Category: 工夫のひきだし あれやこれ

観察・洞察から始める対応の工夫

ほとんど休眠状態だったこちらのサイトに
こんなにもたくさんのアクセスをいただき
ありがたく思うと同時に
再開への誓いを新たにしました。

個人のサイト(OT佐藤良枝のDcゼミナール)を立ち上げたこともあり
どのように使い分けをしていくかは
走りながら考えていこうと思っています。

ただ
再開にあたり考えたこともあります。
それは事実に即して記述していくということです。

そんなの、当たり前じゃん。って思われるかもしれませんが
多くの場合に、常識とされている慣習的対応や視点、考え方に
無自覚のうちに支配されていることって多々あります。

  例えば
  老年期のリハ場面で立ち上がりの練習をするセラピストは
  大勢いると思いますが
  同時に座る練習をするセラピストは多くありません。

  私は立ち上がりの練習をするよりも座る練習をした方が
  より安全に円滑に立ち上がれるようになると考えており
  第12回神奈川県作業療法学会のワークショップで発表もしましたし
  こちらのサイトでも「立ち上がり」で検索していただければ
  多数の記事がヒットすると思います。

「できることのでき方をよくしていく」
という考え方が私の根幹にあります。

実は
できていることにも
できていないことにも
同じように能力も障害も困難も反映されています。

セラピストは
表面的な「できていること」「できていないこと」を見るのではなくて
表面的な事象に反映されている
impairmentの能力・障害・困難を観ることが重要で
(ここまでは、当たり前と思われると思います)
「できていること」の中には、かなり代償を使って
特に粗大なPowerを使って代償している面があります。

  立ち上がりを例にとれば
  腰背部の筋力があるからこそ立ち上がれてしまう。
  疾患によって筋力が以前のように発揮できない状態に陥ると
  立ち上がれなくなる。 
 
  そこで、筋力強化→立ち上がりの練習
  というのが今の一般的な方法論だと思いますが
  そうではなくて
  せっかく筋力が発揮できない状態になることができたので
  本来の身体協調性を発揮して立ち上がれるように再学習する

  そのためには、立ち上がりの練習をすると
  どうしても脳内にインプットされている過去の回路が起動してしまうので
  新しい回路を作るために、座る練習という体験を通して
  筋力を過剰に使わずとも身体協調性を再学習し能力発揮する
  このような方法論で多数の老年期の方が立ち上がれるようになる
  という体験をしてきました。

  私に言わせれば
  立ち上がり100回!とか、大腿四頭筋の筋力増強訓練!とか
  生活期にある方に対してはとんでもない話で
  せっかくの再学習の機会を奪ってしまっているとしか思えません。

  抵抗と防衛のために
  慣習的視点、対応、方法論にセラピストも支配され
  脱却が困難になってしまっています。

「できることのでき方をよくしていく」
というのは、代償を使わず本来の能力発揮を援助する
能力がより合理的に発揮できるように援助する
という意味なのです。

同じコトが違うカタチで現れていることは
ヤマほどあります。

認知症のある方への食事介助しかり
対応の工夫しかり
「褒めてあげる」「なじみの関係」etc.
(こちらも過去の記事にありますので、検索してみてください)

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。」

この言葉は
内村鑑三の言葉で
私が大切にしている言葉でもあります。

理論というのは
まさしく〇〇理論、〇〇法も該当しますが
常識、慣習的対応という言葉に置き換えても該当すると考えています。

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。
 事実はことごとくこれを信ぜよ。
 その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、
 あえて心を痛ましむるなかれ。
 事実はついに相調和すべし。
 その宗教的なると科学的なると、
 哲学的なると事実的なるとにかかわらず、
 すべての事実はついに一大事実となりてあらわるべし。」 

後半のくだりは、まさしくその通りで
実際に認知症のある方と接していて何回膝を打ったことか。。。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問であり
まして作業療法は実践の科学です。
実践の科学であるからこそ
解剖学・運動学・症候学などの基礎知識を習得し、
知識を活用して観察・洞察できるようになることが
未来の作業療法に貢献することに他ならないと考えています。

「観察の重要性を知った」
「評価しているつもりだったが、まだまだだと思った」
私の講演を聞いた方から、そのような感想をいただくと本当に嬉しく思います。

ハウツー的思考回路から脱却し
uniqeな目の前の対象者の困りごとの場面そのものを
自身も含めた環境因子の中で
明確に観察・洞察・対処できるようになる人が
一人でも多くなることを願って
このサイトを再開させたいと思います。

