Tag: 状態把握

自分でコントロール

IMG_0442

オーラルジスキネジアのある方が
お話をしようと意図した時には
いったん閉口して唾液を飲み込んでから
お話をされます。

自らの意思と意図で症状をコントロールしている。

だから
短時間でもたくさん発語の機会を設けることも大切だと考えています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/1304

よくある現実

IMG_0443

オーラルジスキネジアのある方の
食事介助を不用意に行うと
食べにくさからストレスになったり
職員も適切な介助ができずに
全介助でも食べこぼしが多くなったり
誤嚥性肺炎に罹患してしまったりしがちです。

オーラルジスキネジアがあっても
自分のテンポで食べていたから
食べこぼしもムセもなく
結果的に「問題」が起きていなかっただけで
食べ方の困難に職員が気づけていなかった
。。。というパターンはよくあります。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/1302

オーラルジスキネジアのある方

IMG_0442

アルツハイマー型認知症や
前頭側頭型認知症のある方で
かなり多いのが、オーラルジスキネジアが出現している場合です。

顎が勝手に動いていたり
舌が勝手に動いていますが
それでもお話は普通にできたりお食事も自分で食べているので
職員が気づかずに見過ごしてしまう。。。ことがあります。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/1301

再現性のある表現

我慢のしどころ

多職種連携において
大切なことは
再現性のある表現で伝えること

モチロン究極的には言語化できない部分も
あるとは思ってはいますが
再現性のある表現を心がける、実行する
…という過程において
とりもなおさず
こちらがどれだけ的確にわかっているか
ということが問われ返されているということでもあります。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/1273

状態像の理解を得る

我慢のしどころ

そんな時には
まず、状態像の理解を得てもらえるように
しています。

オススメなのがビデオ
「見れども見えず」
見ているけれども見落としている
…ということはたくさんあります。

まずビデオで「現実」を見てもらい
その現実が意味することを言葉で説明する。
場合によっては
さらに、もう一度ビデオを見てもらう。

この方法は効果的だと感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/1270

状態像の共有化

我慢のしどころ

臨床で案外、テ抜きになるところだと感じているのが
状態像を共有化するということ。

知識がなければ
今、目の前で起こっていることの意味がわからない。
行動に投影されている能力も障害もわからない。

そのような状況で
「〇〇をしてください」
「△△という対応をするようにしましょう」
というような方法論の統一が
功を奏することは大概少ない。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/1269

適切さの根拠

IMG_0944

認知症のあるAさんに
どんな風に関わったらよいのか

もちろん
Aさんの体調によって
また場面の優先性によって
異なることはあるでしょうが
おおまかな方向性は言えると思う。

なぜAさんにとって
そのような関わり方が適切なのか
根拠を説明できることが必要だと思う。

その根拠は
倫理や道徳面ではなくて
(必要ないと言っているのではありません)
Aさんの能力と障害と特性によって説明でき
実際のAさんの生活障害の改善によって証明される
ものだと考えています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/1250

共同体験の提供

IMG_0517

自分の価値基準に照らして
信頼できるかどうか判断しているわけで
それは、その人との共同体験を通して判断しているわけで
(人によっては他者の評判が判断基準のこともあるかもですが)

認知症のある方だって変わりはない。
担当者との関係性において
信頼できそうかどうか判断している。
判断基準がより感覚的なものに偏ることはあったとしても。

大切なことは
目の前にいる認知症のある方が
「この担当者は信頼できそうな人かどうか」
判断できるような「共同体験」を提供することなんだと思う。
結果として
挨拶を重ねることがそれに値することがあるのだと思う。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/1236