Tag: リハビリテーション

どうしたら良いのか考えてはいけない

大声や帰宅要求、更衣困難などのBPSDや生活障害に対して
「どうしたら良いのか」考えたり話し合ったりする人は多いけど
そのような在り方が、
的確な評価、アセスメント、状態把握から
ますます遠ざかっていくと感じています。

もちろん、ご家族だけでなく、職員同士も
辛いことや悲しいことを語り合う場は必要だと思います。

でも
「〇〇という状態の方に、どのような対応が良いのか」
ということは、考えたり話し合うことではないと
強く感じ、また考えてもいます。

なぜなら
その時その場にいる人にしか
状態把握できるチャンスはないからです。

BPSDや生活障害に反映されている能力と障害を
的確に観察・洞察することができるのは
その時その場にいる人だけです。

認知症のある方にきちんと向き合ってきたなら
発揮される能力と障害が日によって時間帯によっても異なる
ということを実感する場面にたくさん遭遇しているのではないでしょうか?

能力や障害が異なれば
対応の工夫だって異なるはずです。

その場にいない、状態像を把握できない人が
「こうしてみたら?」
「ああしてみたら?」
と言うことができるということは
普段から、その時その場にいる人が
今、認知症のある方に起こっていることを観察・洞察した上で
即応しているわけではないということを暗に示しています。

Aさんに〇〇してみたら上手くいったから〇〇するのはどう?
Bさんに△△してみたらよかったから△△してみたら?

これでは、表面的なハウツーを当てはめているだけです。

どう対応したら良いのか
答えは、BPSDや生活障害という場面にこそあります。

大切なことは
どうしたら良いのかという
表面的なハウツーを増やしたり考えたりすることではなく
任意の場面での言動に反映されている能力や障害を
的確に観察・洞察できるようになること

観察・洞察ができれば
どうしたら困りごとを改善できるのかという
答えが自然と浮かび上がってきます。

浮かび上がってこない時は
観察・洞察できていないことがどこかにあるということ

  もちろん、能力によっては対応困難なことはあります。
  それは認知症ではなく、他の疾患や障害でも
  できること、できないことがあるのと全く同じです。

何よりも大切なことは
観察の解像度を上げること
だと考えています。

世にグループワークは花盛りです。
認知症の研修会で
「どうしたら良いのか」話合わせるような研修会も散見しますが
そのような場面設定をすることで
話し合いの結果だけではなくて
どうして良いかわからない時→人に聞く、話合う
というメタ認識をも誤認させてしまい
ますます、自身の観察力を磨くこと
そのために知識・概念を明確に認識することから遠ざかり
ますます、観察・洞察ができなくなり
ますます、人に聞いたり、話合うことに注力させ
ますます、今、その時その場に反映されている能力と障害に基づいた対応ができず
結果、「一生懸命やっているのに効果が得られない」
という状態の悪循環になってしまいます。

グループワークで
「悩んでいるのは自分だけじゃないとわかって安心した」
という感想を散見しますが
苦しさ・つらさを分かち合った後こそが大切
そこからどうするか?が問われています。

グループワークにはグループワークの良さがあります。
けれど知識と技術の伝授は然るべき人からきちんと伝授されるべきです。

 

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連携について:実践的な考え方と工夫

オミアシヲアゲテクダサイ

多職種連携、チームアプローチは
古くて新しい課題
私が学生の頃から課題として取り上げられていました。

作業療法は、
確かにさまざまな知見を集積・発展してきたと感じています。
一方で、本質的な課題ほど
私が学生の頃と比べてあまり改善が為されていないように感じています。

例えば
目標設定について
評価について(検査やバッテリーではなく状態像把握という意味)
多職種連携、チームアプローチについて

目標を目標というカタチで設定できず目的や治療内容と混同していたり
検査やバッテリーをとっても、
結果を対応に活用せずに評価と乖離した実践をしていたり
対象者のための連携ではなくて連携のための連携にすり替わっていたり。。。
 
就職したての作業療法士が困惑し
先輩に相談しても本心から納得できるような援助が得られず
提示された表面的な対応をやってみるしかない
そしてあまり効果がないにもかかわらず
代替案がないのでなんだかなぁと思いつつも
なんとなく口を濁してしまう以外の手が見つからない。。。
実習生や新卒に指導する時にも
実は内心困惑しながら指導しているうちに
数年経つと困惑すら感じないようになってしまう。。。
といった状況が昔も今も変わらずあるんじゃないかなぁ。。。?