 

 

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非習慣的遂行機能の評価

「非習慣的遂行機能の評価」

当院に実習に来る学生さんには、遂行機能の評価は習慣的遂行機能と非習慣的遂行機能の2つを評価するように指導しています。
でも認知症の病態が進行してくると、非習慣的な遂行機能評価の「使えるバッテリー」がないのです。
正確に言うと、現存する非習慣的な遂行機能評価バッテリーは要求水準が高すぎて、中等度・重度の認知症のある方には実施できないのです。
そこで、たとえ標準化されていなくても「評価」ができるツールを考えようと思いました。
それがこちらです。

非習慣的遂行機能の評価

「この線の上にシールを3枚貼ってください」という課題です。
もうすでに、講演等で紹介してはいますがより多くの方に知っていただこうと思ってご紹介します。

用意するものは、写真にあるように、真ん中に太い線をくっきりと引いたA4用紙1枚とシール数枚。
写真ではシールがたくさんありますが、通常はシールは6枚提示しています。
その場の言語理解が可能であれば、HDS-R0/30点の方でも行えました。
この課題のオススメは、日々の暮らしの場面で失敗体験を重ねている認知症のある方にとって失敗やわからないという不安を想起させにくい。いかにも「テスト」「検査」という雰囲気が少ないということです。
また手指の巧緻性の低下があっても、シールを「貼る」だけなら失敗もしにくい。
認知症のある方にとっては「紙に○を書く」よりも「丸いシールを貼る」ほうがずっと心理的抵抗感は少ないものです。
それでいながら遂行機能の「意図・計画・立案」「実行・評価・修正」「目標保持」の過程を明確に評価することが可能です。

「線の上にシールを貼る」のは、線の真上に並べて貼っても良いし、重ねて3枚貼っても良い。
線の上の方の空間にシールを貼っても間違いではありません。
肝心なことはそれらのうちどの方法を選択したのかということです。
なかには、どの方法を選択すべきか確認する人もいるかもしれません。

そして指示した枚数よりも多めにシールを用意しておくというのがもう1つのポイントとなります。
3枚で貼り終えることができるのか、それとも「3枚」を忘れてしまって用意されたシールをすべて貼ってしまうのかが観察ポイントになります。

一見単純に見える「ツール」ですが、人によってさまざまな結果を見せてくれます。
もちろん、私は日常生活での行動観察を重視していますが、認知症のある方の非習慣的な遂行機能障害が明確になることによって、日常生活での暮らしの困難がどういうものであったのかより明確になり、ひいてはどのような援助が適切なのか具体的に考えることができるようになります。

当院では重度の認知症のある方が多いので、このような形で実施していますが、もう少し軽度の方であれば課題を複雑にするように工夫できると思います。

認知症のある方に心理的抵抗感がより少ない方法で、重度の認知症のある方の非習慣的遂行機能障害を評価できる「ツール」としてご紹介しました。

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ひも三つ編み

キャッチボールは「やりとり」の象徴の1つとして、どんな分野でもよく使われているAct.の1つだと思います。
でも、相手めがけて投げることや投げられたボールを落とさずにつかむことができないと導入するのは難しいですよね。
私も風船やバランスボールで代用していた時もありますが、それでも難しい方がいらっしゃいます。
疎通困難で注意の転導性が著明だったり、対象との距離があると認識しづらくなってしまう方など…同じような経験のある方も少なくないのではないでしょうか。

そこで、使えるアイテム、ひも三つ編み登場 (^^)
ひも三つ編み
荷造りしたり、応援用のポンポンを作る時に使うスズランテープを使います。

まずは、相手にテープ端を持ってもらい、私が三つ編みをします。
この時に、私が編む作業に同調してテープ端を引っ張りながら持つことができるかどうか…がポイント。
これができるということは、言葉は介さないけれども、相手を認識して相手との恊働作業をおこなえるということを意味します。

疎通困難で注意集中ができなくて失敗への予期不安が強く情緒不安定な方が他者との恊働作業に集中することができるなら、もうそれだけでも十分だと思います。
非言語のレベルでの「やりとり」という体験をする…ということの意味はとても大きなものがあると感じています。

言語的な意思疎通が困難であったとしても
私が編みやすいようにひもの引っぱり加減を調整する方もいます。
常に一定のテンションでなく微調整しているのです。
また、長い時間続く時には、疲れないようにひもの持ち方を変えたりという工夫をする方もいます。

