Tag: 状態把握

ご家族との面談で工夫していること

コロナ渦のため
ご家族の方と直接お会いして
状態をご説明する機会は激減しましたが
どうしてもということは、やはりあります。

そのような時には工夫をしています。

言葉だけではなく
視覚情報を活用して伝える
イメージを伝える
リアルな実感を伝える
ということです。

一生懸命なご家族ほど
時に職員との行き違いがあったり
「理解不十分」と言われてしまうことも起こります。
そうやって職員が判断してしまうと悪循環になってしまいます。

ご家族にとっては
認知症のある方のお世話は初めての体験で
言葉での説明だけではイメージができない
ことが多々あります。

ましてや
コロナ禍で面会の機会がないので
ご家族がご本人と接する機会がない
体験を共有できない状態です。
体験を共有できないままに言葉で状態説明して
リアルに実感を伴って理解してほしいというのは高望みだと思います。

ご家族の側から
「こんな情報提供があれば私だって理解しやすいんです」とは言ってくれません。
心理的に遠慮があるものですし
ご家族自体、欲しい情報を求めてはいても
具体的にピンポイントではわからないし、言語化できない
だから、ご家族も困っているんです。

逆に言えば
状態の共有化の可能性がある
ご家族の理解改善の可能性がある
ということでもあります。

ポイントを絞って
介入場面の動画を撮影してみていただきます。
食べているものも写真撮影して
「今はこちらをこんな介助をして〇〇分で食べ終わっています」と伝えます。
実際に食べている栄養補助食品の実物や
実際に使用しているスプーン、コップ類の実物を見ていただきます。

食べ方に関する
障害と能力を説明します。
ここを明確に説明できると
入院前にご自宅でお世話していたご家族であれば
その時の困難と通じる部分があるので
「あぁ」と納得してもらえます。

逆に
ご家族から「こんなことがあった」と言われた時に
その場面の意味を私たちが実感できる必要があります。
その困りごとにどんな障害と能力と特性が反映されていたのか
私たちがリアルに実感できることが必要です。

ご本人の状態を的確に把握できていれば
必ず起こった場面をリアルにイメージできるものです。

そして
私たちがリアルにイメージできたかどうかということが
ご家族に伝わっているということです。
暗黙のうちに。

ご家族との面接、状態説明も
コミュニケーションの一環です。

ご家族にはご家族の何らかの必然があって
職員側から見ると結果として「理解不十分」な状態に見える
と考えています。

よくあるのは
ご家族が
「(この病院・施設は)本当にちゃんとお世話してくれているのか?」という
内心の疑念を払拭できていないけれどそこは言えない
というケースです。

こちらが工夫した説明、準備を伴う説明をするということは
同時に、ご本人にもきちんと対応していますということも
暗に伝えることができます。

普段、ご本人に的確な対応をしていなければ
ご家族への説明も曖昧で抽象的総論的になるものですが
具体的でピンポイントであれば説得力が違ってきます。

そうすると
それだけで一気に形勢逆転し信頼感を表明してくださることも多々あります。
ご家族もきっと安心されるのでしょうし
理解不十分に見えていたご家族の必然が現れてきます。

そこをこちらが感受できれば
今後のコミュニケーションも一層スムーズとなります。

もう一つ
ご家族との面接の席で私が必ず実行していることがあります。

それは
ご家族にしかわからない、
ご本人の得意分野・好きなこと・趣味をお尋ねする
ということです。

尋ね方にも工夫しています。
具体的に、私が遭遇したご本人のエピソードを伝えてから
尋ねるようにしています。

辛い時期を過ごしているご家族に
総論的抽象的一般的に「趣味を教えてください」と尋ねても
生き生きとしたエピソードを思い出すことは難しいものです。

具体的なエピソードをもとに尋ねれば
(前提としてお互いが共有体験をしているので)
具体的な生き生きとしたエピソードとして思い出しやすくなるものです。

ご家族が教えてくださったエピソードは
リハ場面で参考になり活用できます。
必ず記録に残し、可能な限り直接看護介護職員とも話して共有します。

ご家族の情報、ご家族との暮らしが
ご本人の今とこれからを支えられたということを
ご家族にも機会を見つけてフィードバックもしています。

面接の場面では
厳しい現実をお伝えしなければならないこともありますが
その厳しさも含めて面接の場が豊かになるように
ご家族もご都合をやりくりされて面接に来られるのですから
一方的に話を聞かされたとか
説得されたといった感情を抱いてお帰りになることのないように