私は臨床家として
対象者の役に立てるようになりたいと必死になって考えてきました。
良いと言われたものは必ず自分で実践して
どこがどう良くて
どこがどう使えないのか
事実に即して具体的に考えながら
抽象化・言語化するという過程を実践してきました。

それらについては
講演や論文という形でも世に問い続けてきましたが
総まとめとして別の形でもまとめてありますので
よかったらご参照ください。

目標設定について

関与しながらの観察について

今回、多職種連携・チームアプローチについて
実践的な考え方と工夫について概観できるように連載記事を書きました。

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連携について

1 飲みニュケーションでは連携の問題を改善できない
2 プロのチームスポーツに学ぶ
3 連携という抽象論ではなく具体的に改善していく
4 情報伝達において前提要件を認識する
5 看護介護職は変則交代勤務
6 情報伝達の工夫:使う場所に情報提供
7 対象者が変われば職員も変わる
8 そもそも何のための連携?
9 たったひとりでも変わる意義

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日々の実践を高め深めるための臨床家としての提言です。

 

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Activityの提供:本当にあったこと2

ずいぶん昔の話ですけど
私が毛糸を巻き取っていたら
ある人に
「それならXさんでもできそうだから、やらせてみたら?」
と言われたことがあります。

Xさんは、90歳代の男性で長く農業を営んでいた方です。
確かにXさんなら動作的にはできそうです。
でも。。。

今でこそ、男女同権(に近い)。
夫婦揃ってお買い物したり
男性が出勤途中にゴミ出ししたり
家族のためにご飯を作ったり
といったことは珍しくありませんが
私が子供の頃には、ほぼありえないことでした。
(良いか悪いかはともかくとして)
「男子厨房に入るべからず」
という言葉だってあったくらいです。

毛糸を巻き取るという行為は
昔は女子供(昔はこの言葉が使われていました)の仕事でした。

Xさんが生きてきた時代と
今の若い人たちが生きている時代は
明らかに違っているのです。

Xさんは確かに認知症は進行していて
何かを作ることは難しそうです。
でも、できれば良い。毛糸の巻き取りで良い。
とは私は考えていませんでした。
尊厳の問題です。

「Xさんに毛糸巻きを提示する」
ということは
「あなたには、これがふさわしいと(私が)考えている」
ということを言葉にはしなくても伝えることを意味します。

私は
「できる」ことよりも「特性に合致しているか」
ということを重要視しています。
その理由と展開の仕方は「Activity選択の考え方」をご参照ください。

ちなみに
私がXさんに提供したのは
他の方がそれぞれ各自のAct.を行なっている並行集団に入ってもらい
「監督」の役割を担ってもらうことでした。

Xさんは、それぞれの方に
優しく労いの言葉をかけ
褒め称え
時には冗談を言って場を盛り上げ
お一人お一人の様子を気にかけ
優しく鷹揚に年長者として場を取りまとめてくださっていました。

お若い頃のちょっとした集まりの時にも
こんなふうに和やかな場づくりを意識されていたんじゃないかな
と感じました。

Activityを提供する時に
その方にとっての意義を第一に考えるということは
( 意味ではなくて意義 )
とても重要だと考えています。

 

 

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Activityの提供:現状共有

認知症のある方に
Activityを提供する際には
さまざまな困難が伴います。

過去にもいろいろな記事を書いてきましたが
ここで一度総括してみようと思います。

長くなるので
シリーズとして連続記事で書いていきます。

まずは
認知症のある方へのActivity提供の現実モロモロの共有化から。

やりたいことの希望を聞いたけれど
・特にないと言われた
・私は何もできないと言われた
・言われたことが認知症のためにできなかった
・過去の趣味を提示したけれど、やりたがらなかったorできなかった

何を提供して良いかわからずにとりあえず
・折り紙を提示したけどできなかった
・塗り絵を提示したら怒られた
・風船バレーならできるかと思ったけどできなかった

他職種から
・徘徊しないように何かできることはない?
・立ち上がりが頻回で困るから何かやらせてほしい
と聞かれた

などなど、作業療法士あるあるではないでしょうか?

