Tag: リハビリテーション

ICF相互関係論だからこそ

ICFは相互関係論です。
現状を否定しない。

時間軸・場の多様性というさまざまな相互の影響の中で
イマ・ココで対象者と対峙している。

だからこそ
私たちが対応の工夫をする意義があるし
たった1人でも変わることの意義がある。

重度の認知症のある方に
行動変容が起こるという意味の理解は
そのような体験を経たあとに深く実感できるもののように感じています。

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ICIDHの呪縛の強さを自覚

ICFで評価・対応できるようになるために
実は大切なことがICIDHの呪縛の強さを自覚することだと考えています。

ICIDHという因果関係論に、私たちは相当強く影響されています。

認知症は慢性・進行性の病気です。
病気を抱えながら暮らしていく
そのような人に対しては、まさしくICFの観点が求められます。

できないことをどれだけ詳しくわかってもできるようにはならない。
だって、できないことは、トレーニングしてもできるようにはならない
という疾患特性があるんだもの。

そもそも人は
時間という縦軸・さまざまな場という横軸
縦横無尽の影響下にあります。
華厳経の縁起そのもののような関係性の中に
イマ・ココで認知症のある方と自分とが対峙しているのです。
どれもが相互に関係し合っている

唯一の原因などありません。
直接のきっかけとなるコトはあったとしても。

ところが
ICIDHの因果関係論、
何か認知症のある方に原因があってそこから困難が起こる
だから、原因を探索し改善するといった思考回路から脱却できていないと
善かれという気持ちからであったとしても
現状のイマ、ココにいる
認知症のある方の在りようを
そして来し方を否定しているのだ
ということに気がつけなくなってしまうのです。

善意の気持ちによる客観的な現状の否定
このような相反する援助者の在りようは
誰よりも援助者自身の心の奥深くを損なっていくものではないでしょうか。

認知症のある方へ
ICFに基づいた評価・対応を実践しようとした時に
まずICIDHの思考回路かどうかを自らに問うということは
誰にでもできることです。
このような地道な積み重ねの上に
ICIDHからICFへと思考回路を切り替えることができるようになる。
それだけ、ICIDH・因果関係論の影響は根深いのだという自覚をすることが
まず、第一歩なのだと考えています。

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評価の前提:能力を損なわない介助

認知症のある方の食事介助に関して
現状は非常に心もとないものがあります。

食事介助に携わる職員は
美味しく食べていただきたいと願っていると思います。

ところが
知識と技術が伴わないと願いを具現化できない。

今、目の前にいる認知症のある方が
どうやって自らの障害を補いながら能力を発揮して食べているのか
という評価、アセスメントを適切に行いたくても行えない。

なぜならば
嚥下5相にそって評価が適切に行えることの前提要件として
まず、認知症のある方のもっている食べる能力を損なわないということが担保される必要があります。

ところが、現実には、してはいけないスプーン操作・望ましいスプーン操作を
教えてもらっていないがために
不適切なスプーン操作を結果として行ってしまい
その結果として、認知症のある方の能力発揮が損なわれてしまっています。

さらに、嚥下5相にそっての評価が適切に行えていない
(結果として起こっていることなのに、原因として把握されてしまう)
こういったことは日常茶飯事として起こっています。

だから
食べ方の評価全般のことを
ムセの有無のみで、しかも音でのみで判断してしまう
ムセたらトロミをつける
といったパターン化した対応が横行してしまっているのだと感じています。

知識と技術があれば
現状に身もすくむような思いがするのではないでしょうか。

同時に
知識と技術があれば
今すぐにでも目の前の現実を変えることができる可能性に
目を見開かされるような思いを抱くのではないでしょうか。

認知症のある方の食べることに関する評価は
ICFで評価するということの意味を体感できていない人にとって
案外、難しいようです。

でも、現実にはその前段階として
適切な評価ができるための
適切な情報収集ができていないことが圧倒的に多い。
不適切なスプーン操作によって評価の前の情報収集が機能していない場合が多いのです。

だとしたら、まずは適切なスプーン操作によって
認知症のある方の「本来の」食べ方を観られるように
適切な情報収集が行えるように
私たちが適切なスプーン操作を習得することがまず第一歩なのです。