非言語ではあるけれど
非言語だからこそ、わかることもあります。

それだけではなくて、認知症のある方の場合、さらにその次に進むことができる場合も多いのです。
ひもを触ったり、結んだり…手いたずらを通して「三つ編み」することを思い出す場合も多々あります。
三つ編み…おさげ髪を結ったり、わらじを編んだりと昔の人は「編む」ことはなじみのある動作です。
手続き記憶を活用しやすいのです。

この時にポイントはいくつかあります。

まずは、疎通困難な方や注意集中困難な方には、ウォーミングアップの過程を怠らないこと。です。
挨拶であったり、笑顔でのアイコンタクトであったり…
使う材料を手いたずらする…なんてことも制止したくなるかもしれませんが
手で材料に触れるということは重要な対象認識の一過程でもあるので大切にしていただきたいと思います。
対象者の傍らに寄り添っていれば、まだ「その時」ではないのか、あるいは導入開始の時なのかといったタイミングがわかると思いますので、そのタイミングを逃さずに介入してみてください。

また、対象認識が低下している場合には認識しやすいような工夫も必要です。
例えば、スズランテープを3色使うと重ね方が明確になりますし
言葉で「左端のひもをもって…」と説明するよりも、「赤いひもをもって…」と説明したほうが理解しやすくなります。
「左端」という言葉は相対的な説明ですので1つの場面内の複数の対象を認識してさらにそれらの相対的な関係性を認識できていないと理解できません。
このような説明は認知症のある方にとってハードルが高すぎます。
一目瞭然という場面設定、作業に語らせるという場面設定を工夫することが重要なのです。

そして、何よりも重要なことは、三つ編みができるようにという観点から引き算で対象者をみない。ということです。
ここができないから三つ編みできない…ここをがんばってできるように…ではないのです。
それでは三つ編みを「させる」ことになってしまいかねません。

非言語での恊働作業ができるだけでいい。
1人でひもで手遊びに集中できるならそれでいい。
三つ編みできたら「もっと」いいね。
というように、今を否定せずにプラスを積み重ねていく「みかた」です。

スズランテープは材料費が安い。入手しやすい。
ひも三つ編み
そして、何よりもシンプルな工程で段階付けや切り替えをスムーズに展開しやすい…というところが大きな利点です。

どの分野でも使われているキャッチボールですが
キャッチボールが象徴している「はたらき」を活用したAct.として「ひも三つ編み」をご紹介しました。

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評価に基づいた家族支援

評価に基づいた家族支援自分としては、当たり前だと思ってやってきたことが
実は、当たり前ではなかったんだ…と思わされることがよくあります(^^;
家族評価もその1つ。

一時期、インフォームドコンセントでも話題になった説明のありかた。
最近はあんまり話題にならないような気がしますが
こちらが言いたいことを(医学上言うべきことを)ただ言うだけで本当によいのか?
という問題提起がかつて為されていました。

退院支援も同じだと思うんです。
とりわけ、認知症のある方には「対応の工夫」がとても大切だから。

でも、いろいろなご家族がいらっしゃいます。
…療法士だっていろいろな療法士がいますけどね (^^;

老老介護、認認介護という言葉も耳にしますが
キーパーソンが高齢の方だって少なくありませんから、ご家族の介護力の評価は必須だと考えています。

せっかく入院して良くなって退院されるのですから
できるだけ長く家で暮らしていただきたい
良い状態が続いてほしい
そう思えば、ご本人だけでなく、ご家族(心理的環境)と家(物理的環境)の評価は必然です。
家庭訪問は相手のテリトリーに入ることですから、家屋構造だけでなくご家族の状況の理解も進みます。
(ご家族だって病院という場よりも自分の家のほうが話しやすくなることも多いようです)
そんなわけで退院前の訪問指導は必ず行くようにしています。
また、当院はご家族の面会が非常に多いので、ふだんからなるべく状態報告も含めて積極的に声をかけるようにしています。

そういった一連の過程を通して、ご家族のできること、苦手なことなどを把握していきます。
つまり、家族評価…家族の能力と困難と特性の把握に努めています。
ご家族に何をどこまでどんな風に伝えるか、ということは、すごく気をつけています。

在宅生活は長期戦ですから、続けられなければ意味がありません。
ご家族にはご家族の生活だってあります。
介護者が倒れたら在宅生活だって破綻してしまいます。
そのあたりを念頭において、家族評価をおこないます。

