Tag: リハビリテーション

視点の変換

能力を見いだし、能力にはたらきかける

単に今できることだけではなくて
目に見える、現象としての不合理な言動にこそ、能力が投影されている。

でも、その能力は観ようとしなければ観えないし
観ようとしても知識がなければ見そこねてしまう。

コップに半分の水が入っているとして
あと半分しかない。とみるか
まだ半分ある。とみるか

能力が低下して、いろいろなことができなくなったわけじゃなくて
能力は低下したけど、(コップ半分の水はないけれど)
残っている能力だって、いっぱいある。(コップに半分の水は残っている)

コップの水を増やすことを考えるんじゃなくて
コップにある残り半分の水でどうするかを考える
というか、
認知症のある方は、既に、残り半分の水でどうにかしようとしている。
それなのに、私たちは、そのことに気がつかずに水が足りないからと諦めたり
増やすことのできない水を増やそうとして困惑している。

認知症のある方が
残り半分の水でどうにかしようとしていることがわかれば
その次へ進める。

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記事掲載@POST

先日、「PT・OT・STのための働き方・学び方発見サイト」POSTさんに
「『ねぇ!』に隠された意図を捉える」という記事が掲載されました。

私たちは、どうしても言葉の表面にとらわれがちになってしまう。

表出言語としては、パターン化された数語の言葉しか表現できなかったとしても
内在する気持ちや意思がないわけじゃない。
行動というもう1つの言葉をやりとりするということは可能です。
そんなことを書いてみました。

本当は
多様性ということについても踏み込んで書きたかったんだけど
まだうまくまとめられなくて、それはまた今度。

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結果として起こることの目的化

結果として起こることの目的化
これも臨床あるあるな気がする。。。

たとえば
大昔に、「寝たきり老人ゼロ作戦」なるものがあって
確かに寝たきりはなくなったけど、でも座りきりが増えた
ってことがあった。

今、「活動と参加」の旗が振られ
確かに、何かしているようにはなったけれど
でも、私たちの脳みそがお年寄りの手足を動かしている
そんなことにはならなければいいけれど。。。と危惧してしまう。

たぶん、デイとか「何かする」ことが
ひとつの提供すべきサービスとして求められている場において
切実に現場の職員は困っていたりするんじゃないかしら?

ありていに言えば
「今日は何をしてもらおうか?」
一歩進めて
「これってこの人にとってどういう意味があるんだろう?」
「この人に本当にこれでいいのだろうか?」

そう思った時に
どう考えたらよいのか、という道しるべのような考え方って
案外、教わっていない。

希望を尋ねればいいじゃない?
って言われるかもしれないけれど
それは、病状が進行した認知症のある方に接していないから
そんな風に言えるんだと思う。

病状が進行すると
かつて好きだったことや趣味活動を言葉で答えることが難しくなるし
仮に言うことができたとしても
かつて熱中して行えていたことが
今は病気のためにできなくなってしまっている。

そんな時に対人援助職が言ってしまいがちなのが
「一緒にやるから大丈夫」という言葉だけれど
実際、一緒にやってみて、まるで私たちの脳みそが認知症のある方の手を動かしているような
気持ちになったりしないだろうか?

確かに作品は何かできあがったかもしれないけれど
これは、本当に認知症のある方がoccupyした結果、できあがった作品だろうか?

結果として起こることの目的化

これって、いろんな場面で起こってる。

美味しく食べていただきたいと願っていながらも
結果としては食べさせてしまったり

拘縮予防のためのポジショニングと言いながら
単に肘や膝を伸ばそうとしていたり

食べられるようになるのは結果として起こる
肘や膝が伸びるのも結果として起こる

結果として起こるように援助するのではなくて
結果を表面的にさせてしまう。。。

「ちゃんと食べてね」という声かけは、その最たるものだと思う。

私たちの仕事は、「言う」ことや「させる」ことではなくて
できるように援助すること。

結果として起こることの目的化は
援助とは、真逆のことだと感じています。

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適切さ>正しさ

臨床で求められていることでよくある混同の1つに
「適切さと正しさ」があると感じています。

間違っていることと正しいことの区別がつくことは大切だけれど
正しければ誰かの役に立てるかというと
それはまたちょっと違うとも感じています。

一般論としての正しさでは、困っている人の役には立てないこともある。

気がついている方もいらっしゃるかと思いますが
私はこのブログをはじめ講演でもよく「適切」という言葉を使っています。

ときどき、「正しい」という言葉に翻訳されてしまうこともあるのですが。。。

その時その場のその関係性において
適切だと判断した方策をとる。
その責任を負っているのが私たち対人援助職だと思う。

「適切さと正しさ」については
論点がいくつかあるので、いずれきちんと整理してから書いてみたいと思います。

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もう1つの言葉

モチロン、行動観察だけですべてがわかるわけではありません。

適切に検査が行えることも必要で大切なことです。

ただ、行動観察の重要性はもっと強調されてよいと感じていますし
行動観察が的確にできるようにトレーニングすることが重要なのだと感じています。

言葉だけに頼らない。

行動は、もう1つの言葉だから
その言葉を聴きとれるようになったら
もっと広く深く理解できるようになるし
もっと適切な対応ができるようになるから。

行動観察の積み重ねで相当の確からしさをもって言えることがある。
その上で必要な検査を行えば、さらに明確に言えるようになる。
そうすると、どうしたら良いのか、具体的にピンポイントで
オーダーメイドの対応の工夫を提案できるようになります。