Occupationを武器とする私にできる工夫を実践しています。

 

 

 

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口腔ケアも再認を活用

口腔ケアをする時に
「口を開けてくれない」
「歯で指を噛まれてしまう」
というケースは多々あります。

そうすると
たいていの人は
最初は丁寧に説明したり対応しても
最終的には強引に口の中に歯ブラシを入れたり
(だから十分なケアができない)
口腔ケアそのものを諦めてしまいがちです。

安易に
開口してくれない=Kポイント刺激して開口を促す
とパターン化した対応をしていると
指を噛まれてしまいます。

口腔ケアも食事介助と同じで
環境適応の再学習を口腔ケアという場面でおこなっている
という認識に立てば
認知症のある方がどのように説明を感受し認識し適用しようとしているのか
ということを観察・洞察しようという意識が働きます。

長い文章での説明は理解できなかったとしても
目の前で歯ブラシを見せ
歯ブラシを横に数回動かすという動作を見せて「歯磨き」を伝え
歯の一部を優しく数回ブラッシングするという体験を通して「歯磨き」を伝えると
「歯を磨いてもらう」ことを再認できるので開口してくれます。

体験を通して再認できるという能力を活用します。

歯磨きの再認が目的なので
あくまでも優しくそっとブラッシングを続け
だんだんと歯ブラシを奥歯に持っていき
奥歯の上から裏側へと歯ブラシを動かします。
ここまで受け入れてもらえれば
歯ブラシで歯の裏側をブラッシングさせてもらえます。

開口に協力してもらえるので
きちんと口腔内の確認もできます。

口腔ケアが手段の目的化で終わらないように
歯磨きや口腔内清拭をすることが目的ではなく
歯磨きや口腔内清拭をすることによって口腔内の衛生環境を保つことが目的
なのだということを忘れないようにしたいものです。

口腔ケアは疎かになりやすい部分でもあります。
ケアの実行という意味でも
ケアの質の担保という意味でも。

口腔ケアを介助者が一方的にするのではなく
認知症のある方と協働して行っている人は
認知症のある方の能力をまざまざと感じていると思います。

 

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スプーン操作を見直すべき兆候

対象者の方に下記のような兆候が見られたら
それは介助者がスプーン操作を見直すべき兆候でもあります。

<開口した時>
・舌が奥に引っ込んでいる
・舌が硬くなっている

<食塊をとりこむ時>
・顎が上がっている
・上唇を丸めずに閉じている
・口角から食塊がこぼれ落ちる
・引き抜いたスプーンに食塊が残っている
・正面ではなく介助者の側に頭部を回旋している

<食塊が口腔内にある時>
・咀嚼・送り込みに時間がかかる

<食塊を嚥下する時>
・喉頭が完全挙上しない
・喉頭が複数回挙上する

これらは、見ようと思えば今すぐに誰にでも観察できることですが
たいていの場合に、上記兆候は観察されず
「見れども観えず」
視界に入っているはずなのに意識化されていません。

上記兆候は
介助する側の人の不適切なスプーン操作が原因となって
引き起こされたり、増悪されたりしている兆候です。

つまり、改善可能な状態像なのに
見落とされていて対処されていないのが現状です。
 
食事介助の時には
ムセの有無しか確認していない人がとても多いのが現状です。

しかも、
強く激しくムセるとすぐに食事中止を指示する職員がとても多いという問題もあります。

ですが、このような対処は合理的ではありません。
ムセとは何か?
身体の働きについて本質を知ることなく思い込みで対処しているだけです。

この問題については次の記事で。

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スプーンの工夫:自力摂取

 

今から10年以上も前になりますが
食事が終わった方の手指を見た時の衝撃を忘れられません。

「このスプーンが重いのよ」と
通常使用している普通のスプーンの重さを訴えられた私は
スプーンを把持していた右手を確認して
くっきりとスプーンの跡がついていたのを見て驚きました。

その方は
特に片麻痺があるわけでもなく
外傷や末梢神経障害があるわけでもありませんでした。

こんなに力を入れて食べていたんだ。。。
と思うと胸がいっぱいになりました。

自力摂取できる方の場合
よっぽど食べこぼしが多いとか
時間がかかるといったことがないと
スプーンをどんな風に把持しているのか
あまり気にされることがないのではないでしょうか。