話をして「はい、わかりました」と言ったから、このご家族は大丈夫…というような判断はとてもできません(^^;
きちんと「行動」を確認しています。
複数の異なる種類と難易度も違う課題を依頼して、その結果を確認します。
大切なことは、どんな風に…という質的な評価です。
必要であれば、評価をより明確にしぼりこむために「やりとり」を「使う」こともしています。
つまり、対象者の評価をするために場面設定や課題の種類、難易度を工夫するということと同じことをしているのです。
「家族評価は難しい」「そんなのわからない」という声も聞きますが、判断の範囲を狭めることは十分に可能です。

ないものねだりはできない。
できないことを要請したってお互いに苦しくなるだけです。
それよりも、できることをお互い努力する。
できないことでどうしても必要なことは次善の策を考える。

対象者に対しても、ご家族に対しても、チームの仲間に対しても言えることです。
現状を把握することができて初めて適切な対応を考えることができます。

今、できることをする。
そこからスタートする。
そのために私たちができる工夫はいっぱいあります。

障害を抱えた方は
自身の暮らしを変えざるを得ません。
ご家族も今までの暮らしを変えることを否応なく要請されます。
私たちは…?
私たちだって、工夫する…ということを要請されているのだと感じています。

対象者へのリハがオーダーメイドであるなら
家族支援だってオーダーメイドのはず。
どちらも肝心なのは「評価」です。
「評価」があって初めて適切な支援を行うことができます。

私たちの仕事は
対象者を「診断」することではなく「暮らしの援助」であるように
ご家族の介護力を揶揄することではなく「援助」なのですから。

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作業に語らせる:輪くさり

時節柄のご紹介。と言っても、七夕さまはもう過ぎてしまいましたが…(^^;
イベントに必須の輪くさり。です。
作業に語らせる:輪くさり
一見簡単そうに見えますが
たかが、輪くさり。されど、輪くさり。
認知症のある方にとっては難しい場合も少なくありません。
よく遭遇するパターンが
輪っかを作れるけど、輪っかをつなげることができない。
作業に語らせる:輪くさり
輪っかをつなぐことはわかってるけど、どうやってつなげるのか思い出せない。
作業に語らせる:輪くさり

輪くさりを作る…という時には、まず、見本を作って置いておきます。
(何回も言うようですが、これは必須です。)
そして、いったん作り方を実演+言葉で説明します。
(これでできれば、苦労はない(^^; ここからがポイント)

まずは実際に作っていただきます。
この時に、どこまでできて、どこからできないのかを確認します。
できないところ、できそうで違っているところから介入します。
例えば、輪の中に折り紙を通してから渡す
渡された折り紙の端を重ね合わせてのりづけする…という最後の行程はしていただきます。

SDATのある方だと、何回か反復するとその場では行程を遂行することができるようになってくることが多いのです。
行程の遂行を確認した後で、今度は輪の中に少しだけ折り紙を差し入れて渡すようにします。
この時に油断しないで、行程の遂行を確認します。
人によっては、これだけの違いでもできなくなってしまう方もいるので、その時にはまた援助をもとに戻します。
折り紙を少しだけ差し入れるだけの援助でも行程を遂行できるようになったら
今度は輪っかと折り紙を渡します。
輪の中に通す作業をしていただくのです。
それでもできるようだったら、近くに折り紙をまとめて置いておいて見守りだけにします。

ここでのポイントは常に見守りを続けること。
最初は調子良くできていても、途中でわからなくなってしまう方もかなりいるので
困っている様子が見えたら、混乱しないようにすぐに援助をすることが大切です。

「足し算で考え、引き算で対応」

でも書いたように、ポイントは援助をだんだんと引いていく。
行程の最後は自力でできるように、行程の途中を援助する。ということです。

もうひとつ、ポイント。
相手が作業している時に、良かれと思って言葉で詳しく説明しようとするのは百害あって一利なし。です。
言葉で説明するのではなくて、作業に語らせる。
そのための、場面設定であり、段階付け。なのです。

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足し算で考え、引き算で対応

足し算で考え、引き算で対応「難しいなぁ…」の記事で書きましたが

対象者の方は、既に喪失体験で十分苦しんでいます。
現在の活動と過去の手続き記憶との照合も円滑にはできない
ワーキングメモリも低下している

「目に見えるモノを作り上げる」ということはホントに難しいんです。

臨床でよくあるパターンというのは
あるべき理想像を勝手にイメージして
そこから引き算で現状を考えて
「がんばってこうなろうね」って尻を叩くか
「○○能力低下」ってしたり顔でメモするとか(^^;

