ICFだからこそ関与に意味がある

リハの世界では
ICIDHではなくてICFを用いるようになって久しいですが
その実、臨床現場での思考過程はまだまだICIDHに染まっている
ICFに切り替えられていないと感じることが多々あります。

「BPSDには原因があるから、その原因を探索しましょう」
というような切り口は、正しく因果関係論であるICIDHそのものです。

BPSDの「きっかけ」に過ぎないものを「原因」と認識しようとするから
解決できずに大勢の人が悩んでいるのではないでしょうか?

人は
過去から現在そして未来へと続く、「時間」という縦糸と
現在の様々な「場面」という横糸との
複合した関係性の中に存在しています。

まさしく、
華厳経の縁起そのもの
相互関係論というICFそのものです。

対象が
機械や物質であれば、ICIDHに依拠した考え方は正当でしょう。

けれど
対象が人なのですから、対人援助の考え方にICIDHが合致するわけではない。
急性的な症状などICIDHを包含することはあっても。

人の生命活動の営みは解明され尽くしたわけではないのですから
今現在も、これからも、発見・再発見が続いていくことでしょう。

今は、原因と判断されていることも
将来、実は結果だったと判断され直すことだって起こり得ます。

人の暮らしの困難において
唯一絶対の「原因」があるわけではありません。

様々な「要因」が相互に関与しあって変化しています。

その変化が急激に起こるか、緩徐に起こるかという違いはあっても

だからこそ、援助という関与の追加に意味があるし
関与の仕方によっては、変化を良い方向にも悪い方向にも動かすことになってしまう。

私は若い時には
自身の関与に自信がなかったから
本当に怖かった。

せめて
私の関与によって悪くしないようにしなければ
できれば
私の関与によって良くなってもらいたい
良くなることが叶うならば、より早くより確実に良くなってもらいたい

本当に必死だった。

目の前にいる方の
障害なのか、能力低下なのか、能力の過剰代償なのか
区別がつけられるような観察力と洞察力を
これからも磨き続けていきたいと思っています。

  

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