Tag: リハビリテーション

中身の連携>場の連携

介護保険領域において
「場」の連携は、かなり強化されてきていると感じています。

これからは「中身」の連携が求められてくるのではないでしょうか。

障害と能力と特性
どのような場面で困惑する傾向があって
どのような対応で理解が円滑になるか等

新たに利用を開始した場で
一から情報収集しないですむように
利用する場が変わっても
情報を積み重ねていけるように
そんな中身の連携ができればいいなぁと考えています。

認知症の病状が進行すると
記銘力低下以外の障害の進行や合併が起こることが非常に多く
また、そのことによる生活障害においては
他職種では何が起こっているのか認識できない場合も相当あります。

ただひたすら言葉で説明しようとして
結果としてよけいに混乱させてしまったり
説明する時の言葉の適切な選択ができずに怒らせてしまったり
ということは非常によくあるんです。

「認知症→記憶の低下→不安→言動を否定しない、褒める」
といったような従来のパターンでは対応困難な場合が非常に多い
それなのに、その意味がわからない場合が非常に多い。。。

まずは、転倒・骨折などで急性期病院に入院する時に情報提供。
リハが円滑に進むような声かけの工夫について記載しておくと
特に急性期病院のPTの方には好評とのことです。

そして、モチロン
退院後に利用開始する施設のケアマネさんやご家族に直接面談
必要であれば、障害の状態像が明確にわかるような作品やエピソートを伝えて説明します。
その上で退院時のサマリーで書面による情報提供をしています。
基本、どんな施設に行かれる方にも行っています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3425

評価 ≠ 検査

言葉を適切に使うことって、概念を適切に扱えることにつながると思ってるので
とても大切にしています。

リハの世界もご多分にもれず、流行り廃りがあります。
今はあんまり聞かなくなったけど
QOLを改善とか、QOLの向上とかってあちこちで言われていた時期がありました。

その時にも、自分自身の中で
QOLという概念が大切なことはわかるけれど
自分の実践において、何がQOLに関与するのかということはとても難しかった。
今でも難しく感じています。
だから、言葉としてはあまり使わない。というか使えない。

それと同じ意味で自分自身では基本的に使わないようにしているのが
「その人らしさを大切にする」「ナラティブアプローチ」「ともに生きる」とか。

自分の実践において
どういう言動がその人らしさを大切にしていることで、
どういう言動がその人らしさを損なっていることなのか、よくわからないから。
以下、略。(^^;

そんな態度を自分自身でとっていると
周りから見たら、もしかしたら不遜に思われたり、変わり者認定されるかもですが
自分自身にとっては、良いこともあって
その1つが、「評価は検査ではない」「評価とは何か」ということを
明確に言語化して伝えることも自分自身の実践に落とし込むこともできている
ということなんです。

「評価」と銘打ちながら内容は「検査」のこと。というのは、あるあるなこと。

モチロン、誤解のないように言うと
私自身は検査を不要と言っているわけではありません。
記憶の連続性が明確にわからないなら「HDS−Rをとれ」と言う派ですから。
「相手を傷つけるからHDS-Rはとりません」という人に限って
記憶の連続性を「評価」できていなかったりすることがとても多いという印象を抱いています。

検査は必要です。
認知症のある方の状態像とりわけ障害を明確化するために必要です。
ただし、いくら検査しても「対応」の方向性は出てきません。
検査は診断の補助になりますが、検査だけでは援助の補助にはならない。
的確な診断は的確な援助の前提として必要ですが
的確な診断ができれば必ずしも的確な援助ができるわけではない。
援助の補助になるのは「評価」です。

私たちの仕事は、援助することだから
評価ができることが必要です。

まずは必要な検査をすることだけど
検査をする時には量的な部分ではなく質的な部分にも着目すること

検査の過程においても、結果においても
その人の特性というのは、否応もなくにじみ出ているものです。
その人の障害だけでなく、裏返しとしての能力も明確になります。
ここが見られるようになると、それだけで評価の前段階の情報が豊かになります。

でも「評価」はそれだけではない。

それらを根拠として
今、何が起こっているのか、かつて何が起こっていたのか、これから何が起こりうるのか
その場面場面での暮らしの困難やBPSDが起こる必然性について
ある程度の確からしさをもって推測できる時に
ある程度の確からしさをもってピンポイントでオーダーメイドで
対応の工夫を具体的に明確に言語化して提案できるようになります。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3421

機能−アウトカム−作業//特性

活動や作業いわゆるOccupationに関して私の考えを書きたくなっちゃいました (^^)

対象者の方がはっきりと言葉にして語る「やりたいこと」
言葉にはしないけれどもうひとつの言葉である行動を通して語る「やりたいこと」

それは、アウトカムとしてのOccupationだと考えています。

何のアウトカムかというと
機能レベルの評価を踏まえて
どの能力をどの程度使うかというアウトカム

この部分を言語化して伝えられるからこそ
障害と能力のプロとしての作業療法士の「意味」があると考えています。

認知症のある方の
障害と能力の把握ができているから
今、目の前に起こっていることがわかるし
どうしたら的確な援助ができるのかについて具体的な検討ができるのだと思う。

そして
作業遂行の過程において否応もなく
その人らしさは現れる。
良くも悪くも。

occupationというのは
それら全体を包含するもの。なのだと思う。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3420

