Tag: 状態把握
評価として
記憶の連続性をみたり、見当識の状態をみても
それだけでは片手落ち
日々のいろいろな場面で起こったことを
記憶の連続性や見当識の状態と
関連づけて「何が起こっているのか」を推測できることが大事
もちろん、障害だけでなくて
代償もふくめて残存能力をどのように使っているかということも
そうやって考えると
身体障害と認知障害と
症状や障害は異なっても
なんら考え方に違いはないのよね
私たちは
現実的に具体的に
対象者の役に立つことをできるように評価するのであって
ただ単にチェックリストの項目を埋めるために
記憶の連続性をみたり、見当識の状態をみるわけではない
疾患特性による違いはあっても
それらを支える下部概念としての考え方は同じなんだよね。
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毒にもならないものは薬にもならない…と思っている私ですが
作業療法は、その特性上
使役とすりかわってしまいやすい運命をもっているからこそ
取り扱いに用心が必要なのだと思っています。
なんとか、リハにノせなくては…などという態度は
認知症のある方に対して
使役と化してしまうおそれのある態度でもあります。
特定の枠組みを共有できないのだとしたら
相手をどう枠組みにのせるか考える…のではなくて
相手のおこなえる枠組みにこちらがのっていけばいいのです。
それが行為という自発的な場面の観察を
ということでもあるのです。
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12/1(木)の記事の続きです。
なじみの関係というのは
言葉はきれいですけど
要するに相手の情に訴えるわけで(^^;
それもいいですけど
でも、あんまり相手頼みじゃありません?
そういうことがモノを言う場面だってありますが
下手すると
無自覚であったとしても
「リハビリをやらせる」ために相手の情に訴えていた、利用した
…ということにもなりかねないわけで。
こちらが設定した枠組みしか使えないとなると
どうしたって避けては通れない課題となってしまいます。
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12/1(木)の記事「行為という自発的な場面の観察を」の続きです。
http://kana-ot.jp/wp/yosshi/176
どの疾患による認知症であれ
時や場の見当識が低下してしまった方は
自分がいるここがどこで何をするところなのかが
わからなくなったり、とりちがえてしまいます。
また、リハビリというのは
ある目標達成のために
ある目的をもって
ある一定時間、特別の場で特別のことを
対象者と作業療法士が恊働しておこなうもので
これら二重の前提条件の理解の上に
体操しましょう、歌を歌いましょう、これを作ってみませんか
…ということが成り立つわけですが。
ところが、この前提条件が共有できていないのに
表面だけ、何かしましょう…と言っても
「今はそれどころじゃない」となってしまいます。
もちろん、上手い具合に?取り違えてくれている場合もありますが。
大切なことは
単に、「なじみの関係」づくり…というのではなくて(^^;
障害としての見当識の低下という状態と
その代償を、何を使ってどのようにおこなっているのか
ということを、こちらが適切に把握できているかどうか…であって
どうやったら、リハビリにノってくれるかどうか
…などではないと思うのです。
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12/1(木)の記事「行為という自発的な場面の観察を」の続きです。
http://kana-ot.jp/wp/yosshi/176
私には忘れられない体験があります。
こちらが提供する活動に関しては、いつもやんわりとおことわり…。
後のほうの席で見学常連。
こういう方に対して、えてして職員側は
「なにかできることない?」
と現状を否定的にとらえがち。
「活動的になるように」対応策を考えよう
…なーんてことも少なくないんじゃないかしら?
でも、この方はとてもゆったりと中庭を眺めていらっしゃいました。
「鳥がなにかついばんでるから雨があがったんだな…と思って」
そう答えたその方のその時の表情を今でも覚えています。
豊かな場…というのは、1人1人違う。
こちらが設定した枠組みでは見落としてしまうことがある。
詳細はこちらに ↓
県士会サイト> 作業療法の魅力を語る> 作業療法を語る> 「私たち自身の在りようをみつめる」
http://kana-ot.jp/wpm/essay/post/20
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食事には、
その人の能力と困難と特性が投影されるように
他の行為にも、
その人の能力と困難と特性が投影されてる。
自発的な場面だからこそわかることがある。
こちらが設定したリハやレクの場面では
わからないことがいっぱいある。
だから病棟にいりびたっています(^^)
ふだん対象者の方が過ごす場面を大切にしてる。
病棟の何気ない日課の流れの中で
何にも規制がない場面において、どんな風に応答するのか。
リハやレクの場面では
どうしたってこちらが枠を設定するのだから
設定した枠そのものが
規定する応答というものが存在する。
OTは、その前提をもとに観察してる。
無自覚であったとしても。
でも、それだけじゃ、見落としてしまうことがいっぱいあるのよね。
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個々の機能を別々にとらえているだけでは
改善へのきっかけがつかみにくくなってしまいます。
遊び食べをする
…という「結果として表面にあらわれている」ことの中には
たとえば
綺麗好きで口のまわりがちょっとでも汚れたり
食べこぼしたものがちょっとでもあると
すぐに手でぬぐおうとしたり
なんとかスプーンですくおうとして
適切に巧みに手指を動かすことができずに
かえって汚れてしまう
最初はその汚れをなんとかしようとしていたのに
いつのまにか、動作の目的を忘れてしまって
同じ動きを繰り返す…という場合もあります。
手遊びするから、とすぐに全介助と対応方法を決めるのではなくて
「何が起こっていたのか」
をきちんと観察することで
綺麗好きであるとか、食べこぼしを気にする人という
能力や特性をとらえることもできるし
上肢の操作性や手指の協調性が低下しているという困難も把握でき
手遊びのきっかけを作らないですむように
汚れたらすぐに介助者がふきとる…とか
食べこぼさないですむように
スプーンや食器やトレーに工夫をしてみる…などという
具体的現実的に対応の工夫ができるようになります。
私たちは
すぐに『どうしたらいいのか』という対応を求めてしまいがちですが
『何が起こっていたのか』という現実の中に
解決へのヒントも含まれているように感じています。
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ある方は箸で線を引くようにしてご飯を食べていました。
お茶碗に残ったご飯は見事に一直線を示しています。
( 几帳面な方だったのかも… )
そう言えば、
挨拶する時にもきちっとした身のこなしで挨拶してる。
言葉使いも礼儀正しい。
えてして
食事場面は自立してるかどうか、ムセや食べこぼしはないか
という観点でみられても
特性をあらわす食べ方に注目する人は少ないようですが
「食事」という場面は本当に豊かな場面です。
対象者の能力も困難も特性も投影される貴重な場面なんです。
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