
認知症のある方にとっては難しい場合も少なくありません。
よく遭遇するパターンが
輪っかを作れるけど、輪っかをつなげることができない。
作業に語らせる:輪くさり
輪っかをつなぐことはわかってるけど、どうやってつなげるのか思い出せない。
作業に語らせる:輪くさり

輪くさりを作る…という時には、まず、見本を作って置いておきます。
(何回も言うようですが、これは必須です。)
そして、いったん作り方を実演+言葉で説明します。
(これでできれば、苦労はない(^^; ここからがポイント)

まずは実際に作っていただきます。
この時に、どこまでできて、どこからできないのかを確認します。
できないところ、できそうで違っているところから介入します。
例えば、輪の中に折り紙を通してから渡す
渡された折り紙の端を重ね合わせてのりづけする…という最後の行程はしていただきます。

SDATのある方だと、何回か反復するとその場では行程を遂行することができるようになってくることが多いのです。
行程の遂行を確認した後で、今度は輪の中に少しだけ折り紙を差し入れて渡すようにします。
この時に油断しないで、行程の遂行を確認します。
人によっては、これだけの違いでもできなくなってしまう方もいるので、その時にはまた援助をもとに戻します。
折り紙を少しだけ差し入れるだけの援助でも行程を遂行できるようになったら
今度は輪っかと折り紙を渡します。
輪の中に通す作業をしていただくのです。
それでもできるようだったら、近くに折り紙をまとめて置いておいて見守りだけにします。

ここでのポイントは常に見守りを続けること。
最初は調子良くできていても、途中でわからなくなってしまう方もかなりいるので
困っている様子が見えたら、混乱しないようにすぐに援助をすることが大切です。

「足し算で考え、引き算で対応」

でも書いたように、ポイントは援助をだんだんと引いていく。
行程の最後は自力でできるように、行程の途中を援助する。ということです。

もうひとつ、ポイント。
相手が作業している時に、良かれと思って言葉で詳しく説明しようとするのは百害あって一利なし。です。
言葉で説明するのではなくて、作業に語らせる。
そのための、場面設定であり、段階付け。なのです。

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足し算で考え、引き算で対応

足し算で考え、引き算で対応「難しいなぁ…」の記事で書きましたが

対象者の方は、既に喪失体験で十分苦しんでいます。
現在の活動と過去の手続き記憶との照合も円滑にはできない
ワーキングメモリも低下している

「目に見えるモノを作り上げる」ということはホントに難しいんです。

臨床でよくあるパターンというのは
あるべき理想像を勝手にイメージして
そこから引き算で現状を考えて
「がんばってこうなろうね」って尻を叩くか
「○○能力低下」ってしたり顔でメモするとか(^^;

いやいや、「できるように援助する」のがOTの仕事です。
だから、たとえば、もっと段階付けに工夫をしてほしいな。

先の記事の「広告紙を半分に手で切る」を例にとって説明すると…

あらかじめ、OTのほうで下準備をしておきます。
半分にきっちり折り込みをつける
紙の端に切れ込みを少し入れておく…という下準備。
対象者の方には、両手で均等に引っ張り合いながら切る動作をしていただきます。
最初は硬めのハリ感のある材質の紙を選んだほうがラクです。

慣れてきたら今度は
OTの下準備は、半分にきっちり折り込みをつけることだけ。
紙の端の切れ込みは省略します。
対象者の方には、切れ込みを入れることと両手で均等に引っ張り合いながら切るの2動作をしていただきます。
ここでもハリ感のある材質を選びます。

さらに慣れてきたら次は
OTの下準備は、紙半分の折り込みの両端と真ん中の3カ所だけにとどめます。
紙の端の切れ込みも省略します。
対象者の方には、紙の端を揃えて半分に折ることと切れ込みを入れることと切ることの3動作をしていただきます。

次に何も折らずに紙をそのまま渡したり、材質もいろいろなハリ感の紙を混ぜたりします。

対象者の能力発揮を足し算で考え
こちらの対応は引き算で段階付けをしたり場面設定を工夫していきます。

言い換えるなら
OTがその場であれこれ助言というカタチで口を出すということは
対象者ーAct.ーOTの3者関係の中で、対象者に対応を迫るということです。
ただでさえ、困難な作業に取り組んでおられるのに
そこへもってきて、さらに、他者(OT)への対応まで求められたら大変です。
(善意の職員はこういうところがわかっていなかったりします)
そんな無謀な同時並行課題を求めたりしないで、対象者ーAct.の2者関係の中で、失敗せずに繰り返し挑戦ができるように、身体運動感覚のコツを身体が思い出せるように、2者の関係性を調整工夫していくような場面設定ができるということが重要だと考えています。

当然、2者の関係性を準備できるということは
対象者の能力と困難と特性の把握ができて初めて可能なことです。
少なくともアタリをつけておくことができなければなりません。
(こういうところがおろそかにされているように感じられてなりません)

「足し算で考え、引き算で対応」しているうちに
手続き記憶が引っ張り出されると、もう場面設定の工夫の必要性もなくなってきます。
そしたら、その時間とエネルギーを他に振り分けることができます。
いかがでしょうか?

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