Tag: 環境適応
認知症のある方の
大声や暴言というカタチで表現されているコトに対して
多くの場合に
カタチを問題視して、
カタチを減らすために、
カタチへの対応の工夫を考える
という方向性で検討されがちです。
でも実は
大声や暴言というカタチでしか表現できないから
というケースが往々にしてあります。
不合理だけど能力でもある。
本当に私たちが考えるべきことは
大声や暴言をどう減らすか
ということではなくて
大声や暴言というカタチ以外のカタチで
表現してもらうには、どうしたらよいのか
つまり、何を表現したいと意図していたのか
確認・把握するということなんです。
だって、能力。なんですもの。
大声や暴言という
一見不合理に見えるけれど
能力の不合理な現れなんだから
大声や暴言を「減らす・改善する」という
「方向性」で考えることは
認知症のある方の能力を失わせるということになってしまう。
たとえ、結果としてであっても。
たとえ、意図していなくても。
こういうことをよくよく考えている人は
実は案外少ないものです。
「寄り添ったケアを」と言いながらも
180度違うことをやってしまっていたり。。。
自分がやっていることが何を意味しているのか
丁寧に考えて、丁寧に自らの実践を振り返る人は
残念なことに、本当に少ない。
私にできることは
日々の実践を通して自らを振り返り続けることと
可能な範囲で発信し続けること。
必ず
真っ正面から受けとめてくれる人の存在を信じて。
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CVA後遺症による摂食・嚥下障害では機能障害が起こる。
でも、認知症のある方の多くの場合には
緩徐な小さな機能障害はあるけれど小さな障害に過ぎない。
けれど、全介助の方は
介助者のスプーン操作という環境に対して
適応しなければ食べることができないから
その関係性の結果として食べ方という現れ方をする。
小さな機能障害を小さなまま維持していくことも
小さな機能障害だったのに大きな問題にしてしまうことも
どちらも起こりうる。
でも、認知症のある方本人の機能障害は小さなものに過ぎない。
ここが
CVA後遺症と認知症のある方との大きな違いです。
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正しさを求めるのではなくて
適切さを意識すると
ブレークスルーにつながることが多いと思う。
世に
「正しい介助」という言葉が溢れていますが
正しさ、正義…って、
時代により場所により異なるものだし
究極的には振られる旗だから
ケアやリハを提供する側が
標語やスローガンを実践し
結果として、対象者にそれらに合わせることを
求めることになってしまう。
そして、提供者側がそのことを自覚できないという。。。
今、この時、この場の
目の前にいる方に対して
適切さを自らに問うことは
常に「関与しながらの観察」を為すことを求められる。
長い時間と多くの先人たちの努力によって
積み重ねてこられた知識と技術を
目の前にいる方に
当てはめることと活用することことは
全然違う。180度違う。
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いったん、ムセっぽくなったり
口の中に溜め込みがちになって
うまく食べられなくなったりした方が
もう一度スムーズに食べられるようになる過程を
恊働して体験できるのは
心底嬉しい
誤嚥性肺炎にならなくてよかった
ラクに食べられるようになってよかった
埋もれていた能力を発揮できるようになってよかった
こんなにも能力がある
ということが伝わってきて
本当に嬉しい
介助が変われば
認知症のある方の食べ方が変わる
機能は変わらずとも
はたらきは変わる
この現実を
たくさんの方に知っていただきたいと思っています。
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具体的な方法論の提供の仕方で迷った時とか
具体的な方法論を考え出した時に
一度考え方に立ち戻って相互矛盾しないか検証しています。
私は
認知症のある方は常に能力を発揮しながらモノゴトに対応している。
能力があるから結果として不合理な言動にもなる。
と確信しているものですが
目の前にいる方の状態の把握をふまえて
こんな風にしてみようかな?と考えた時に
能力を活かしている援助なのか
使役になっていないか
見た目に惑わされて能力を否定していないか
いったん自分の中で考えてから
具体的な方法で対応してみます。
望ましい言動がみられた後に
もう一度何が起こっていたのか
言葉にする作業を自分の中で行います。
その言葉通りに
もう一度行ってみて
矛盾や迷いや疑問が出てこなければ
善しとします。
認知症のある方への対応について
あまりにも表面的にどうする、こうする
ということが取り上げられがちのように感じられますが
大切なのは、認知症のある方への視点・基本的な考え方で
それは空理空論なんかではなくて
唱えるだけのお題目でもなくて
本当に、日々のその場その場の具体的な関わりを
支えるために大切なんだと実感しています。
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知識があるから観察ができる。
観察できるから起こっていることの意味がわかる。
ここをすっとばして
自分の引き出しの中から試しにAという方法が合うかどうかやってみる
ということも現場では少なくないようです。
でも
ここで本当によくよく考えないといけないのは
やってみて効果がないならまだしも
やってみたことによって逆効果になる場合もある
ということ。
そのへんにある薬を手当たり次第に飲んでみる
そんなことをする人はいないと思う。
効果がないだけじゃ済まなくて大変なことになるかも
ってわかってるから。
使い方、用い方って怖い。
本当に効果のある、有効なものほど
副作用とか逆効果って強くでるもの。
認知症のある方への対応の工夫や
なかなか食べてくれない方への工夫だって
まったく同じだと思うんだけど。
でも、なぜか
良かれと思って為されることの害悪について
あんまり検討されていないのかなぁ?
と感じたりします。
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熊本地方の地震活動が一日も早く収束し
被災された方々の困りごとが一刻も早く改善されることを
お祈りしています。
このたび
(私にとっては、まだこのたびという言葉の方が実感があります)
座骨神経痛を患い、おかげさまでとても良くなっているのですが
患者という立場になって感じたことや考えたことは
いろいろとありました。
常日頃、使役と援助は紙一重ということを考えさせられている
立場からもいろいろと感じたり考えてもきました。
私が痛切に感じたことは
自分の身体に起こっていることが
自分に一番わからないということです。
痛みや動けない
ということは当然私が一番わかっていますが
その意味とか今身体に何が起こっているのかが
わからない。
良くなっていく時には
右肩上がり一直線に良くなっていくわけじゃない
ということは、仕事柄わかっていたはずですが
それでも焦ったり不安になったり。。。
自分自身への希望を自分1人で持ちこたえるのは
正直かなり難しかったです。。。
いろいろな方に支えられて
希望を持ち続けることができたのだと感じています。
本当に感謝しています。
自分を信じられなくなるということがどういうことなのか
その一端を感じることができたということを
幾分かでも自分の仕事にも還元できればと思っています。
おこがましいかもしれませんが。。。
私の場合には
私の可能性を信じてくれる人がいたということが
私自身が希望を持ちこたえることの大きな支えとなりました。
可能性は
対象者の状態だけで決まるものではない
ということもはっきりとわかりました。
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POST 理学療法士による、リハビリ職者を目指す人のためのサイト
http://1post.jp
に連載記事が掲載されました。
「望ましいスプーン操作とは?」
http://1post.jp/2016/04/05/interview_ot_dementia_colum04/
たくさんの方に
「いいね!」や「シェア」をしていただき
どうもありがとうございます m(_ _)m
前回、食事介助における不適切なスプーン操作について
記載しましたので
じゃあ、どうしたらいいのか…という内容です。
書いてある内容は一般的な内容ですが
このあたりに気をつけるだけで
重度の認知症のある方でも
ムセが減ったり、
喉頭挙上のタイミングが整ってくる方は
かなりたくさんいらっしゃいます。
次号からは
もう少し突っ込んで
認知症のある方特有の食事介助について
お伝えする予定です。
よかったらお立ち寄りください m(_ _)m
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