Tag: 状態把握
私は今精神科の認知症治療病棟で勤務していますが
必要であれば、身体面のリハも行います。
骨折手術後の方
CVA後遺症のある方
エピソードはないけど移乗動作などに困難のある方。。。
とりわけ、ものすごく多いのが
移乗時に腰が引けて膝が伸びず重心が後方に落ちてしまう方
(後日改めて記載しますが)
重度の認知症のある方でも
移乗動作は楽になる方が大勢いらっしゃいます。
でも
筋力強化やROM-ex.は基本していません。
(橈骨神経麻痺の方など必要な方にはしますけれど)
入院期間との兼ね合いはありますが
ゆっくりできる方には、じっくりと積み重ねていきますし
できるだけ早期にもといた施設に戻られる方やご家庭に戻られる方には
評価と対応の工夫の明確化を中心に行なっていきます。
つまり、つなげるリハを意識しています。
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目の前の対象者に
適切なスプーン操作ができるためには
スプーン操作の基本が習得できている必要があります。
なぜか
ここをすっ飛ばしてしまう人がいるんですよねぇ。。。
「寄り添った食事ケアを」と言いながらも。。。
摂食・嚥下5相を理解した上で
・食塊認識を確認できる
・スプーンをまっすぐ正面に差し出すことができる
・スプーンを奥に入れすぎずに下唇or前舌を操作できる
・上唇を丸めて取り込むことを促すように操作できる
・スプーンは斜め上に引き上げずに水平に引き抜くことができる
・一口量を調整できる
できるということは
意味の理解もできているから
行動として常に実行できるということ
摂食・嚥下5相という言葉を聞いたことがある、知っている
という人は多いと思いますが
自身のスプーン操作を摂食・嚥下5相と結びつけて
なぜそうしてはいけないのか、なぜそうする必要性があるのかを
理解している人は、残念ながらそう多くはありません。
自身のスプーン操作を摂食・嚥下5相と結びつけた理解ができていないから
目の前の対象者の食べ方を摂食・嚥下5相と結びつけた観察ができないのです。
自身のスプーン操作と他者のスプーン操作の違いすら認識できないのです。
スプーン操作の違いがどれだけ対象者の食べ方に影響を与えるのか想像もできないのです。
逆に言えば
そこを学べば変われるということです。
自身のスプーン操作を
摂食・嚥下5相と結びつけた理解の上で修正習得できるようになれば
対象者が必死になって食べようとしていることを身に染みてわかるようになります。
「ちゃんと食べてよ」
という言葉の残酷さを痛切に感じるようになるでしょう。
「認知症のある方も食べられるようになるスプーンテクニック」
という本には基本的なスプーン操作とその意味が具体的に記載してあります。
ここまで実践的に基本操作とその意味が記載されている本は他にありません。
摂食・嚥下5相と結びつけたスプーン操作の基本を習得することは
対象者の食べ方の評価の入り口に立てることを意味します。
基本は大切
高い志を掲げるのなら、なおのこと
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適切なスプーン操作ができないと
対象者の方の準備期を阻害してしまいます。
準備期の過剰適応・誤学習が
口腔期を混乱させ
咽頭期を低下させてしまいます。
逆に言えば
適切なスプーン操作ができれば
対象者の方の本当の食べるチカラを現前させることができます。
ここからが本番
対象者の方の食べ方をよく観察すれば
食べることの困難と能力を洞察できるようになります。
(ただし、知識があればの話です)
食べることの困難と能力を洞察できるようになれば
どうしたら食べやすくなるのか
どうしたら今の状態でも食べられるようになるのか
長期的な見通しとともに今すぐにできることが自然と浮かび上がってきます。
だから
具体的にどうしたらいいのかがわかる
最初に
「〇〇という状態の方には、△△したら良い」があるわけではありません。
適切なスプーン操作ができることが
評価の入り口に立てるということなのです。
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「あれ?立てた」
この言葉がスッと出てきたということは
立てないものだと、認知症のある方自身が思っていた
ということを意味しています。
その前提として
立てない体験がずっと続いていたということも容易に推測できます。
さらにその前提として
職員も暗黙のうちに「立てない」として対応していたということが推測できます。
認知症のある方も職員も「立てない」と思い込んでいる。
立ち上がりという日常の中で頻回に行われる動作場面において
体験するたびにその思い込みが強化されてしまっている
まるで催眠にかけられたかのように
こうなると悪循環
どんなに機能アップを意図して大腿四頭筋の筋力強化をしても
実際の場面では真逆の体験をして
思い込みを強化しあってしまっているので
立ち上がれるようにならない
ということになってしまいます。
じゃあ、どうしたら良いのか
別の体験もしくは擬似体験が必要
「あれ?立てた」
そこから次の展開に持ち込める第一歩が始まります。
展開のキーワードは「エラーレスラーニング(誤りなし学習)」です。
なぜかというと。。。
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筋力低下は結果として起こっていて
本当は身体の使い方の問題だった
ということってすごく多くみられています。
お年寄りや
認知症のある方が
歩けても立ち上がれないような時に
「立てない=筋力低下」
という図式的な理解が広まっていますが
声を大にして言いたい。
立てない=身体の使い方が不適切なだけ
身体の使い方のトレーニングをすれば、立ち上がれるようになる
