Tag: リハビリテーション

鮮烈に覚えていること

私が作業療法士として一番最初に勤めたのが
肢体不自由児施設でした。

そこに
紀伊克昌先生や古澤正道先生がいらしてデモンストレーションをしてくださったのです。

その施設にいたスタッフが一度も見たことがないような動きを
子どもたちがどんどん目の前でできるようになっていったんです。

そして(当たり前といえば当たり前ですが)その後でみんなでそれらしくやっても
誰も紀伊先生や古澤先生のようには子ども達の動きを再現できなかった。

鮮烈に覚えています。

できないのは
子どもたちじゃなくて、私なんだ。

紀伊先生や古澤先生が担当しても私が担当しても
ご両親は同じ時間で同じお金を払わなくちゃいけないんだ。

痛切に感じました。

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勝手な推測はしない

いつも、どこでも、言ってることですが
まずは、観察を
そして、観察ができるための知識を。

それにプラスして今日はもうひと言。
勝手な推測はしない。

私は作業療法士ですが
作業療法士がよく言う、あるあるな言葉に
時々ものすごく違和感を感じることもあります。

いわく
「作業療法を説明するのは難しい」
「作業療法は楽しく」
「あぁも考えられる。こうも考えられる。」

最後の言葉は
精神科作業療法の分野で言う人が多いようですが
そんなん、評価の真逆じゃん!
と思ってしまいます。

評価とは、しぼりこんでいく過程でもあります。
これは違うと判断し、可能性を除外していく過程。

その過程において
大切なことは予断をもたずに
まずは、観察すること
わからないことはきちんと本人に尋ねること
ただし、尋ねかたにはいろいろありますが。

そうすれば、こちらが勝手に推測などしなくても
集めた情報の集積から、ある確からしさとして語り出されてくるものです。

十分な観察も
真摯に尋ねもせずに
いくら考える努力をしたって
根拠がないじゃん。
コミュニケーションの真反対じゃん。
そんな風に感じてしまいます。

わからないことは、判断保留し、
わかる時がくるまでは、わからないままにしておくこと。

勝手に対象者のことを推測しない。

本来は、精神科がそういうことに一番明敏であることが望まれているんじゃないでしょうか。

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進化&深化

「よっしーさんも進化しているから」
ある人に言われた言葉。
正直、嬉しかったです。

タマネギの皮をめくっていくみたいに発見がある。

同じ言葉でもその意味がより深く認識できたことを実感できることがある。

華厳経の縁起みたいに
関係性の複雑さ、精妙さが三次元的にわかるというか。。。

歳とるっていいな
って思う。

若い時にはわからなかったことがわかるようになる。

それって希望でもあります。

希望であり、可能性であり、畏れでもあり
深く頭を垂れ
前を向く。

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副詞を使わない説明

今日は祝日・山の日ですが、オマケ☆
私も特別に出勤しています (^^)

他職種への伝達については
相当考えさせられてきました。

基本的には、私の側でできる努力は最大限する
とは考えています。

その1つが説明の言語化

たとえば
食事介助の場面において
他の職種でも今までとは違う方法を再現してもらえるために
どのように説明するか

ひと言で言えば
副詞を使わないで言語化する
ということです。

たとえば
施錠確認。
「ちゃんとカギをかけましょう」
と言うことが指導ではないです。

ちゃんとカギをかけるようにする
ためには、どういう行動に変更したらよいのか
そこを伝えることが重要です。

当病棟は閉鎖病棟なので
実習に来る学生さんへの一番最初の指導が施錠確認です。
「カギをかける。
まずは、ガチャッという音で確認。
次に、目で観てかかったカギを確認。
最後に、ドアを両方向に動かして開かないことを動作確認」
と指導しています。

結果として
「ちゃんと」カギをかけられるようになる。

食事介助の場面でも同じです。

ゆっくり介助する
丁寧に介助する
優しく介助する

そんなことを考えても
食べることにおいて
さまざまなウィークポイントと能力をもっている認知症のある方の
食べることの困難を改善していくことはできません。

そもそも
ゆっくり、丁寧、優しく。とは
どういう行動を示すのでしょうか。
非常に曖昧な言葉です。
人によって受け取り方に差が生じやすい言葉でもありますし
どの程度という基準も明確ではありません。
Aさんにとってのゆっくり介助が、Bさんにとってはせわしない介助
ということだって起こりえます。

