Tag: 状態把握

カタチとハタラキ

生活期にある方のポジショニングに関する誤解も
まだまだ根深いものがあります。。。

拘縮を悪化させないように
寝たきりの方の膝や股関節にクッションを当てる時に
全身のアライメントを確認せず
とにかく力まかせに最大可動域にまで広げてクッションを当てるという。。。

でも
時間が経つとクッションがズレてしまったり、はじけ飛んでいたり
クッションを外したとたんに、足がキューっと屈曲してしまうとか
現場あるあるではないでしょうか?

拘縮悪化防止の名のもとの実践が
拘縮悪化防止になっていないどころか
逆効果になることをしてしまっている。。。

善意のもとで為された言動が
常に適切な結果を生むわけではありません。
ところが、善意のもとで為された言動であるが故に
本当に適切だったかどうかの確認が為されにくいという面もあります。

食事介助しかり
帰宅要求への対応しかり
ポジショニングしかり。。。

自分が設定したポジショニングの結果が
適切かどうかは、本来であれば次に訪室した時の対象者の様子を見れば一目瞭然。
見ているはずなのに。。。
見れども観えず
ここでも同じコトが違うカタチで起こっています。

従来から為されてきた対応を検証することなく漫然と行ってしまうと
意味がない、効果がないならまだしも
逆効果になってしまい対象者の不利益になることすらあります。

カタチは働きを規定する一方で
働きの反映でもあります。

カタチを通して反映されているハタラキを観ることが大切

カタチを通して
ハタラキに働きかけることがポイント

拘縮の悪化を予防しようという意思・意図は良いことだけれど
その意図が適切に実行されるためには
知識と技術と、それらを支える観察・洞察力が必要です。

屈曲拘縮のある方に対して
最大可動域いっぱいにクッションを当てるという行動は
見た目のカタチだけ見て、カタチだけ整えようとしているだけで
ハタラキは何も見ていないし、観ようとすらしていないことを意味しています。
屈曲拘縮を全て対象者の問題として認識し、問題として設定しているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ポジショニングをしたら                 ・
・ まず膝や股関節を触って                 ・
・ ちゃんとリラックスして可動域が維持されているのかどうか ・
・ 確認する習慣をつけると良いと思います。         ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

適切に設定できれば
その場ですぐに効果はわかるものです。

ポジショニングしたのに
かえって膝や股関節が硬くなって、ビクともしなくなってしまったら
そのやり方は修正すべきというサインです。

対象者の方が身をもって示してくれているサインを
見落とすことのないように。。。

 

 

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ご家族の言葉

2016年に放映されたNHKスペシャル
「私は家族を殺した ”介護殺人”当事者たちの告白」
を忘れたことはありません。

見るのは辛かったのですが
仕事だと思って最後まで視聴しました。

ショックだったのは
最後の一線を超えてしまった人たちの3/4が
何らかの介護保険サービスを利用していたということです。

介護保険が始まって
確かに良くなったところはたくさんあると感じています。
街に車椅子が当たり前のものとして見かけるようになりました。
従事するたくさんの人のおかげで
助かっている人たちは大勢いると思います。
それでも、どこか、何か、足りない部分がある
ということを示唆しています。
それはいったい何なのか。。。

調べてみるともっと以前から何冊もの本が出版されていたことを知り
そのうちの数冊を読んでみました。

そこに共通していたのは
決して孤立しているご家族だけが介護殺人を起こしてしまったわけではない。
近隣との交流もあり
介護保険も利用し
一生懸命介護している人たちでした。

読み進めていくと
ある本の中に
「認知症を理解したって私たち家族が楽になるわけじゃない」
というご家族の言葉が書かれていました。

認知症の啓蒙は確かに進んできたと思います。
そこで触れられるのは、抽象論・総論・理想論的なものが多いように感じています。

「認知症のある方の言動を否定してはいけない」
「怒ってはいけない」
「褒めてあげることが大事」
「なじみの関係を作る」
「帰宅要求には気をそらせる」
などといった、一見正当のようでいて、
よくよく考えるとおかしな言説が、紹介されることもあるのではないでしょうか。

