Tag: 状態把握

ワーキングメモリ低下

認知症のある方は
ワーキングメモリが低下する。
これは誰でも知ってると思う。

大切なのは
ワーキングメモリの低下が
どんな風にふだんの暮らしに影響してるのか
…ということを観察できること。
その上で、どうしたら暮らしをサポートできるのか
…ということを具体的に提案できること。

たとえば
椅子に座るように動作介助した時に嫌がる方も多いのですが
この場合、後ろに椅子がある…ということを忘れてしまっている場合が少なくありません。

認知症のある方にしてみれば
動作介助の場面だけを切り取って理解しているので
後ろにひっくり返されそうに感じて怖くて嫌がっている
…という状態になっているのです。

じゃあ、どうしたらいいのか?
続きは明日(^^)

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情報の取捨選択

私たちは
感知した情報をそのまま認知しているわけではない。

「見た」と認識した時点で
すでに「見たい」もの「見よう」としていたものを
無自覚のうちに取捨選択されたものを見ているし
「聞きたい」もの「聞こう」としていたものを
無自覚のうちに取捨選択されたものを聞いている。

そういう前提条件を自覚していないと
認知症のある方にとっての
視聴覚環境の把握を見落としたり歪めてしまうことにすら
なりかねない…と感じています。

明日はその補足説明をします。

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一番大切なことが一番疎かになってる

OTがなにか特別なことを企画して

対象者の方を楽しませたりとか

認知リハやトレーニングをしたりとか

それはそれで要請されていることでもあるけど

一番大切なことが一番疎かになってる

 

それは、ご本人ご家族にとって

どうしたら少しでも暮らしやすくなるのか

そのためにどういう工夫をしたらいいのか

ということを、具体的に現実的に言語化して伝えること

だと思う。

 

こんな風にしたらいいですよ

…等というマニュアル本もあふれていますが

Aさんに有効なことが

Bさんには無効なことだっていっぱいあります。

目の前のご本人にとって

本当に有効な方法論でなければ意味がない。

 

OTは医学的知識をもっている(はずです)

医学的な状態像、知識をもっている医師が

暮らしの困難改善のための具体的なアドバイスをしているのは

少数例だと感じています。

暮らしの困難に直面する介護職の多くは

医学的知識をもっていないので

アドバイスが表面的な方法論のレベルにとどまりがちです。

 

OTは医学的知識をもっている(はずです)

暮らしの困難が起こる状況の分析をできる(はずです)

対象者の能力と障害と特性を把握できる(はずです)

医学的知識に基づいて暮らしの困難の改善案を

具体的現実的に模索し提案するような 架け橋になれる(はずです)

 

OTがした場面設定という枠組みの中で

対象者の表面的な言動を観察をするのが仕事ではなくて

そこで表面的にあらわれている言動から

対象者の能力と障害と特性を把握すること

そして

日々の暮らしの困難を改善するために

具体的現実的な対応を言語化すること

一番大切で一番求められているのに

何故か臨床の現場では

疎かにされてしまっていることのように感じています。

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ピンチはチャンス

たぶん、多くの人が誤解していると思う。

本当に、ピンチはチャンス。なんだよね。

現在の「場」が成長成熟していくための

現在の「自分」が成長成熟していくための

認知症のある方が

たとえ、衰えたとしても衰えようにそって暮らしていくための

 

だから

BPSDを敵視しないことが大事。

BPSDを「解決すべき困った状態」として捉えているかぎり

必ず、限界にぶちあたってしまう。

 

BPSDはチャンス

その方が暮らしの困難を乗り越えていくための

 

そこにブレークスルーの芽があると感じています。

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評価を活かす

評価として

記憶の連続性をみたり、見当識の状態をみても

それだけでは片手落ち

日々のいろいろな場面で起こったことを

記憶の連続性や見当識の状態と

関連づけて「何が起こっているのか」を推測できることが大事

もちろん、障害だけでなくて

代償もふくめて残存能力をどのように使っているかということも

そうやって考えると

身体障害と認知障害と

症状や障害は異なっても

なんら考え方に違いはないのよね

私たちは

現実的に具体的に

対象者の役に立つことをできるように評価するのであって

ただ単にチェックリストの項目を埋めるために

記憶の連続性をみたり、見当識の状態をみるわけではない

疾患特性による違いはあっても

それらを支える下部概念としての考え方は同じなんだよね。

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おまけの追加

毒にもならないものは薬にもならない…と思っている私ですが

作業療法は、その特性上

使役とすりかわってしまいやすい運命をもっているからこそ

取り扱いに用心が必要なのだと思っています。

なんとか、リハにノせなくては…などという態度は

認知症のある方に対して

使役と化してしまうおそれのある態度でもあります。

 

特定の枠組みを共有できないのだとしたら

相手をどう枠組みにのせるか考える…のではなくて

相手のおこなえる枠組みにこちらがのっていけばいいのです。

それが行為という自発的な場面の観察を

ということでもあるのです。

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リスク回避としての意味

12/1(木)の記事の続きです。

なじみの関係というのは

言葉はきれいですけど

要するに相手の情に訴えるわけで(^^; 

それもいいですけど

でも、あんまり相手頼みじゃありません?

そういうことがモノを言う場面だってありますが

下手すると

無自覚であったとしても

「リハビリをやらせる」ために相手の情に訴えていた、利用した

…ということにもなりかねないわけで。

こちらが設定した枠組みしか使えないとなると

どうしたって避けては通れない課題となってしまいます。

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前提となる根本的な条件が共有できない

12/1(木)の記事「行為という自発的な場面の観察を」の続きです。

http://kana-ot.jp/wp/yosshi/176

どの疾患による認知症であれ

時や場の見当識が低下してしまった方は

自分がいるここがどこで何をするところなのかが

わからなくなったり、とりちがえてしまいます。

また、リハビリというのは

ある目標達成のために

ある目的をもって

ある一定時間、特別の場で特別のことを

対象者と作業療法士が恊働しておこなうもので

これら二重の前提条件の理解の上に

体操しましょう、歌を歌いましょう、これを作ってみませんか

…ということが成り立つわけですが。

ところが、この前提条件が共有できていないのに

表面だけ、何かしましょう…と言っても

「今はそれどころじゃない」となってしまいます。

もちろん、上手い具合に?取り違えてくれている場合もありますが。

大切なことは

単に、「なじみの関係」づくり…というのではなくて(^^; 

障害としての見当識の低下という状態と

その代償を、何を使ってどのようにおこなっているのか

ということを、こちらが適切に把握できているかどうか…であって

どうやったら、リハビリにノってくれるかどうか

…などではないと思うのです。 

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