Tag: リハビリテーション

事実の子4:?「立って食事介助しない」

ネットで
「立って食事介助するなんて危ない」
という記載を見かけました。
その通りだと思います。
でも、「立って食事介助することの何がどう危ないのか」
理解していないと片手落ちになってしまいます。

立って食事介助すると
介助を受けている方の顎が上がってしまいます。
その姿勢は気道確保している姿勢と同じです。
つまり、食事介助しながら気道確保するという、とんでもないことをしていることになってしまう。

だとしたら
たとえ、立っていなくても、座って食事介助をしていても
顎が上がるような介助をしてはいけないということにもなります。

つまり
座って食事介助をしたとしても
対象者の上の歯を使って
スプーンで食塊をこそげ落とすような介助をしてはいけないのです。
このような介助は、立って食事介助をしているのと同じでとても危険な方法です。
ところが、現実には非常に多くの施設・病院でそうとは知らずに為されている方法でもあります。

諸般の事情で立って食事介助するしかない場合だって起こり得ます。
その時に大切なことは、立って行う食事介助を禁止することではなくて
立って食事介助していても安全に介助するにはどうしたら良いのか
ということを実践できることだと考えています。
(もちろん、座って食事介助できる方がより望ましいと思っています)

カタチが意味するハタラキを理解する

カタチだけ伝える、受け取る、のではなくて
その意味をも理解しないと本末転倒になってしまいます。

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事実の子3:「関係性の中で評価する」

ICFという言葉は、リハやケアの世界に定着はしていますが
思考回路としてはまだまだ定着しているとは言い難い現状にあると感じています。

先に挙げた
「口腔期の易疲労によって二次的に咽頭期に問題が引き起こされる」
というケースは、観察・洞察・評価して初めて認識できる事実です。

ところが、現実には
目の前で見える、結果として起こっている、咽頭期の問題そのものだけを
問題として設定してしまいがちです。

いわば、
「私たちは、太陽や月や星が動いているのを見ているから、天が動いているのだと考える」
のように天動説を唱えていた人たちと同じ認識になってしまっています。
じゃあ、なぜ、月食が起こるのでしょうか?

本当に
「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。」なんです。
事実と事実が食い違うことがある。
その時には事実を説明する理論の方が間違っている。
事実は厳然として現前しているからです。
異なる説明には視点と考え方を変えることが要請されます。
その要請に抵抗が起こってくることがとても多い。
事実に即した、でも新たな視点と考え方に依拠した説明をする人が糾弾されてしまう。
それでも後世に糾弾された人の方が正しかったことが証明される。
まさに地動説を唱えたガリレオや
ハンセン氏病の感染の低さと隔離政策の不適切さを訴えた小笠原登のように。

ICFは、相互関係論です。
ICIDHは、因果関係論です。
因果関係論によって確かに科学は進歩してきた。

けれど、
認知症のある方にとっての明らかな唯一絶対の「原因」となることはない。
「きっかけ」となることはあったとしても。
過去・現在・未来の時間軸という縦軸と
複数の心理的・物理的環境という横軸との中で暮らしている認知症のある方には
「必然」はあっても、「原因」はない。

食べ方の問題もそう、対応の工夫も同様です。
だからこそ、私たち介助者が関与できる余地があります。

現実には
ICIDHの因果関係論は根深く私たちの思考回路にこびりついている。

逆に言えば
ICFを本当に実践に位置付けることによって
新たな実践の科学としての視座を提示することも可能なのだと感じています。

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「事実の子たれよ」

知人から内村鑑三の言葉を教えてもらいました。

「事実の子たれよ。
理論の奴隷たるなかれ。
事実はことごとくこれを信ぜよ。
その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、あえて心を痛ましむるなかれ。
事実はついに相調和すべし。
その宗教的なると科学的なると、哲学的なると事実的なるとにかかわらず、すべての事実はついに一大事実となりてあらわるべし。」

本当にその通りだと思いました。
こんなに明確に言語化していた人がいたんですね。

理論とか常識というメガネをかけて見てはいけない。
メガネを外して事実そのままを観るように心がける。
事実が理論や常識として言われていることと反することや
事実同士が矛盾するように見えることでも
必ず見落としていた、隠れていた、一片のピースが見つかり
整合性のある事実としてもう一度現前し直す。
こういうことには、よくよく遭遇しています。

リハやケアの常識として語られていることも
事実の子たる在りようによって
異なる現実として現前し直す。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問だし
ましてや、作業療法は実践の科学です。
目の前の対象者こそ最前線。