身体の使い方のトレーニングをせずに
大腿四頭筋の筋力強化だけをしても効果がない
表面的に立ち上がりを何回繰り返しても効果がない
立ち上がれるだけの身体の使い方ができているから
回数を重ねられるのであって
立ち上がれるだけの身体の使い方ができていないのに
回数だけやったって無意味どころか逆効果になってしまいます。
頑張ろうと思っても
効果が実感できなければ
自信を喪失してしまいます。
やってみたら効果が実感できた
やってみたら身体が動いた
という体験があるからこそ、
結果として、もう一度頑張ろうと思える。
結果の前提である体験なしに
「頑張れ」と言っても相手には届かない。
手段の目的化の声かけをしているだけだから。
「食べる」こともそうですが
「立ち上がり」も乳幼児期から繰り返し行なってきた
究極の手続記憶でもあります。
全介助でも立位保持できない
両膝が屈曲してしまい、股関節も屈曲してしまい
過剰に力が入っているので移乗時に介助者の負担も大きい方がいました。
(こういうケースは非常に多い)
硬くなっている筋肉のリラクゼーションをして
座り方を何回も繰り返すことによって
身体の使い方をトレーニングしたら
全介助でラクに立ち上がり、股関節・膝関節伸展位で立位保持できるようになりました。
「あれ?立てた」
その時のご本人の言葉です。
私にとって衝撃の言葉でした。
なぜなら。。。(続く)
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ADL介助はコミュニケーション
結果として起こっている
できる、できないを見て
できないところを介助してそれで終わってしまうのは
本当にもったいない。
ADL
食事にせよ、更衣にせよ、排泄にせよ
認知症のある方は、必ず環境を感受し、その方なりに認識し、関与しようとしている。
一見、不合理であったとしても。
その一連の過程を
私たちが把握することが叶えば
表面に見えなくなっていただけの、能力を観ることにつながる。
能力を把握できれば
私たちの介助も自然と変わる。
「親切に」「優しく」「怒らずに」
というスローガンを唱えずとも
認知症のある方の現状を把握できた結果として
自然と「親切に」「優しく」なり、「怒らない」ようになる。
コミュニケーションだから
双方向に影響をしあう。
たとえ
今すぐに認知症のある方の能力を観ることが出来ないにしても
観ようとしている意思があるということが大切。
コミュニケーションだから
その意思は伝わっている。
コミュニケーションが始まっている。
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言葉だけ聞いていると、まったく意味不明なことを話すような
意思疎通困難な方の言葉です。
「あんたと話してると頭の中がスッキリする」
ずいぶん前の体験ですが
何重もの意味で、すごく嬉しかったです。
この方は、(あんたに優しくされて褒められて嬉しかった)とは言っていません。
優しくされたり褒められたりしたかったわけじゃない。
「あんたと話してると頭の中がスッキリする」ということは
私と話していない時に、頭の中がスッキリしない。と言っています。
そして言外に
頭の中がスッキリしなくて困っていた、
嫌だった、
スッキリさせたかったけどできなかった、
というニュアンスを伝えています。
ということは
この方自身の中で前提として
自分の頭はもっとスッキリしているはず
という認識を持っていることを意味しています。
つまり
この前提を共有できている
(あんたは私の頭がスッキリしているはずということをわかってくれてる)
という信頼を共有した上で
(助けようとしてくれた)
(しかも的確に助けてくれたから本来の私でいられる)
ということまで伝えてくれているのです。
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認知症のある方は能力を発揮しながら暮らしている
という認識に立つと考えを新たにすることが多々ありました。
無自覚のうちにしていた援助を明確に見直すことができるようになりました。
たいていの人は
介助をする時には、介助者への協力を得るということを前提として考えています。
多分多くの人は違和感や疑問を感じないんじゃないかな。
私も前は何にも感じず考えずにもいたことです。
そこが実は対応の工夫を検討する上で問題になってくるところなんだと考えています。
認知症のある方は
環境を常に感受しています。
介助者の存在は環境を構成する1因子として認識しています。
でも
介助する側の人は、私の介助に抵抗しないで、協力してほしい
と暗黙のうちに考えその上で声をかけている。
認知症のある方は
認知機能障害が重度になればなるほど
同時並行的な対象の認識が困難になるから
対象と介助者と同時に認識して対応するのは難しいことなのです。
例えば
食事介助の時には、私は黒子役
食塊認識を明確に促すために、必要最小限の関与しかしません。
声かけも必要最小限。
私への反応がある時には応答する程度にとどめます。
服を着る時にも
感受・認識して欲しいのは、「服」であって「私」ではない。
認知症のある方にとって
今、すべきことの「対象」(食塊とか服とか)が主役で私は黒子役
三項関係を意識して
認知症のある方が対象を感受・認識・関与しやすいように
私が関わる
本質的なこと、
認知症のある方は能力が低下していると捉えるか、能力の不合理な発揮と捉えるか
この違いによって、引き起こされてくる在りようは非常に大きくて
じゃあどうしようという具体的な方法論はその次に成り立つことなんだけど
巷間、話題になるのは枝葉の部分ばかりのように感じられてなりません。
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