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たった1人が変わる意味

私のお話を聴いた後に
「他の職員にも伝えたい」
という感想をお寄せいただくことがよくあります。

本当に嬉しい。
是非、1人でも多くの人に伝えてほしいと思います。

と同時に
「どうやって連携をとっていったら良いのでしょうか」
というご質問をいただくこともよくあります。

それは、いろいろな方策がありますが
相手のあることだから、所属している施設によって
受け入れも実行も可能なことはさまざまだと思う。

善かれと思っての提案によって
提案者が疎まれるということだって起こりえます。
モノゴトには、いろいろな経過と背景がありますから
今すぐには難しいということもあるでしょう。
Bestを望んで性急な対処を焦ると
自分にとっても相手にとっても提案にとっても
良いことなくつぶれてしまいます。
それでは元も子もありません。

じゃあ、どうしようもないのか
というと、それもまたとんでもないことで
誰か1人でいいから、変わることには大きな意味があるのです。

もしも
対象者Aさんのいる施設において
職員全員が30%の介助が行えているとしたら
職員全員の力量を50%にするよりも
誰か、たった1人でいいから、80%の介助が行えるようになることが
とても重要なのです。

なぜか?
対象者Aさんにとって
30%の力量の職員に介助された時と
80%の力量の職員に介助された時と
明確に食べにくさ・食べやすさの違いの体験ができます。

職員によって食べにくさ・食べやすさが違う
つまり、Aさん自身の能力は職員によっって発揮される度合いが違う
自分の食べる能力は30%しかないわけじゃない。
自分には80%の食べる能力があるんだ!という体験ができます。

これは、とても大きな違いです。
天と地ほどの違いです。

多職種連携、チームワークがなぜ必要か
対象者にとってより良い環境が提供できるためであって
良い連携構築のためにチームワークが必要なのではありません。

手段の目的化を起こしてはいけない

誰か1人でいいから
まずは、80%の介助ができるようになることこそが必要です。
そして、その誰か1人いるのといないのとでは大違いだけれど
1人よりも2人、2人よりも3人いたほうが対象者のためになる

そのような視点から考えていくことが大切なのだと考えています。

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今の実践→将来の常識へ

いつだって現場が最前線

かつて
仙台の特養の職員の方の講演を聞いたことがあります。
「今、介護保険サービスとして報酬化されているものは
かつて、自分たちがまったくのサービスとして必要に迫られて行っていたものだ」と。
そして「このような変化を嬉しく思う」と語っておられたことを。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問

対人援助として
何が適切なのか、どのような考え方が適切なのか
いつだってブラッシュアップされる運命にあると考えています。

必死になっている取り組みも
今は、たったひとつの声かもしれない。

でも、何十年かたったら、それが常識になる可能性だってある。

本当に有効で適切であれば。

私だって
食事介助のことを20年以上にわたり
実践しながら提唱もしてきたら
本を出したり、講演をすることも叶うようになった。
そんなことが私に起こるなんて当初は考えたこともなかった。

継続はチカラなり
1回1回の実践が大切

本当にそう思います。

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臨床あるある:ムセ→トロミ

臨床あるある食事介助編

「ムセたらトロミをつける」

よくありますよね?

もう、こういうパターン化した対応は卒業しましょう!

認知症のあるお年寄りで
食事が全介助の方の場合によくあることのひとつが
実は咽頭期そのものの機能は悪くないけれど
口腔期の易疲労によって咽頭期の能力が低下する
というケースです。

このようなケースでは
表面的には、「お食事するとムセる」という現象が起こってきます。
多くの場合、嚥下5相にそって食べ方の観察も能力の観察も為されていないという現実があるので
結果として起こっている「ムセ」だけ観てトロミをつけるという対応が為されがちです。

でも、本質的な困難は咽頭期ではなく口腔期にあるので
トロミをつけてしまうとかえって口腔期の易疲労を助長してしまいます。

その結果、起こるのが「さらにトロミをつける」
そんなことをすると粘性をさらに高めてしまうので
口腔期の易疲労をもっと助長してしまい、ますますムセてしまいます。

その結果、誤嚥性肺炎になってしまうという。。。

これって、本当に認知症のある方の食べ方のせいでしょうか?