一方で、
ご家族の相談ごとで最も多いのは、対応の工夫であり
専門家の研修会でテーマの希望で最も多いのも、対応の工夫です。

つまり、抽象論・総論・理想論では
暮らしの困りごとを解決するのは難しいという現実があるのです。

私は全国各地でさまざまな主催団体からの講演依頼を受けてきました。
何のテーマの講演であっても必ず質問されることは
「〇〇という状態の人がいるんですけど、どうしたら良いのでしょうか?」
というカタチの質問です。

それだけ困っているのだとも思いますが
講演の中で、そのようなカタチの質問・ハウツーを求める在りようへの
疑問を提示しているにもかかわらず
ハウツーを求める質問をされるということは
常日頃からハウツー的な対応しかしていないことの証左ではないかと思います。

例えば
食事介助において
常日頃から斜め上にスプーンを引き抜くような介助をしている人に
そのような介助はしてはいけない
〇〇という介助方法に切り替えるべきと伝えると
頭では「そうか。そうしよう。」と思っているのに
なかなか切り替えるのは難しい人は少なからずいるものです。
それとまったく同じコトが違うカタチで現れているのです。

養老孟司は
「人間に関することで、あぁすればこうなるなんてものはない」と述べ
河合隼雄は
「登校拒否を治すボタンがあればいいといった親御さんがいた」と述べていました。

だからこそ
専門家が求められているのだと思います。
理想を具現化できる知識と技術を携えている助力者として。

現実には
理想論はあって
「やってみたらよかった」というハウツーはあっても
その間をつなぐ「考え方」がない。

だから
一生懸命なご家族ほど消耗してしまうし
職員はハウツーを求めて研修会に参加する
という現実があるのではないでしょうか。

実際に、あるご家族から
「今までたくさんの相談機関を訪れて
 そこで言われることはもっともなことばかりだったけれど
 今、私が困っていることへ的確に答えてくれたところは
 どこにもなかった。
 ここにきて初めて納得のいく答えをもらえた。」
と言われたことがあります。

「認知症を理解したって私たち家族が楽になるわけじゃない」

こんなことをご家族に感じさせてしまうのは
やはりおかしなことだと思っています。

知識と技術は
人間の暮らしに役立てるように扱われるものでありこそすれ
決してそれらに縛られてしまうものではないと考えています。

本当の知識と技術は、
認知症のある方だけでなく
同じようにご家族や介助する人に必ず役に立つものです。
楽になるものです。
日々の暮らしの困難がゼロになるわけじゃないけれど
余分な困難を少なくすることはできます。

1手間はかかるけれど
その1手前のおかげで余分な困難がなくなり
いつか1手間が0.5手前になるものです。

ご家族を追い詰めるのではなくて
ご家族にも認知症のある方にも役立てるように
知識と技術をオーダーメイドで適用できるように

私自身の実践で努力するのはもちろん
必ずいるはずの、今困っている、現行への対応に違和感を抱いている
専門家への啓蒙として発信を続けていきたいと思っています。

 

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観察から始まる「寄り添ったケア」

認知症のある方の食事介助でも生活障害でもBPSDでも
困った時に「どうしたら良いのか」を考えることって
たぶんたくさんあると思います。

ケースカンファをしたり
誰かに相談したり

本当は
対応を話し合って考えることをしてはいけないんです。
どうしたら良いのかは考えることではなくて
今、そこで、その方に何が起こっているのか 」
ということを確認し合う
べきなんです。

例えば
私の本の中
食事中の大声という状態像の方が3人出てきます。

「食事中の大声がある方にどうしたら良いのか」
を考えても不毛です。
大声というのは、結果として起こっているに過ぎない
表面的な事象なので
大声に反映されている本質的な課題=何が起こっているのか
大声に反映されている能力と困難について
確認することが課題解決のスタートラインに立つことなんです。