次の記事で
これらの表面的な事象に反映されている
本当の困難や意味について書いていきます。

 

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観察・洞察から始める対応の工夫

ほとんど休眠状態だったこちらのサイトに
こんなにもたくさんのアクセスをいただき
ありがたく思うと同時に
再開への誓いを新たにしました。

個人のサイト(OT佐藤良枝のDcゼミナール)を立ち上げたこともあり
どのように使い分けをしていくかは
走りながら考えていこうと思っています。

ただ
再開にあたり考えたこともあります。
それは事実に即して記述していくということです。

そんなの、当たり前じゃん。って思われるかもしれませんが
多くの場合に、常識とされている慣習的対応や視点、考え方に
無自覚のうちに支配されていることって多々あります。

  例えば
  老年期のリハ場面で立ち上がりの練習をするセラピストは
  大勢いると思いますが
  同時に座る練習をするセラピストは多くありません。

  私は立ち上がりの練習をするよりも座る練習をした方が
  より安全に円滑に立ち上がれるようになると考えており
  第12回神奈川県作業療法学会のワークショップで発表もしましたし
  こちらのサイトでも「立ち上がり」で検索していただければ
  多数の記事がヒットすると思います。

「できることのでき方をよくしていく」
という考え方が私の根幹にあります。

実は
できていることにも
できていないことにも
同じように能力も障害も困難も反映されています。

セラピストは
表面的な「できていること」「できていないこと」を見るのではなくて
表面的な事象に反映されている
impairmentの能力・障害・困難を観ることが重要で
(ここまでは、当たり前と思われると思います)
「できていること」の中には、かなり代償を使って
特に粗大なPowerを使って代償している面があります。

  立ち上がりを例にとれば
  腰背部の筋力があるからこそ立ち上がれてしまう。
  疾患によって筋力が以前のように発揮できない状態に陥ると
  立ち上がれなくなる。 
 
  そこで、筋力強化→立ち上がりの練習
  というのが今の一般的な方法論だと思いますが
  そうではなくて
  せっかく筋力が発揮できない状態になることができたので
  本来の身体協調性を発揮して立ち上がれるように再学習する

  そのためには、立ち上がりの練習をすると
  どうしても脳内にインプットされている過去の回路が起動してしまうので
  新しい回路を作るために、座る練習という体験を通して
  筋力を過剰に使わずとも身体協調性を再学習し能力発揮する
  このような方法論で多数の老年期の方が立ち上がれるようになる
  という体験をしてきました。

  私に言わせれば
  立ち上がり100回!とか、大腿四頭筋の筋力増強訓練!とか
  生活期にある方に対してはとんでもない話で
  せっかくの再学習の機会を奪ってしまっているとしか思えません。

  抵抗と防衛のために
  慣習的視点、対応、方法論にセラピストも支配され
  脱却が困難になってしまっています。

「できることのでき方をよくしていく」
というのは、代償を使わず本来の能力発揮を援助する
能力がより合理的に発揮できるように援助する
という意味なのです。

同じコトが違うカタチで現れていることは
ヤマほどあります。

認知症のある方への食事介助しかり
対応の工夫しかり
「褒めてあげる」「なじみの関係」etc.
(こちらも過去の記事にありますので、検索してみてください)

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。」

この言葉は
内村鑑三の言葉で
私が大切にしている言葉でもあります。

理論というのは
まさしく〇〇理論、〇〇法も該当しますが
常識、慣習的対応という言葉に置き換えても該当すると考えています。

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。
 事実はことごとくこれを信ぜよ。
 その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、
 あえて心を痛ましむるなかれ。
 事実はついに相調和すべし。
 その宗教的なると科学的なると、
 哲学的なると事実的なるとにかかわらず、
 すべての事実はついに一大事実となりてあらわるべし。」 

後半のくだりは、まさしくその通りで
実際に認知症のある方と接していて何回膝を打ったことか。。。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問であり
まして作業療法は実践の科学です。
実践の科学であるからこそ
解剖学・運動学・症候学などの基礎知識を習得し、
知識を活用して観察・洞察できるようになることが
未来の作業療法に貢献することに他ならないと考えています。

「観察の重要性を知った」
「評価しているつもりだったが、まだまだだと思った」
私の講演を聞いた方から、そのような感想をいただくと本当に嬉しく思います。

ハウツー的思考回路から脱却し
uniqeな目の前の対象者の困りごとの場面そのものを
自身も含めた環境因子の中で
明確に観察・洞察・対処できるようになる人が
一人でも多くなることを願って
このサイトを再開させたいと思います。

 

 

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ご家族に苦行させない

私は食事介助は本当に大切に考えています。
それにはさまざまな理由があるのですが、それはまた別の機会に書くとして。

食事介助は
特別の技術も知識もなしでも誰にでもできるだろうと
心のどこかで思われているのではないかと感じることが多々あります。
(親なら誰でも乳幼児には必ず食べさせる時期がありますものね)

