Tag: リハビリテーション

既成概念に囚われない

ノーベル医学生理学賞を受賞した
本庶 佑 さんの言葉「教科書を信じるな」

受賞会見の一部を見て
凛とした佇まいに圧倒されました。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問だから
その時代時代での正しさが認識されたとしても
その時代では測定不可能なために正しいとされ
後の時代で測定可能となって初めて異なる正しさが提示される。

教科書に書かれていることは
その時々での確からしさに過ぎない。

私たちの世界で言えば
目の前にいる対象者の方が最前線

対象者を知識に当てはめるのではなくて
対象者のために知識を活用する。

良くなるはずなのに対象者が良くならないとしたら
知識の活用の仕方が悪いのか
知識がどこか違っているのか
だとしたら修正すべき知識は何なのか

具体的に身をもって教えてくださるのは
目の前にいる対象者の方に他ならない。
だからこそ、目の前で起こっていることに誠実に。
その思いを一層強くしました。

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「変化は辺縁から起こる」

「変化は辺縁から起こる」
誰の言葉か忘れてしまったけれど
ずっと胸に残っている言葉です。

どんな世界にも流行り廃りがあって
えてして、ついうっかりと、その時々の流行りゴトに乗っかりたくなるものだし
また、乗っかることを要請されもするけれど
ものすごく流行るコトって廃れるのも早い。
リハの世界にだって流行りゴトはある。
認知症のある方への対応にだって流行りゴトはある。

流行りゴトが無意味だとは思えない。
流行るには相応の理由があるし、部分的には意義がある。
そこを検討されずに全肯定、全否定となる風潮や
対象は異なれど同じことを繰り返してしまう私たち自身の在りようが問題なのだと感じています。

一方で本質・真実は時代を超え、地域を超え、伝えられていくものだと思う。
たとえ、萌芽期においては認められなくとも。
それは歴史が証明している。
認められないどころか、迫害されてきた。
ガリレオ然り、小笠原登然り。
でも時代が彼らの主張に追いついた。
今は彼らの主張の方が常識となっている。

正邪や常識といったものさしは
時代により地域により異なるし変わるもの。
その前提を忘れてはいけないと常々思う。

私たちは「正しい」ことを為すのではなく
目の前にいる方にとって「適切な」ことを為すのが仕事。

その時々の流行りゴトの世界に身を置いてしまうと
真贋を見極める眼を涵養することが叶わなくなってしまう。

「変化は辺縁から起こる」

これからの未来を背負って立つ若い人には
流行りゴトや声の大きさに惑わされることなく
真贋を見極める眼を涵養していってほしいと切に願っています。

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「在りよう」が積み重なる

「 聞いたことは忘れる。見たことは思い出す。体験したことは理解する 」

本当にそうだと感じています。

体験したことは理解する。
もっと言えば
体験は裏切らない。
もっと正確に言うと
体験に向き合った在りようは裏切らない。
在りようが積み重なっていく。

良いと言われたことは
何がどう良いのか考えた上で実践してみる。
そうすると何が良くて何が今ひとつなのかよくわかる。

業界に流布していることでも
未検証だったり検証が不十分だったり意図が不明瞭だったり
そういうことって少なくない。

地道に体験を重ねたからこそ
今になってはっきりとわかることがたくさんある。

「よっしーさんの話には(文章には)迫力がある」
「説得力がある」
「他の人と考えていることが全然違う」
というお言葉をいただくことが多々ありますが
裏打ちされた体験が下支えになっているからだろうと思う。

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「OTジャーナル」提言に掲載

「作業療法ジャーナル」最新刊Vol.52No.11の「提言」を執筆しました。

臨床家として率直に提言しています。

読んでいただければ嬉しく思います。

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言語化への努力

かつて
♪言葉にできない♪
という歌もありましたが。。。
(歳がバレバレですね)

私たちの仕事は技術職だから
どうしても言葉にできない領域もある。
「感じ」「加減」という。。。感覚的に明確にわかっていても言葉にしづらいこと
そしてそれ以前に、自分自身明確にそうとは感受せずにわかっている「暗黙知」の領域と。

