「関与しながらの観察」によって

「援助」と「使役」は紙一重
だから気をつけよう。

ここまでは今まで言えてた。
でも「気をつけようね」では行動修正できない
ってことも別のところで言ってた。
(確か、戸締まりか何かの話でここにも書いたことがあると思う)

具体的な行動として明確化できないと
修正はできない。

「気をつける」気持ちはあっても
「どこを」「どう」行動するのか明確化できなければ
気をつけた結果としての行動に結びつかない。

「援助」と「使役」は、すり替えられがちで見た目にもわかりにくい。

例えば
食事介助は
「食べさせる」ことも
「食べることの援助をする」ことも
どちらにも転ぶ。
そして端から見ている、遠目から見ているだけでは区別がつきにくい。
でも、当の介助を受けている人にしてみたら
その違いは明確に感受される。
例え、介助する人が無自覚であったとしても。

どうしたら、すり替わることなく
「援助」し続けることが叶うのか。。。

ある人の言葉が助けになって、ようやく明確にわかった。

「関与する」から「援助」を模索することができる。
「関与しない」から「使役」になってしまう。

ハリー・スタック・サリヴァンの言った
「関与しながらの観察」

対人援助のスタートであり、ゴールでもあるんだろう。

今までこの言葉の真意をあんまりわかっていなかったかも。
ようやく切実にわかることができ始めたかも。

ものすごい実践を成した人の言葉は本質を突く。

シンプルだけど深い。 

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