「失敗は必然、成功は偶然」という言葉

かつて、野村克也が言ったという
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」

「勝ちには偶然の勝ちがあり、負けには偶然の負けはない」という言葉は
江戸時代の剣豪、松浦清(松浦静山)の言葉の引用なのだそうです。

そこから
「失敗は必然、成功は偶然」という言葉も広く使われているとか。

その通りだと思います。

認知症のある方に対して考えついた方法が
「たまたま上手くいく」(この表現もどうかとは思いますが)こともあるでしょう。
「Aという状態の人には、Bという対応をしてみたら?」という考え方は
ギョーカイを席巻しています。。。
そして、多くの場合に、Bという対応が「うまくいかない」
その時には、「次はどうしよう?」「Cという対応をしてみたら?」

Bという対応がうまくいかなかった必然があるのだとしたら
それは、打開策のヒントにもなるのに
そこを考えずに、表面的に方法だけを考えても「うまくいく」はずがない。
それこそ、数打って当たることはあるでしょうけれど
本当は、そういう話じゃない (^^;

認知症のある方の
気持ちや状態に原因を求めるのではなくて
ある状況の中で起こる状態像にとっての必然と考える。

多くの人が無自覚のうちにとらわれている
視点を変換することが一番重要なんだと考えています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3372

毒の怖さがわかるから薬として扱える

本当にパワーのあるものは
扱い方に注意が必要

でも
そのパワーの怖さが実感できないと
リスクヘッジが疎かになってしまう。

そういうことって
あちこちで起こっているように感じています。

かつてよりも
さまざまな情報をずっと入手しやすい世界になり
これから、プロフェッショナルとアマチュアの垣根が今よりもさらに低くなっていくでしょう。

そのことの
メリットもデメリットも甘受するしかない。

プロのプロたる所以は
誤解されやすいけれど、
本当は、対象者の方にとって
どれだけ良いことができるか。ではなくて
どれだけ悪いことを回避できるか。なのだと考えています。

これから先
リスクヘッジの重要性は、どんなに強調されても
し過ぎることはない
と考えています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3362

毒にも薬にもなる

かねがね思っていることですが。。。
本当に有効なモノはマイナスへの働き方も強い
毒にも薬にもなる
チカラはプラスマイナス両方向にはたらくから
パワーのあるモノほど取り扱いには注意が必要

作用の方向性に気をつける
ということは非常に重要なことだと感じ、また考えてもいます。

逆説的ですが
認知症のある方に対して、
有効な対応の工夫を具体的に提案できるということは
困難を来す場面をも具体的に想定できるということをも意味しています。

だからこそ
リスクヘッジとして
言葉、行動、状況をひとつひとつ回避することができる。

同時に、プロとして、非常に怖さを感じることもあります。

用い方ひとつ、扱い方ひとつで
相手を援助することも困惑を作ることにもつながってしまう。

チカラは、プラスマイナス両方向にはたらく
そして、同時には両方向にははたらけない

チカラがはたらく時には
プラスかマイナスかどちらか一方の向きにしかはたらけない

援助と使役は、紙一重。なんだということに。

作業療法士が本当にActivityのもつパワーを使いこなせるのであれば
Activityのもつ怖さを十分に認識し言語化し回避できることこそが重要なのだ。ということに。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3360

評価→対応:両方向

私がお会いする認知症のある方は
何らかの生活障害とBPSDが積もり重なってきた方です。

私の仕事は
認知症のある方の困りごとが少なくなるように
できればその方の良い面が良い方向性で発揮できるように
援助すること

そのために状態像つまり障害と能力がどのように現れているか確認する
そうするとどう対応したらよいのかは必然的に浮かび上がってくる。

その方の困難がひとつ改善されたことは、
良いことではあるけれど
これで終わりではなくて
入院前に生活障害やBPSDがどんな風に起こってしまったんだろう?
と考えることもしています。

たとえ、今、「よくなって」生活障害やBPSDが目立たなくなったとしても
「障害」そのものがなくなったわけではない。

かつて陥ったことのある状況は
再現されるおそれがあります。

生活障害やBPSDが起こった時に
「つながらないと困るね」「怒りのスイッチがわからない」
といった表現をする人もいるようですが
私は基本そのような抽象的な言葉は使わないようにしています。
というか、自分で自分がよく意味のわからない言葉を使うことに抵抗を感じるからです。

人間だから突発的なことは起こりうるし
人間だからわからないことはありうるし
病状としての変動もありうるし
だからこそ、わかっていることは明確にしておきたいと考えています。

認知症のある方の障害と能力を把握できれば
どのような場面設定であれば困ることが少なくなるか必然的に明確になります。
同じ意味で
どのような場面設定であれば困り果ててしまうのか
そして、困った時にどのように対応しようとするのかおおよそ推測できます。

評価を絞り込めれば込めるほど
両方向に、良くも悪くも、どのような現れ方をするのか明確化できる。

現れ方の方向性を両方向に考える

臨床において、実はとても重要なことだと感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3359

フェイルセーフとフールプルーフに学ぶ

安全工学における、安全設計手法の代表的なものに
フールプルーフとフェイルセーフという手法があるのだそうです。

フールプルーフとは、危険な行動をしてもできない構造に設計すること
フェイルセーフとは、トラブル発生時には安全な方に設備が動くようにする仕組みのこと
なのだそうです。
(「ものづくり.com」 https://www.monodukuri.com より)

いずれも
人間は間違える
機械は故障する
という前提に立って、それでも安全を守るという観点から考えられたそうです。

「気をつけましょう」
「注意しましょう」
という言葉はよく聞く言葉ではありますが 。。。

どういう行動をすることが気をつけることになるのか
注意するということは具体的にどこをどうすることなのか
具体的に言うことが指導する。ということだと考えています。

リハ職としても
認知症のある方に対応する時でも
そして、とりわけ、作業療法士として
認知症のある方にActivityを提供する時には
安全工学の思想から学べることはたくさんあるように感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3371