だからこそ
言語化への努力を続けることが必要なのだと感じています。

これは果てのない努力かも。ですが

必要に迫られて
言語化への努力を重ねていると
その時々で自分でそうとは認識せずにしていた部分を自覚させられる体験が起こる。

そうか!
ここを言わなくちゃいけなかったんだ!
と納得できる。

自分にとっての当たり前は
当たり前だからこそ自覚しにくい。
そしてその当たり前は
他者にとっては当たり前とは限らない。

その時々の必要に迫られて
できることをしていけば良いのだと
それで十分なのだということが今は分かる。

時期が来たら
また別の体験によって
目覚めさせられる。

今も10月の講演のスライドを作っていて
「そうだ!ここを言わなくちゃいけなかったんだ」
とはっきりわかったことがあって
ちょっとスッキリ。

暗黙の前提を明示すること

暗黙の前提を吟味すること

多分、臨床で実践的に行える研究的姿勢というのは
こういうところにあるのだろうと感じています。
論文化しようが、しまいが、
臨床家として必要な姿勢なのだと。

そのためには
自分が何をしようとしているのか
最低限、そこは言語化できないと。

そしてその言語化(概念)と
自らの実践と結果との間に乖離がないかどうか
確認しないと。

ブレークスルーは
努力の積み重ねの上に降りてくる。

努力が当初の意図の通りに報われずとも
努力が無駄になることなんて決してない。

今、もしも、苦しんでいる人がいるとしたら
この言葉を送りたい。

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「関与しながらの観察」によって

「援助」と「使役」は紙一重
だから気をつけよう。

ここまでは今まで言えてた。
でも「気をつけようね」では行動修正できない
ってことも別のところで言ってた。
(確か、戸締まりか何かの話でここにも書いたことがあると思う)

具体的な行動として明確化できないと
修正はできない。

「気をつける」気持ちはあっても
「どこを」「どう」行動するのか明確化できなければ
気をつけた結果としての行動に結びつかない。

「援助」と「使役」は、すり替えられがちで見た目にもわかりにくい。

例えば
食事介助は
「食べさせる」ことも
「食べることの援助をする」ことも
どちらにも転ぶ。
そして端から見ている、遠目から見ているだけでは区別がつきにくい。
でも、当の介助を受けている人にしてみたら
その違いは明確に感受される。
例え、介助する人が無自覚であったとしても。

どうしたら、すり替わることなく
「援助」し続けることが叶うのか。。。

ある人の言葉が助けになって、ようやく明確にわかった。

「関与する」から「援助」を模索することができる。
「関与しない」から「使役」になってしまう。

ハリー・スタック・サリヴァンの言った
「関与しながらの観察」

対人援助のスタートであり、ゴールでもあるんだろう。

今までこの言葉の真意をあんまりわかっていなかったかも。
ようやく切実にわかることができ始めたかも。

ものすごい実践を成した人の言葉は本質を突く。

シンプルだけど深い。

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課題がやってくる

依頼された仕事は基本断らないほうが良い。
そう考えていますし
相談された場合にも、そのように答えています。
体調不良とか家庭の事情があるとか、そういう場合は別として。
自分でいいのか悩んでいるような場合には。

初めて受ける内容の仕事だと
不安もあるし
想像もつかないし
大変だけど
やってきた仕事には、その時自分に必要な、そして達成できそうな
課題が含まれていたりすることが多いと感じています。

仕事が終わってから、あるいはひと段落してから
あぁ、この部分が自分には曖昧だったけど
この仕事を通して明確化できたな。って感じることが多い。

やり遂げるまで、悶々としたり
やらなきゃって思いつつも、捗らない時には自己嫌悪に陥ったりもするけど
それでも何とか踏ん張って頑張っているうちに
わかっていそうでわかっていなかったことが
自分の中で明確になってくる。

逆に言えば
それしかできない、やりようがない、とも言えますが。

必要なタイミングで必要な課題が現れる。
そんな風に感じています。

 

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BPSD=名前≠実態

BPSDは私たちが名付けた「名前」であって「実態」ではありません。

本来なら「名前」をつけたところから
その「名前」も併せ持つAさんの困りごとに対して援助することが
私たちの仕事なんじゃないかと思います。

ところが
現実にはBPSDという名前がついたところから
名前だけが一人歩きしてしまって
どうしたら名前を減らせるか、なくせるか
という視点で対応されてしまう。。。

Aさんという一人の人の「存在」、Aさんという一人の人の「在りよう」が背景化してしまう。。。

「AさんがBPSDをすることもある」という見方ではなくて
「BPSDのAさん」という風に固有名詞化させてしまう。。。

Aさんが徘徊していない時だってあるのに
そこには注目されずに
徘徊していることだけがクローズアップされてしまう。。。

そういった現行の在りように違和感を抱いている人は決して少なくないと思います。

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