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適切な声かけが評価の入り口

適切なスプーン操作が評価の入り口であるのと同じように
適切な声かけが評価の入り口
適切な声かけができて初めて認知症のある方の能力がわかる。

適切な声かけができないと
対象者の状態像を見誤ってしまいます。

求められているのは
唯一絶対の正しい声かけではなくて
その時その場のその関係性において適切な声かけ
なんだと考えています。

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環境との相互作用

人は環境の中にいる。

いろいろな構造物に囲まれているし
いろいろな人間関係に囲まれている。

自覚的にも無自覚にも甘受している情報はたくさんある。

アフォーダンスとは
環境の中に実在する行為の資源 と定義されている。

私たちは対人援助職として
対象者に対峙するけれど
同時に認知症のある方の側に立ってみれば
無数の環境の中の構成因子でもある。

認知症のある方は
私たちの言動を手掛かりの一つとして
環境認識し対応しようとする。

だからこそ
私たちの言動の意図がcontrolであれば、
通常は誰だって嫌がるものではないだろうか。

その表れが
ネガティブなパターンだと
表れ方だけを見て否定的な判断を下されがちだけど
そこだけ切り取ってしまえるものなのだろうか?

それに、通常、私たちが暮らしの中で
「え?」と思うような対応をされても
内心の思いを抑圧して表面的には追従することもあるのと同様に
認知症のある方だって合わせてくれることだってたくさんあるに違いない。
そこって現実に起こっていても評価されにくいところだと思う。

だけど、私たちが判断できないからといって
現実に起こっていないわけじゃない。

私たちが観えていないだけで
認知症のある方は必死になって対応しようとしている。

それは能力があるからこそできること
なんだと思う。

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必死に対応

たとえ、重度の認知症のある方でも
必死になって環境に対応しようとしています。
使える能力を目一杯使って何とかしようと代償もしている。

「異常な環境には異常な反応が正常だ」

この言葉は当事者としての活動のさきがけとなった
クリスティーン・ブライデンさんの言葉です。
本当にその通りだと思う。

一見すると異常に見える言動が
不適切な環境として認識されるような関わりへの正常な反応であるという可能性
への吟味って、あまり為されていないように感じています。

ようやく最近になって
かなり明確に言語化できるようになってきたので
このことを掘り下げて考えてみたいと思います。

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違和感がヒント

仕事でも講演でも
自分が組み立てて何かを為した時に
ふと違和感を感じたとしたら
それは私にとってのブラッシュアップのヒントだった
ということって、とても多い。

どこがどう。と明確に言語化できなくて
でも、何か心に引っかかることがある。

そんな時には
まず言語化できるように努力するけど
必ずしもすぐに「あ!そうか!」とわからない時だってある。

わからないことって、抱え続けるのは
モヤモヤした気持ちでいることになるけど
忘れないようにする。エイやって放り投げないようにする。
違和感を感じたところを心に留めておく。
それだけでも違う。

そうすると、後になって、ひょんな時に
「あ!そういうことだったのか!」と気がつくことが多い。
気がついてしまえば何てことはないことでも
気がつけない時は、どうしたって通り過ぎてしまう。

違和感がブラッシュアップのヒントになる。
そういうことって、とても多い。

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講演@文京学院大学

平成30年10月6日(土)に
文京学院大学本郷キャンパスにて
「認知症のある方に本当に役立つセラピストになるために」
というタイトルで講演をしてきました。

ほぼ定員いっぱいのたくさんの方にお話を聞いていただくことができました。
貴重な機会を作っていただけたことに心から感謝申し上げます。

私は認知症のある方を取り巻く現状に強く危機意識を抱いています。
優しく親切に快適さを心がけて接するだけでは
認知症のある方とご家族の暮らしの困りごとを少なくしていくことは難しい。
認知症という状態像は脳の病気によって引き起こされるからです。
同じ脳の病気によって引き起こされる脳卒中後遺症片麻痺のある方に対して
優しく親切に快適さを心がけるだけでは
麻痺が改善するわけでもADLが良くなるわけでもありません。
専門的なリハを受け、動作のポイントを踏まえて
毎日の暮らしの中で繰り返し繰り返し実践していくことが求められています。
認知症のある方だって全く同じなのです。

そのためには
認知症のある方に今、ここで、何が起こっているのか
評価、アセスメント、みたてができなければ。

そのためには
知識をもとにした観察ができなければ。
その観察をするにあたり
どんなに自戒してもしすぎることがないのが
私たち自身の在りようで
援助と使役は紙一重だということ
そして自分が何をしようとしているのか、自分自身が明確にしておくことが
肝要なのだということをお伝えしました。

一人でも多くの方に伝わって
明日からの臨床に活かされ
認知症のある方とご家族の暮らしの困難が少しでも少なくなることを
心から願っています。

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