私たちは対人援助職だから
評論するのではなくて、援助するのが仕事だから
そのために行動観察の有用性が認識されるようになり
臨床で活用されるようになったらいいなと思う。

そのためには知識が必要。
認知症のある方が
言った言葉を聞き逃さずに
為した行動を見逃さずに
聞き留め、見つめることができるために

もう1つの言葉を言葉として捉えられるようになるために

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行動観察の重要性

行動観察は実は非常にactiveで有益で効率的で非侵襲的な情報収集です。

根拠に乏しいという批判のために
昨今、検査が重用されるようになってきました。
検査は検査として必要で重要ではありますが
一方で相対的に行動観察の重要性が低く認識されるようになってしまい
さらにきちんとしたトレーニングが十分に為されていない現状は
危機的だとすら感じています。

行動観察がまずいんじゃなくて
きちんとした行動観察ができないことがまずいだけなのに。。。

論点のすり替えが起こっていることが残念でなりません。

良い臨床家の育成のためには
行動観察が適切にできるようにトレーニングすることが大切なのに
と感じています。

H・S・サリヴァンの「関与しながらの観察」という言葉は本質を突いています。

単に関わりながら観察するんだ、というような表面的な意味合いではありません。

ようやく
この言葉の意味を実感をもって理解できるようになってきたし
少しは実践もできるようになってきたと感じています。

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評価 ≠ 検査,推測

あるあるな誤解です。

評価=検査 ではありません。
でも、評価といいながら検査の意味で言葉を使っている療法士って
案外多いように感じています。

検査=評価だと思っていると
認知症のある方に対して、お手上げになってしまうのではないでしょうか。

また、評価=推測 でもありません。
とりわけ、精神科作業療法士の中に
推測の積み重ね=評価 と考えている作業療法士が
とても多いように感じています。

実習にくる学生さんには
推測するのは後!まず情報収集!と繰返し伝えています。

結果として表面的に起こっている事象について
〇〇ではないかと考える、のは違うよ。
それは臨床的推論とは違うよ。と言っています。

結果として表面的に起こっている事象について
〇〇という障害と〇〇という能力が表れている。
こう言えるためには知識が必要だし
異なる場面設定での確認ができるだけの情報収集が必要だよ。

異なる場面で違うカタチで現れていることも
メタの視点で眺めれば同じコトが(同じ障害と能力が)違うカタチで現れていることが
自然と浮かび上がってくる
浮かび上がってくるまでは情報収集が必要なんだよ。と言っています。

臨床あるあるな傾向として
身障系の作業療法士は「評価=検査」という誤解が多くて
精神系の作業療法士は「評価=推測」という誤解が多いように感じています。

モチロン、
行うべき検査をきっちり行ったうえで、評価をしている作業療法士も
複数の場面設定を巧みに緻密に行い、評価を深めている作業療法士も
たくさんいますが。

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問いを読みとる

実習に来た学生さんが
なぜ私のところに来たのか
ということの意味を考えることがあります。

学生さんがニコニコして実習を終えた時には
必ず学生さんの中でプラスの行動変容が起こっている。
そしてその時には必ず私の中でも変化が起こっている。
新たな気づきとか、理解の深化とか。

モチロン、学生さんがどの実習地に行くのか
養成校の教員の方がいろいろなことを総合的に考えられた結果決定されるのだと思いますから
教員の方の術中にはまったと言えるのかもしれませんね (^^;

人との出会いによって
あぶり出される自分の能力と困難と特性

私の場合には
ちょうど良いタイミングで
必要なできごとが起こっているように感じます。

逆か。
認識できることしかわからないから (^^;

私の大好きな作家に
アーシュラ・K・ル=グウィン という人がいて
読むたびごとに発見や理解の深化があるのですが
「西のはての年代記 II ヴォイス」にこんな言葉があります。

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わたしたちの求めるのは真の答えではない。
われわれの探す迷子の羊は真の問いだ。
羊の体のあとにしっぽがついてくるように、真の問いには答えがついてくる。
(p.177)

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はかりしれない謎に対して理にかなった思考を寄せる
(p.195)

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この表現に出会った時に衝撃を受けました。
私の中でまったく言葉にはならないでいた、
でも、漠とした感覚のような存在に名前が与えられたように感じました。

ル=グウィンの本は折にふれ、読み返しているのですが
ここのところ、全然読んでいなかったことに気がつきました。
今すぐは仕事が立て込んでいるから読めないけど
もうちょっとしたら夏休み(秋休み?)だから
その時に読み返そうって思いました。
そのためにもやるべき仕事を完遂しなくちゃ!

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