OTならぜひ一度はご確認いただきたいものです。

重度の認知症のある方でも
なんとか自力摂取しようとさまざまな把持の工夫を見てとれます。
把持の低下ではなく、工夫の意図が反映されています。

ひとつには
認知症のある方は、オーラルジスキネジアがある場合も多いのですが
自力摂取できている時には、オーラルジスキネジアによる困難は目立ちません。

ところが
食事に介助が必要になると
オーラルジスキネジアによる困難が一気に表面化します。
ものすごく介助がしづらくなります。
オーラルジスキネジアという認識ができなければ
「どうしてちゃんと食べてくれないの?」と思ってしまうかもしれません。

方策は2つ
ひとつは、できるだけ長く自力摂取できるように
スプーンを工夫すること
もうひとつは、食べ方をきちんと観察・洞察して
適切に食事介助ができるようになることです。

でも、こちらは本当に難しい。
食べ方を摂食・嚥下5相にそって観察することができない
それぞれにどのような能力と困難が反映されているのかを洞察することができずに
「ためこんでしまう」「飲み込んでくれない」「口を開けてくれない」
といった結果として起こっている表面的な事象しか見ていない人の方が
圧倒的に多いのが現状なのです。

そして食べ方の観察・洞察ができたとしても
改善していくためには焦らず辛抱強く
その時々の能力発揮を援助できることが必要ですが
そのような対応ができる人はまだまだ少ないのが現状です。

だったら、スプーンを工夫する方がまだ簡単です。
食べられるようになったか、ならないかが明白だからです。
手指に過剰に力を入れなくても
スプーンを把持できるように工夫する。
オーラルジスキネジアがある方もない方も
できるだけ長くスムーズに安全に自力摂取できるようになります。

市販のスプーンで対応できることもあるでしょうけれど
市販のスプーンは大きくて重くて
かえって扱いにくいものです。

軽くて把持しやすいスプーン
できるだけ長く自力摂取できるように
OT の腕の見せ所だと思います。

ただし
本当に予防的対応ができた場合には
皮肉なことに問題を未然に完璧に防いでしまったが故に
困りごとが起こらないのですから
周囲の人に何が起こっていたのかを理解してもらえないかもしれません。

私は村上春樹の「1Q84」に出てきた
「説明しなくちゃわからないってことは
 説明したってわからないってことだ」
と言う言葉に大きくうなづいたものですが
仕方ないことも世の中にはあるんです。
対象者の利益のために尽力するのが私の仕事であって
誰かに理解してもらうのが仕事ではないですから。

また
認知症のある方あるあるですが
新規事象への対応困難な故に
使い慣れているスプーンの方が良いと言うケースもよくあります。

スプーンを落とすことがなくなった
食べこぼしが激減した
という「事実」があるにもかかわらず
「(適合良好な)このスプーンは食べにくい」
と言いますし
その言葉を事実と照合せずに本人の希望だからと鵜呑みにして
「前のスプーンの方が良いのでは?」
と言ってくるスタッフが出てきたりもします。。。

スタッフには事実と照合することを促すために
「でも前のスプーンだと食事中に何回もスプーンを落としてたけど
このスプーンになってからは1回もスプーンを落としてない」
「前のスプーンでは食べこぼしが多かったけど
このスプーンになってからは食べこぼしは付着程度に過ぎない」
「本人には1ヶ月だけ試しに使ってみてと言ってる」
などと伝えるようにしています。

認知症のある方も
だんだんと新しいスプーンになじんでくるので
そうすれば「このスプーンは嫌」とは言わなくなるし
スタッフも疑問を呈することもなくなり
まるで最初からこのスプーンを使っていたかのように
当たり前になってきます。

そのためにも
私たちOTとしては、
本当に適合が最高なスプーンを
個々の方それぞれにオーダーメイドで作れるように
自身の技術を高めることと
知識のブラッシュアップを図ることが
OTの責務なんじゃないかなと考えています。

 

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DoとBe(優しくする ?優しくなる!)