いやいや、「できるように援助する」のがOTの仕事です。
だから、たとえば、もっと段階付けに工夫をしてほしいな。

先の記事の「広告紙を半分に手で切る」を例にとって説明すると…

あらかじめ、OTのほうで下準備をしておきます。
半分にきっちり折り込みをつける
紙の端に切れ込みを少し入れておく…という下準備。
対象者の方には、両手で均等に引っ張り合いながら切る動作をしていただきます。
最初は硬めのハリ感のある材質の紙を選んだほうがラクです。

慣れてきたら今度は
OTの下準備は、半分にきっちり折り込みをつけることだけ。
紙の端の切れ込みは省略します。
対象者の方には、切れ込みを入れることと両手で均等に引っ張り合いながら切るの2動作をしていただきます。
ここでもハリ感のある材質を選びます。

さらに慣れてきたら次は
OTの下準備は、紙半分の折り込みの両端と真ん中の3カ所だけにとどめます。
紙の端の切れ込みも省略します。
対象者の方には、紙の端を揃えて半分に折ることと切れ込みを入れることと切ることの3動作をしていただきます。

次に何も折らずに紙をそのまま渡したり、材質もいろいろなハリ感の紙を混ぜたりします。

対象者の能力発揮を足し算で考え
こちらの対応は引き算で段階付けをしたり場面設定を工夫していきます。

言い換えるなら
OTがその場であれこれ助言というカタチで口を出すということは
対象者ーAct.ーOTの3者関係の中で、対象者に対応を迫るということです。
ただでさえ、困難な作業に取り組んでおられるのに
そこへもってきて、さらに、他者(OT)への対応まで求められたら大変です。
(善意の職員はこういうところがわかっていなかったりします)
そんな無謀な同時並行課題を求めたりしないで、対象者ーAct.の2者関係の中で、失敗せずに繰り返し挑戦ができるように、身体運動感覚のコツを身体が思い出せるように、2者の関係性を調整工夫していくような場面設定ができるということが重要だと考えています。

当然、2者の関係性を準備できるということは
対象者の能力と困難と特性の把握ができて初めて可能なことです。
少なくともアタリをつけておくことができなければなりません。
(こういうところがおろそかにされているように感じられてなりません)

「足し算で考え、引き算で対応」しているうちに
手続き記憶が引っ張り出されると、もう場面設定の工夫の必要性もなくなってきます。
そしたら、その時間とエネルギーを他に振り分けることができます。
いかがでしょうか?

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ちぎり絵の工夫

塗り絵は、かなりお年寄りに対して使われているAct.のようですが
実際には、複数の下絵から対象者が選んで行う…という対応が多いようです。
場面設定、段階付けがもっと細やかに為されるといいのにな…と感じています。

塗り絵については、「よっしーずボイス」の下記記事をご参照ください。
「下絵の大きさ」 http://kana-ot.jp/wp/yosshi/214
「下絵の用意」 http://kana-ot.jp/wp/yosshi/197
「下絵の工夫」 http://kana-ot.jp/wp/yosshi/196
「幼稚な画題はNG」 http://kana-ot.jp/wp/yosshi/194

ここからは、「ちぎり絵の工夫」について、場面設定のことをご説明します。
たぶん、事前に和紙を色ごとにちぎってケースに入れておくという準備をしている方は多いと思います。
ちぎり絵の工夫

でも、お年寄りで手指の巧緻性、協調性が低下している方って結構いらっしゃるんです。
まして、このような創作作業からは遠ざかっていた…というケースがほとんどです。
評価として、身体能力低下という判断を下す前に、この「やり慣れていない」ということを配慮してほしいな…と常々思っています。
認知症のある方は、日々喪失体験を重ねておられます。
その過程において、最低限の身の回りのことはしても、それ以上のことから遠ざかることがあっても決して不思議はありません。
私たちが初めて新車を運転する時の「違和感」のようなもの、それ以上のものを感じておられるのではないでしょうか。

ちぎり絵は和紙を使うと仕上がりがキレイにできますが、和紙の1片をつまむ…ということが案外難しかったりするものです。
軽く、素材からの抵抗感がほとんどないので、ひとかたまりの和紙の中から1枚だけつまみあげるということが難しいのです。
「何回いっても、和紙をまとめて持ち上げてしまう」
という状態像は、認知症からくるものではなくて、身体的な困難さから生じている場合もあります。
ちぎり絵の工夫