実際問題として
三者三様の状態像があって
それぞれにまったく異なる取り組みをして
3人とも大声が改善
して退院できたのです。

状態像が異なるのですから
対応が異なって当たり前です。

状態像=その時その場をどう感受し認識し対応しようとしていたのか
そこをこそ、きちんと観察することが大事で
観察に基づいて、どのような能力とどのような障害・困難が反映されているのか
そこをこそ、洞察すれば
どうしたら良いのかは自ずから浮かび上がってきます。
まさしく、その方それぞれに、オーダーメイドで対応の工夫をすることになるのです。

詳細は
「 認知症のある方でも食べられるようになるスプーンテクニック 」
をご参照いただければと思います。
そうすれば、
「観察するとはこういうことか」
「観察しているつもりだったけど全然足りていなかった」
ということがはっきりとお分かりいただけると思います。

そして、食事介助の場面で起こっていることは
他の生活障害やBPSDの場面でも
カタチこそ違えど、まったく同じコトが起こっているんです。

困った時には、
どうしたら良いのかを考えるのではなくて
まず、その時その場でその方に起こっていることを観察します。
 
多くの場合、「見れども観えず」になっていて観察し損ねています。
自身が見たいように見ているだけの人も少なくありません。
「この病気は〇〇という症状が出るから」
「前に似た状態の人にこうしてみたらうまくいったから」
「優しくすれば言うことを聞いてくれるから」etc.etc.

そうではなくて
まず虚心に観察することです。
判断を留保して観察します。

その時に、援助の視点を揺るがせにしないことが最も肝要です。
認知症のある方に
言い聞かせようとする、コントロールしようとするような意思があると
その意思は、必ず自身の言動に反映されるものです。
そして、認知症のある方に感受されています。

  その上で、こちらに合わせてくれたり、
  従わざるをえなかったということもあり得ます。
  短期的には表面的に問題行動は修正されたように見えて

  その実、長期的には一層大きな問題となって表面化します。

表面的にどうしたら良いのかを考えるということは
寄り添ったケアという理念から遊離してしまいます。
そして、援助と強制、使役のすり替えに陥るリスクを増大させてしまうのです。

もし、私が他の人より優れている面があるとしたら、
援助と強制、使役のすり替えに自覚的であることと
観察・洞察の力だと思います。

その時その場において、観察・洞察するということが
寄り添ったケアという理念の実践のスタートラインです。

「あなた、どうしてそんなに私のことがわかるの?」
そう問われたこともありました。

私がわかるんじゃなくて
その方がちゃんと表現しているということなんです。

言葉にならない、行動というもう一つの言葉で。

 

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「食べる」再学習:食具

中核症状とBPSD

自力摂取している方に
スプーンの工夫もしますが
 
介助が必要な方に食具を選択することも
食べる能力を発揮していただくためには重要です。

「何を」「どんな風に」
の部分で言えば、「何を」という食形態に関して検討されても
「どんな風に」の介助方法の部分は意外と疎かにされがちです。

スプーン操作の基本を知らない人はとても多くいます。
「スプーン操作を見直すべき兆候」をご覧ください。
これらの兆候ひとつひとつを
「私はしていない」と言明できる人がどれだけいるでしょうか?
「そんなところ見ていなかった」という人の方が圧倒的に多いはずです。
ぜひ修正していただきたいと思います。
そうすれば認知症のある方や生活期にある方が
どれだけ食べるチカラを持っているのか
どれだけ誤学習を起こしているのか
どれだけ誤学習から正の学習へ切り替える能力を持っているのか
ということがはっきりとわかるようになると思います。