だから副詞は使わない

名詞と動詞を中心に構成した言語化を行います。

明確な言語化=名詞と動詞中心の言語化
を心がけています。

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説明は後・体験が先

説明は後。体験が先。

私の持論です。

たとえば
認知症のある方への対応の工夫をきちんと検討したいという人もいれば
正直に言うと、まだまだ「認知症だから仕方ない」って思い込んでいる対人援助職もいます。

「認知症になっちゃえば本人は何もわからないからいいわよね」
そんな風に言っちゃう人がまだいるのも現実です。

どうしたらそういう人たちに話を聞いてもらえるのか。
どんな風に説明したらよいのか。

一生懸命、考えてるのに暖簾に腕押し。。。
そんな体験をしたことのある人は決して少なくないと感じています。

私は体験が先。なんだと考えています。

対応の違いによって
認知症のある方の言動に違いがある。
そういう体験をするのが先。
説明は後。

なぜなら
そのような人たちは
過去に(自分が)いろいろ頑張っても認知症のある方に行動変容はみられなかった
という体験の蓄積があって
今のような「仕方ない」という判断をしているのです。

ここで自らの方法論の検証をしないで
自分は頑張ったという(方法論の是非はともかく、確かに頑張られたんだとは思います)
正当性の上に立って
認知症だから仕方ない。と判断している。

つまり
このような状態にある人に対して
表面的に「こうしてみたらいい」と言っても
その人なりの体験の蓄積に基づいた結果として起こっている判断なので
他者からの説明というカタチで表面的に判断を変えることを促そうとしても
依って立つ根拠となる体験が異なるので
概念の食い違いが起こっているから、言葉が通じない状況になってしまいます。

まずは
その人の今までの体験とは異なる体験がありえるんだという
もう1つの現実の存在を体験してもらうことの方が先なんだと考えています。

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POST記事掲載☆

バリデーションセミナー2013紹介

8月1日に
PT・OT・STのための働き方・学び方発見サイトさんに
「ICFで評価・対応する食事介助」の記事が掲載されました。

200名を超える方に「いいね」を押していただき
50名を超える方にシェアしていただき
1,300名を超える方に閲覧していただいて
とても嬉しく思いました。

1つの記事に論点を2つ盛り込むという
ちょっと無謀な構成にもかかわらず。。。(^^;
読者のみなさまの寛大なご対応に感謝いたします。

はい。
論点は2つ。

1)嚥下5相にそっての観察による障害と能力の把握が大切
もしもこの対応が的確に為されていたとしたら
「ムセ→トロミ」というパターン化した対応はできないはず

2)ICFを学んではいるはずなのに
臨床の場面ではICIDHの呪縛から脱しきれていないという
現状認識から始めませんか

という内容です。
もしよかったら是非、記事を読んでみてください。
https://1post.jp/2458

 

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ICF相互関係論だからこそ

ICFは相互関係論です。
現状を否定しない。

時間軸・場の多様性というさまざまな相互の影響の中で
イマ・ココで対象者と対峙している。

だからこそ
私たちが対応の工夫をする意義があるし
たった1人でも変わることの意義がある。

重度の認知症のある方に
行動変容が起こるという意味の理解は
そのような体験を経たあとに深く実感できるもののように感じています。

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ICIDHの呪縛の強さを自覚

ICFで評価・対応できるようになるために
実は大切なことがICIDHの呪縛の強さを自覚することだと考えています。

ICIDHという因果関係論に、私たちは相当強く影響されています。

認知症は慢性・進行性の病気です。
病気を抱えながら暮らしていく
そのような人に対しては、まさしくICFの観点が求められます。

できないことをどれだけ詳しくわかってもできるようにはならない。
だって、できないことは、トレーニングしてもできるようにはならない
という疾患特性があるんだもの。

そもそも人は
時間という縦軸・さまざまな場という横軸
縦横無尽の影響下にあります。
華厳経の縁起そのもののような関係性の中に
イマ・ココで認知症のある方と自分とが対峙しているのです。
どれもが相互に関係し合っている

唯一の原因などありません。
直接のきっかけとなるコトはあったとしても。

ところが
ICIDHの因果関係論、
何か認知症のある方に原因があってそこから困難が起こる
だから、原因を探索し改善するといった思考回路から脱却できていないと
善かれという気持ちからであったとしても
現状のイマ、ココにいる
認知症のある方の在りようを
そして来し方を否定しているのだ
ということに気がつけなくなってしまうのです。

善意の気持ちによる客観的な現状の否定
このような相反する援助者の在りようは
誰よりも援助者自身の心の奥深くを損なっていくものではないでしょうか。

認知症のある方へ
ICFに基づいた評価・対応を実践しようとした時に
まずICIDHの思考回路かどうかを自らに問うということは
誰にでもできることです。
このような地道な積み重ねの上に
ICIDHからICFへと思考回路を切り替えることができるようになる。
それだけ、ICIDH・因果関係論の影響は根深いのだという自覚をすることが
まず、第一歩なのだと考えています。

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