認知症のある方への対応で
「優しくする」
「言動を否定しない」
「褒めてあげる」
等と言われています。

これらの常識化している対応について
何回も過去の記事にて疑問を提示してきました。

優しくするということは、優しくない ということです。
DoBeの違いです。

結果として優しくなるように
認知症のある方の状態がありありと実感を持って
わかるようになることの方が大切だと思う。

「大声を出す」「抵抗する」
というのは結果として起こっている表面的な事象に過ぎません。
表面的な事象に反映されている、なんとかしようとしている
その方の意図と能力がわかれば
結果として優しくなるし
否定できなくなるし
敬服したくなるし
少なくともキツい言い方は控えたくなる

認知症のある方は決して何もわからないわけではありません。

表面的に口先だけ、優しくしても、褒めてあげても
本心は伝わる
このサイトにお立ち寄りくださっている方なら
そういった実感をお持ちなのではないでしょうか。

本心として認知症のある方の努力と能力が実感できるようになるためには
知識をもとにした観察と洞察が必須です。
地道に努力を積み重ねれば誰でも実践できるようになります。

「あぁすればこうなる」式のマニュアルやハウツー以外の
思考をしたことがないと最初は大変に感じると思う。

「あなた、どうしてそんなに私のことがわかるの?」
「あんたが一番好きなんだよ」
そんな風に言われたり
認知症のある方が過去に信頼していた人と誤認されたり
他の人の前では見られないような能力を発揮する場面を共有できたり
そのような体験をしたことのある人はきっと私だけではないと思います。

ケアやリハの場面において
根底にどれだけ理解の実感があるのかということが
信頼関係に一番重要なんだとまさしく実感しています。

 

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「現場で本当に役立つ認知症研修会第2回」受付開始

「現場で本当に役立つ認知症研修会第2回」をオンラインで開催します。

作業療法士でなくても
学生さんでもどちらにお住まいの方でもご参加いただけます。

日時は
2022年5月14日(土)19:00〜20:30

テーマは
「認知症のある方への声かけの工夫〜眼からウロコの視点〜」

参加費は無料

事前申込制で
申込締切は4月30日ですが、
定員超過の場合には期日前でも申込を締切ますので
ご了承ください。

お申込は下記のURLにアクセスしてください。
https://forms.gle/HsStN3K2786zKAhD9

研修会の詳細は こちら をご参照ください。

お問い合わせは こちら からどうぞ。

 

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「あそこに行く!」

転倒リスクの高い方が
食堂からパントリーを指さして
「あそこに行く!」と言って立ち上がろうとしています。

(あそこに行って何をしたいんですか?)と尋ねたら
「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」と答えました。

パントリーには食べおわった食器が並んでいます。
パントリーの向こうは廊下です。

さて
あなただったら、どう対応しますか?

答えは
今週の土曜日、2月19日に掲載します。

 

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概念の明確な理解

認知症のある方の
生活障害やBPSDといった困りごとの改善や
能力と特性の発揮のためには
評価、アセスメント、状態把握ができることが重要です。

評価、アセスメント、状態把握とは
決して、検査やバッテリーをとることではありません。
その時その状況を事実に即して、観察・洞察できることを意味しています。

観察・洞察というと
客観的ではない、科学的ではない、根拠に乏しい
といった批判もあるようですが
批判されるべきは、未熟な観察・洞察であって
観察・洞察そのものではありません。

観察の解像度を上げるためには
知識の習得が必要です。

知識の習得とは
単に知っている。ということではありません。

概念を明確に理解することです。

曖昧な理解しかできないから観察し損ねている人がたくさんいます。
その代表例が、「短期記憶」です。
この言葉、概念の誤認と誤用については
「現場で役立つ認知症研修会ー観察力を磨く」において説明します。

他にも、遂行機能障害、構成障害という
認知症のある方の生活障害に大きく関わっている障害について
言葉は学校で聞いたことはあっても
意味を明確に説明できない人はたくさんいます。

「わかっちゃいるけど言葉にできない」
と言う人もたくさんいますが
本当にわかっていれば明確に言語化できます。

  明確な言語化を突き詰めた先に
  どうしても言葉にできない領域がありますが
  突き詰めてもいない人にはそこまで到達できません。

遂行機能障害や構成障害とは何ぞや
という言葉の意味を言語化できないから観察できないのです。
観察できないから、当然、障害も能力も洞察できない。
結果、検査やバッテリーを活用するのではなく
検査やバッテリーにすがるしかなくなってしまう。。。
そのような人には観察・洞察とはどういうことか見当もつかないことだから、
観察・洞察を批判する。。。
最も大きな瑕疵は、自身が観察し損なっていることの自覚がないことです。

  本当は無自覚に意識下では、気がついていると思う。
  でも自覚してしまうと困るのは自身だから
  困らないように自覚することを回避しているんじゃないかな。。。?

けれど
観察し損なっているという自覚さえ芽生えれば
観察できるようになるチャンスがある
ということでもあります。

答えは常に目の前にあります。

そのためには
概念を明確に理解することが最初の一歩です。

ピンチはチャンス

 

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