通常使っているスプーンにとらわれることなく
必要であれば、Kスプーンとまでいかずとも
小さな平らなスプーンも使いますし、箸も使います。

幼児用のマグカップを使用したこともあれば
ストローを使うこともあれば
シリンジを使ったこともあります。

食具の選択には大きな意味があります。

準備期に直接的な影響を及ぼします。
つまり、
食具の選択は、準備期の能力を把握しているからこそできるのです。

臨床現場あるあるなのが
不適切なスプーン操作にも適応しようとして誤学習を起こすと
「食べる」協調性が低下してしまうことです。

協調性が低下した結果としての食べにくさを
表面的に捉えて問題視するような方法論は
あまり効果的ではありません。

むしろ、今の能力でラクに食べられるような
食形態と食具と介助方法を選択して
食べ方の再学習を図る方が効果的です。

協調性が低下したとしても
能力はさまざまに発揮されています。

上唇を丸めて取り込めないけれど
口唇閉鎖だけはできる。ということも多々あります。

体力低下していると
上唇を丸めてとりこむだけのパワーがない
ということも多々あります。

そのような時には
箸を使って介助した方がラクに食べられ
再学習が進展しやすい

ということがよくあります。

開口しなかった方が
開口してくれるようになると
それだけでホッとして(気持ちはわかりますが)
食べ方の観察・洞察なしに
スプーンでどんどん介助してしまうということも
食事介助の現場あるあるです。

食べ方をきちんと観察していれば
確かに開口はするけど上唇のとりこみが見られずに
上の歯でこそげるようなとりこみを代償として用いていることに
気がつくこともあるでしょう。

このような代償も誤介助誤学習の結果なのですが
そのことに気がつけずに漫然とした食事介助を続けていると
今は開口して食べられていても
早晩送りこめなくなってため込んだり、
また開口しなくなったり、
という状態になってしまいます。

食べ方の観察・洞察ができないと
今、表面的に結果として起こっている事象
しかも介助者にとっての不都合な事象しか見ていないために
短期的なメリットを追求し、かえって長期的な困難を惹起する
ということが食事介助の現場で起こっていることです。

摂食・嚥下5相の知識に基づいた観察をしながら介助することの重要性を
どんなに強調しても強調しすぎることはないと感じています。

 

準備期の能力発揮には段階がある・・・・・・・・・・・・・・・・

・上唇を丸めてとりこめる
・上唇を丸めてとりこめないが、とりこもうとする形にはなる
・上唇でとりこもうとする形もみられないが、口唇閉鎖はできる
・口唇閉鎖も不十分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

これらの段階が
誤学習なのか、自身の代償も含んでいるのか
食塊の認識がどの程度可能なのか
といった観察・洞察のもとに
通常スプーンを使用するのか
小さくて平らなスプーンを使用するのか
箸を使用するのかを判断します。
水分摂取に関しても
ストローが良いのか、スプーンが良いのか、コップが良いのか
判断していきます。

脱水や低栄養で体力低下していると
通常のスプーンで「食べる」ことで
摂取するエネルギー、栄養補給、インプットよりも
消費するエネルギー、アウトプットの方が多くなり
体力消耗
してしまいがちです。

そのような時にも身体の負担の少ない
液体の栄養補助食品を使用したり
上唇でのとりこみをせずとも食べられるように箸を使用したりします。

食べ方や飲み方の改善に伴い、食具も切り替えていきます。

準備期=食塊のとりこみ=食事介助
というのは、本当に怖い

経験を重ねるにつれ
認知症のある方の「食べる」チカラの凄さを知るとともに
食事介助の怖さを思い知らされています。

 

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食べる再学習:食形態

中核症状とBPSD

前の記事で
今の能力でラクに食べられる食形態
と言いました。

能力とは機能を意味しません。
機能はあっても誤介助のために能力として発揮しきれない場合や
機能はあっても協調性が低下してしまって能力が発揮しきれないことも
臨床あるあるです。

私の実践は機能を上げることを目的とはしていないので
間接訓練は基本的には行なっていません。

本来の機能を能力として発揮できるように
直接訓練として実際の食事場面や水分補給の場面で実践しています。

「食べる」ことは認知症のある方と介助者との協働作業ですから
「何を」「どのように」食べるのか、援助するのか
ということが問われます。

「何を」という面では
食形態は本当に選択肢が増えました。

当院では
ゼリー食・ミキサーペースト食・ミキサーソフト食・長刻み食・荒刻み食・軟菜と選べます。
お粥も全粥・ミキサー粥が選べます。

ゼリー食の中で
よく使うのが液体の栄養補助食品、ネスレ「アイソカル100」です。
(もちろん必要に応じてその他の栄養補助食品も使っています)