諸悪の根源は
私たちのパターン化した思考回路です。

今、目の前にいる方がどんな風にして食べているのか
評価・アセスメントすることなく
「ムセたらトロミ」というパターン化した対応をしているところにあります。

だとしたら
私たちの側の問題だと言えます。

私たちの側の問題だとしたら
私たちが変わることによって現実を変えることができます。

たかだか一介の作業療法士の私ですが
たくさんの認知症のある方の食べ方を変容することができています。
私はごく普通の作業療法士です。
私にできることは、他の方にだってできます。

ただ、もっとまっすぐに観察すればいいだけなのです。

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余裕があるから予防もできる

前の記事に関連して。。。

暮らしが先。ということを書きました。

もしも、今、暮らすことに精一杯だとしたら
予防になんて手を回すことができない。
今日、どうやって一日をやり過ごすか、まずはそっちが切実だもの。
頭では良いことって理解できていても
人の手は2本しかないし、身体だって1つしかない。

1年後のことではなくて
今日、明日のことが切実

そういうことだって起こりうる。
もしも、そういう方に予防に取り組んでもらおうとするならば
今日、明日を少しでもラクに暮らせる「援助」がまず最初だと思う。
それが何なのかは人によって異なってくると思うけど。

直近のことが担保されて初めて将来のことにも考えが回せるように
心身のゆとりが出てくるものだと思う。

でも、実は、今日明日暮らすことだけで
精一杯という人だって少なくないんじゃないでしょうか。

日中独居・老老介護・認認介護。。。本当に多いです。

暮らしが先
あまりにも当たり前のことだけど、忘れてはいけないと感じています。

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暮らしから障害を観る

私たちは「私」という固有のメガネで目の前に起こることを見ている。
誰もこの「私」というメガネを外すことはできない。
はずしたら「私」が「私」でなくなっちゃう。
無色透明のありのままを見ることはできない。

当たり前のことなんだけど
この当たり前のことからスタートしていくと
認知症のある方への対応について
一見常識として定着していることでも
ものすごくおかしなことだということに気がつけるようになることってたくさんあるんです。

医師はその職業の特性上、疾患を診ています。
私たちリハスタッフは、障害と能力のプロとして要請されているし
仕事の場が地域、在宅へと展開されればされるほど
対象疾患が急性的ではなく慢性に経過するものであればあるほど
暮らしから障害を観ることが要求されてきます。

この観点を忘れちゃいけないんだと、日々感じています。

障害から暮らしを観るのではなくて、暮らしから障害を観るのだと。

最初に暮らしがあるのだということを。

介護保険の利用者の方に対して
「活動・参加」が焦点化されてきているのは、とても良いことだと思う。

ただ、気をつけなくちゃいけないことが
ときどき置いてきぼりにされているような気がしてなりません。

廃用にならないように、引きこもりから脱することができるように
家から出る機会を模索しましょう
って、流れにときどき違和感を感じることもあります。

もともと、いわゆる活動的な方で外出が好きで。っていう方が
高齢に伴い、あるいは種々の障害によって、外出しなくなり
って言うんだったら、お出かけしましょうよって誘う
あるいは、お出かけできるように働きかけることはとても重要なことだと考えています。

けれど、もともとあんまり人と関わるのが好きではなくて
ひとりで静かに過ごす時間が好きで
そういう方に対して、外に出て人と交流しましょうって働きかけるのはどうかなーと思うのです。

どんな風に過ごしてきたか、過ごすことを望むか。ということは
まさしくその方その方によって、まったく違っていて、良い悪いの問題で語れることではありません。
年をとって、廃用にならないように、認知症にならないように、という観点から
暮らしぶりを変えるのは、一歩間違うと、たとえ結果としてであったとしても
今までのその方の暮らし方、生き方をも否定することになりかねません。
それって本末転倒ではないでしょうか。

高齢者に対して量的改善だけを求めるのは、生きものとしての人間の否定につながりかねない。
ICFの活動・参加は、誰かの指標にもとづいて奨励されているものではなくて
その方お一人お一人の援助のために作られた概念であるということを決して忘れてはいけない
正しい暮らし方、望ましい暮らし方などがあるわけがない

介護予防、生活習慣病予防というのは手段であって目的ではない
障害から暮らしを観るのではなくて、暮らしから障害を観る
介護予防できれば、認知症予防できれば、生活習慣病予防ができれば
より自分らしく暮らすことができやすくなる

暮らしが先

そこを取り違えてしまっては、いけないのだと強く感じています。

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