忘れられがちな1手間:視覚障害

目が見えない認知症のある方に対して
声をかける時には、毎回必ず名乗るようにしています。

「〇〇さん、こんにちは。
 リハビリのよっしーです。
 ラジオ体操の時間です。」
「〇〇さん、こんにちは。
 リハビリのよっしーです。
 そろそろお食事の時間です。」

トイレや着替えや食事など
何を介助されるにしても
誰だかわからない人にされるのは不安だと思います。

視覚障害がなければ
名乗らなくても「こんにちは」だけでも
相手は私を見て「私→どんな人」を察知します。
認知症が重度だと私の名前を覚えられなくても
「私→どんな人」というのは覚えられることが多いようです。
曰く、体操の先生、歌の先生、(毛糸)モップの先生etc.。。。

でも、視覚障害があると、その手がかりがない。。。
だから、名乗ります。
名前を伝えるだけではなくて、
伝える過程を通して「声」と「話し方」を伝えます。

大声を出したり介護抵抗のある方でも
「俺は顔がわかんないからさ、わかるのは声だけだから」
とおっしゃっていたことがあります。

BPSDが激しいと
「認知機能が相当低下している」と誤認されやすいようですが
これらに相関はありません。
むしろ、認知機能障害が軽度の時ほど不安感が強いのでBPSDが激しくなる
ということはよくあります。

BPSDや生活障害が重度だと
職員の側がつい、「大声がひどい〇〇さん」のように
BPSDや生活障害を形容詞化してしまいがちですが
そうすると〇〇さんの能力やBPSDや生活障害を起こしていない状態を
見落としてしまいがちです。

  言葉には無自覚の意識も反映されます。
  例えば食事介助で
 「Aさんは100%入りました」という言葉を聞いたことがあります。
  入った。。。なるほど、口の中にどう入れるかという観点で介助していれば
 「100%入った」「食事が入りません」という言葉が口をついて出てくるのも
  うなづけます。。。
  「大声がひどい〇〇さん」という言葉を使ってしまうことで
  〇〇さんが大声を出さずに過ごせている場面を見落としたり
  大声は出すけれど
  発揮している能力に目が向きにくくなってしまう恐れがあります。

言葉と概念は密接に結びついています。

視覚障害を持つ認知症のある方に
毎回その都度、名乗ることは確かに1手間かもしれませんが
たった3秒でこちらの配慮を伝えることができ
その方の安心感につながるとしたら
その3秒を惜しむ理由が他にあるとは思えません。

ちなみに
「声しかわからない」とおっしゃった方は
大声や介護拒否もある方ですが
ラジオ体操や個別リハ、食事介助など何かすると
必ず「どうもありがとう」「お疲れさま」
私が名乗ると「はい、よっしーさん」と必ず復唱。

声かけの工夫、対応の工夫は大切です。
大切さを否定する人はいないと思う。
でも、それらの根幹にある視点が
認知症のある方がどのように受け取るか ではなくて
こちらのモットーやスローガンの実践になっていたり
表面的に生活障害やBPSDをいかになくすかという考えだったり
してるんじゃないかと思います。
だから、うまくいかない。。。
あるいは、短期的にうまくいったように見えても
長期的には、逆効果になっている。。。
本当にもったいないと思います。

 

 

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