水分と栄養を同時に摂取できるのが良いところですし
大きさもコンパクトなので見た目の圧迫感もありません。
複数の味から選ぶことができます。

食べる困難を抱えている方に対して
液体の栄養補助食品はあまり選択されないようですが
現実には、
咽頭期に本質的な問題がある方は少なく、
口腔期に本質的な問題がある方の方が圧倒的に多いので
私は液体の栄養補助食品を多用しています。

このあたりの考え方は、
摂食・嚥下ピラミッドとは考え方が一部異なりますが
そもそも摂食・嚥下ピラミッドは
生活期の方ではなく急性期の障害の方に対して考案されたものですので、
状態像が異なる方に対して異なる考え方をして当然だと思っています。

また、
液体の栄養補助食品よりも
もう一段前の段階として活用しているのが
グリコの「アイスの実」です。
こちらもいろいろな味があります。

 

直径1.5センチほどの1粒を1/3〜1/4にカットして使ったこともありました。
上顎に押し付けると表面がすぐに押しつぶされて
じんわりと中身が溶けるのがとっても使い勝手が良いのです。

1粒そのままを咀嚼し送り込み嚥下できるようになると
相当、口腔期の能力が戻ってきていることの証左となります。

それから
小袋4つで発売されている「かっぱえびせん」
通常の味もありますし
塩分控えめの「1才からのかっぱえびせん」もあります。
(4連で¥100円くらいだったと思う)

食べ方の改善に合わせ
食形態も変化させていきます。

控室には、いつでも使えるように
かっぱえびせんとアイスの実が常備してあります (^^)

 

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「食べる」再学習:基本

中核症状とBPSD

認知症がある方で「食べる」困難のある方でも
多くの場合、もう一度食べられるようになります。

なぜならば
「口を開けてくれない」
「ためこんで飲み込んでくれない」
「吹き出すほどムセる」
などの「食べる」困難は
多くの場合に、認知症という状態のせいではなくて
不適切な介助にすら的確に適応しようとして誤学習を起こした結果だからです。

クリスティーン・ブライデン氏は
「異常な環境には異常な反応が正常だ」
と言いましたが、まさに!

誤介助によって引き起こされた誤学習なので
正の介助ができれば正の学習が起こります。

 正の介助ができるためには
 摂食・嚥下5相の知識があり
 認知症の知識があり
 それらの知識に基づいた「食べ方」の観察ができ
 「食べ方」に反映されている能力と困難を洞察することができる
 ことが前提要件その1です。

 前提要件その2は
 スプーン操作をはじめとする
 的確な食事介助を行える技術を持っていることです。

 現実には
 (残念なことですが)
 2つの前提要件をクリアできている人って
 そんなにいるものではありません。

 つまり、
 今、私たちが見ている

 認知症のある方の食べる困難は
 前提要件を満たしてない人が介助した結果の姿です。
 
 そして、
 前提要件を満たしていない人は

 前提要件を満たすこととの違いを
 説明されてもわからないということは往々にしてあることです。

 でも、この現実は裏を返せば
 2つの前提要件をクリアしさえすれば
 認知症のある方や生活期にある方の「食べる」困難を激減させることは
 可能だということを意味しています。
 (この問題については、別の記事で詳述します)

話を元に戻すと
正の介助、正の学習のために
イマ、ラクに、食べられるように食環境を調整します。

多くの場合に
いったんは、食形態を下げる必要があります。
再学習が起こりやすいように
今の能力でラクに食べられるように
「食べる」失敗体験をしないように。

このようなお話をすると
難色を示す人が大勢います。

たぶん
食形態を落とすともう二度と今までの形態が食べられなくなる
と心配するのではないかと推測します。

でも
そのような心配が起こるのは
「食べられなくなったのは認知症のせい」という考えが潜んでいるからです。
現実は違います。
「食事介助を受けている方が食べる」とは
認知症のある方と介助者との協働作業に他なりません。