そんな時には、この写真左側のように、タオルの上に和紙を1片ずつ置いておきます。
タオルと和紙との摩擦により、和紙をつまみ上げる時に抵抗感が生じるのでしっかりとつまめるようになります。
また、和紙がタオルの上に並んでいるので色味を一目で確認しやすくなります。

そして、ちぎり絵の下絵といえば、塗り絵と同じように枠線だけ描かれてあるものを用いることが多いかと思いますが、時には、写真右側のように塗り絵の見本をカラーコピーして使ったりもします。
「対象を想起し、その対象の色を紙で再現していることを行っているのだ」という短期記憶が(この場合は、ナスの色を紙で再現している)落ちている方でも、下絵の色と同じ色を貼っていくという工程をおこなうことはしやすいです。

塗り絵は色を創り出すことによって対象を再現するという課題です。
創り出す過程を楽しめるのなら良いのですが、往々にしてその過程を楽しめているかどうかの判断よりも、ただ単に色を塗ることはできるかどうかという判断によって塗り絵が提供されているケースが多いように感じられてなりません。

そのような方には、塗り絵を続けるよりも、ちぎり絵のほうが適切な場合もあります。
色を創り出すことは紙に任せてしまえるからです。
和紙には微妙な濃淡の違いがあるという素材の特性を活用できます。
あまり深く考えずとも、結果として微妙な色合いの変化が起こって作品の仕上がりがキレイになります。

既に色のついている下絵を使用すれば、和紙の貼り残しがあったとしても目立ちません。
かえって色合いの変化という良い面が生じる結果となります。
ちぎり絵の工夫

和紙だけでなく、100円ショップで売られている折り紙でも濃淡のある折り紙を使用してもよいでしょう。

作品としての仕上がりが美しいかどうかは対象者の方自身がしっかりと感じられることです。
せっかくがんばっておこなったのに仕上がりが今1つでは、どんなに周囲の職員から褒められても満足度は高くないのではないでしょうか。

単にできるかできないかではなくて、より容易に行いやすいように、より仕上がりのキレイなものになるように、私たちができる準備はたくさんあるように感じられてなりません。

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援助の言葉、意思表示の言葉

援助の言葉、意思表示の言葉ふだん、何気なく使っている言葉をちょっと考え直してみる
これって、とても大切なことだと思います。

たとえば…
「対応を話し合う」にあげた、「車いすを押しますよ」という言葉
たぶん、とてもよく使われている言葉だと思うけれど
案外、無自覚に使われている言葉でもあると思います。

どういうことかというと…
「車いすを押しますよ」は、意思表示の言葉。
通常の会話なら、この言葉を聞けば
相手の意思表示→自分が座っている車いすが押される→自分が動かされる
と推測してもらえるけれど
認知症のある方の場合、この推測するということが困難な方もおられます。
「車いすを押しますよ」という言葉は聞こえているけれど
聞こえた言葉から自分の身に次に起こる状況を予測することと結びつけられない。のです。

そういう場合には、援助の言葉を使います。
「○○さん、動きますよ」
と、これから起こる状況を説明しながら伝えるのです。

ほとんどの人は
食事介助する時に「ご飯を食べさせますよ」とは言わないものです。
たいてい、「お食事しましょう」「食べましょう」という言葉を使っていると思います。

意思表示の言葉と援助の言葉

私たちは実は無自覚のうちに使い分けているのです。
でも、無自覚だからこそ
使っている言葉が意図せずに伝えていることに気がつけない…
認知症のある方の混乱や情緒不安という
「障害」や「問題」として現在扱われているコトの中に
実は、私たちの無自覚な言葉が
意図せずにもたらしてしまっているコトが含まれているのではないかと考えています。

だから
私たち自身が私たちが扱う「言葉」を
もっと自覚的に使い分けられたらいいんじゃないかなぁ…と思うのです。

「声かけは大事」

誰だってそう言うし
そのことに関して否定する人はいないと思うけど
声をかけりゃあいいってもんでもない(^^;
それなのに、具体的に現実的には
あんまり検討されてこなかったように感じられてなりません。

一般的な抽象論として考えるのではなくて

その時その場のその人にとって
理解しやすいように言葉を意図的に使うということを
具体的に自覚して実行することが大事…なんだと思うのですが。

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