「食べる」再学習が進みやすいように
いったんは食形態を落とし
適切な食事介助が行えれば
その方の能力に応じて
もう一度以前の食形態で食べられるようになる方の方が
圧倒的に多いのです。
 
「食べられなくなったのは誤介助誤学習のせい」と知れば
食形態を落とすことへの心配よりも
自身の介助の適切さへの心配の方が先立つはずです。
そのような方は
「認知症のある方も食べられるようになるスプーンテクニック」
をぜひ読んでみてください。
具体的に明確に介助において気をつけるべきポイントを説明してあります。

それでは
食形態と介助する食具を工夫することで
より適切な食環境を段階づけしながら提供できる
ということについて次からの記事でご説明していきます。

 

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対人援助の困難

関係性の中で能力が見出されていく

目の前にいる方の困りごとをなんとか手助けしたい。
その意志を支え、具現化するためには知識と技術が必要です。
 
そして手にした知識と技術は
「相手を変える、コントロールする」ためではなく
「相手を助ける」ために適用
するのだという認識こそが重要です。
ここが入れ替わってしまっている人に遭遇することも多々ありますが
対人援助職として、
いくら自戒しても自戒し過ぎることのない難しい側面なのだと感じています。

能力が見出される体験を重ねるたびに
援助という在り方を磨かされるように感じています。

認知症のある方も関係性を感受しています。
相手を変える、コントロールしようとする人に対する反応と
相手を助けようとしている人に対する反応と異なっていて当たり前です。

関係性の中で能力は発揮され、見出すことができる
その逆もあり得ます。

イチ臨床家として思うことは
普段の臨床にこんなにも直結することだから
学生や若手OTに対して
リスク対策として
臨床家として援助が的確に行えるように
対人援助職の厳しさと困難を伝えるべきなんじゃないかと考えています。

そうでないと
かつてある医師が
「作業療法は作業療法士によって潰される」
と言っていた未来が実現してしまいかねないと思っています。

その医師は、
作業療法のチカラを本当にわかっていたからこそ
作業療法士に期待していたからこそ
そう言っていたのだと思います。

その意味をわからない人たちが表面的に批判するという
なんとも言えない皮肉な様相が見られていました。。。

援助を具現化するためには
知識と技術が必要で
それらを適用する際には
援助の視点をぶらさない強さが求められるということの厳しさ
対人援助職の落とし穴、罠、表裏一体の困難
として
思いを深めるとともに
学生や若手OTにあらかじめ伝えておくことの必要性を強く感じています。

接遇とか理論とか客観性とかEBMとか
それらもいいけど
それらは、本質でも根本でもなくて
土台として、このことが分かった上での
接遇であり、理論であり、客観性であり。。。

何のための接遇か、理論か、客観性なのか、EBMなのか
ということをよく考えてみれば
あくまでも的確な援助をするための手段にしか過ぎない
ということがわかると思う。

何が本質で
何が手段なのか

混同していたら、的確な援助は難しくなります。

重要なことは
対人援助というのは
援助の名のもとに使役やコントロールに容易にすり替わり得る

ということを自分ごととして
きちんと自覚していることだと考えています。
 
ところが、現実には経験を重ねるごとに鈍感になっていく人も少なくないんですよね。。。
本来は経験を重ねるごとに、わかりかたが深まっていくはずなのに。。。

 

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ご家族との面談で工夫していること

コロナ渦のため
ご家族の方と直接お会いして
状態をご説明する機会は激減しましたが
どうしてもということは、やはりあります。

そのような時には工夫をしています。

言葉だけではなく
視覚情報を活用して伝える
イメージを伝える
リアルな実感を伝える
ということです。

一生懸命なご家族ほど
時に職員との行き違いがあったり
「理解不十分」と言われてしまうことも起こります。
そうやって職員が判断してしまうと悪循環になってしまいます。

ご家族にとっては
認知症のある方のお世話は初めての体験で
言葉での説明だけではイメージができない
ことが多々あります。

ましてや
コロナ禍で面会の機会がないので
ご家族がご本人と接する機会がない
体験を共有できない状態です。
体験を共有できないままに言葉で状態説明して
リアルに実感を伴って理解してほしいというのは高望みだと思います。

ご家族の側から
「こんな情報提供があれば私だって理解しやすいんです」とは言ってくれません。
心理的に遠慮があるものですし
ご家族自体、欲しい情報を求めてはいても
具体的にピンポイントではわからないし、言語化できない
だから、ご家族も困っているんです。

逆に言えば
状態の共有化の可能性がある
ご家族の理解改善の可能性がある
ということでもあります。

ポイントを絞って
介入場面の動画を撮影してみていただきます。
食べているものも写真撮影して
「今はこちらをこんな介助をして〇〇分で食べ終わっています」と伝えます。
実際に食べている栄養補助食品の実物や
実際に使用しているスプーン、コップ類の実物を見ていただきます。

食べ方に関する
障害と能力を説明します。
ここを明確に説明できると
入院前にご自宅でお世話していたご家族であれば
その時の困難と通じる部分があるので
「あぁ」と納得してもらえます。

逆に
ご家族から「こんなことがあった」と言われた時に
その場面の意味を私たちが実感できる必要があります。
その困りごとにどんな障害と能力と特性が反映されていたのか
私たちがリアルに実感できることが必要です。

ご本人の状態を的確に把握できていれば
必ず起こった場面をリアルにイメージできるものです。

そして
私たちがリアルにイメージできたかどうかということが
ご家族に伝わっているということです。
暗黙のうちに。

ご家族との面接、状態説明も
コミュニケーションの一環です。

ご家族にはご家族の何らかの必然があって
職員側から見ると結果として「理解不十分」な状態に見える
と考えています。

よくあるのは
ご家族が
「(この病院・施設は)本当にちゃんとお世話してくれているのか?」という
内心の疑念を払拭できていないけれどそこは言えない
というケースです。

こちらが工夫した説明、準備を伴う説明をするということは
同時に、ご本人にもきちんと対応していますということも
暗に伝えることができます。

普段、ご本人に的確な対応をしていなければ
ご家族への説明も曖昧で抽象的総論的になるものですが
具体的でピンポイントであれば説得力が違ってきます。

そうすると
それだけで一気に形勢逆転し信頼感を表明してくださることも多々あります。
ご家族もきっと安心されるのでしょうし
理解不十分に見えていたご家族の必然が現れてきます。

そこをこちらが感受できれば
今後のコミュニケーションも一層スムーズとなります。

もう一つ
ご家族との面接の席で私が必ず実行していることがあります。

それは
ご家族にしかわからない、
ご本人の得意分野・好きなこと・趣味をお尋ねする
ということです。

尋ね方にも工夫しています。
具体的に、私が遭遇したご本人のエピソードを伝えてから
尋ねるようにしています。

辛い時期を過ごしているご家族に
総論的抽象的一般的に「趣味を教えてください」と尋ねても
生き生きとしたエピソードを思い出すことは難しいものです。

具体的なエピソードをもとに尋ねれば
(前提としてお互いが共有体験をしているので)
具体的な生き生きとしたエピソードとして思い出しやすくなるものです。

ご家族が教えてくださったエピソードは
リハ場面で参考になり活用できます。
必ず記録に残し、可能な限り直接看護介護職員とも話して共有します。

ご家族の情報、ご家族との暮らしが
ご本人の今とこれからを支えられたということを
ご家族にも機会を見つけてフィードバックもしています。

面接の場面では
厳しい現実をお伝えしなければならないこともありますが
その厳しさも含めて面接の場が豊かになるように
ご家族もご都合をやりくりされて面接に来られるのですから
一方的に話を聞かされたとか
説得されたといった感情を抱いてお帰りになることのないように

Occupationを武器とする私にできる工夫を実践しています。

 

 

 

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