とんでもない誤解です。
どうしたら食べやすくなるだろうか?
そして、その意味について考えながら実践を積んできましたから
安全に楽に美味しく食べられるように食事介助できる自信も
(逆に、決して実行しませんが)
全然美味しくなく辛く危険な介助をすることもできます。
(マイナスがわかるからこそプラスが実践できるという意味です)
そしてそれがどうしてなのか、具体的に言葉で明確に説明することもできます。
それだけの知識と技術を持っている自負があります。

職員同士で会話しながらの食事介助とか
嚥下5相を観察せずに介助するとか
喉頭挙上していないのに次の食塊を介助するとか
口の奥にスプーンを入れるとか
斜め上にスプーンを引き抜くとか
無理矢理口をこじ開けて食べさせるとか
覚醒が悪いのに介助するとか
。。。書いていて本当にイヤになってきますが
そんなことは決してしません。

その代わりに
身体の動き全体を含めた食べ方をよく観察します。
表情や視線をよく観察します。

言葉にならない、表情や行動という
もうひとつの言葉を聴こうと心を澄ませます。

食事介助は、どうやって「食べさせるか」ということではありません。

その方がどんな風に食事という場面に向き合っているのかを知り
その方なりの食べるという環境へのアウトプットを援助し
その方の環境感受・認識・対応という一連のループを
ループとして完結するように援助することです。

例え、
ループが小さなループであっても、歪な形であっても
その方のループがループとして完結できるように援助することです。

例え、
表面的には食べていたとしても
ループがちぎれた形であれば
援助ではなくて従属の要請になってしまいます。

とりわけ
ご家族は、職業として介助に従事しているわけではありません。
大切なご家族だからご家族としてできることをするので
ご家族に苦行をさせるような「指導」を対人援助職はすべきではないと考えています。

「ちゃんと食べさせないと体が弱っちゃうからしっかり食べさせて」
「ちゃんと水分を摂らせないと脱水になっちゃうからしっかり飲ませて」

ご家族にそんな風に「言う」のではなくて
ご家族が「ちゃんと」できるように「なる」ためには
どこをどうしたらいいのかをまずやってみせられる
そして具体的に明確に言葉で伝える
ことが対人援助職の仕事なんじゃないかな。

職業として関わっている自分ができないことを
ご家族に「させる」のはおかしなことだと思う。

ご家族は、ご家族としてそばにいるだけで
対象者の方の支えになっている。

「うまく食べさせられなくてごめんね」
「無理矢理食べさせてごめんね」と思わせながらご家族に介助させるのは
対象者の心の支えを剥奪してしまうことになりかねないと思います。

今よりもずっと過酷な時代を生き抜いてこられ
人生の総まとめの時期にあるお年寄りにとって
食べられないなら食べられないなりに
食べようとしているなら食べるチカラに合わせて
介助していく方法とその姿勢を伝えて
食事介助という場面に
対象者がどんな風に向き合っているのかを理解すると
まるで、その方自身の生き様が浮かび上がってくるように感じられます。
かつてのその方を彷彿とするような類似したエピソードを
ご家族が思い出すことができれば
例え、食べられても食べられなくても
その方とご家族との絆をもう一度再構築することになる。

「ちゃんと食べさせる」ことを最優先するように仕向けられたご家族は
必死なご家族ほど、対象者の言動を感受観察する機会に目をつぶらされ
その事によって絆を再構築する機会を失ってしまう。

対象者は自身の尊厳をご家族によって損なわれるという体験をする事になってしまう。

私たち人間は、食べる機械じゃない。

ご家族は、介助「要員」ではない。

介助は仕事であってもご家族がしても
大変だけれども
介助したからこそ、介助という体験そのものから得られることもあるのだから。。。

年の瀬に新たな決意をしました。
がんばるぞー!

今年はどなたも大変な年だったと思います。
お身体にはくれぐれもお気をつけて。。。
良いお年をお迎えください m(_ _)m

 

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日課確認:時計メモセット

今の時期、来年のカレンダーが販売されています。
そのカレンダーを使って一工夫。

日課が分からずに不安になってしまうような方向けの工夫です。

百均で、時計と自立式のカレンダーとケースを購入しました。

カレンダーはメモとして、日課を書いた紙を貼ります。
写真ではわかりにくいと思いますが
扱うスタッフ向けに左端に時刻と予定を書いたタブもつけてあります。
そうすれば、次の日課に向けて
カレンダーをめくるのが簡単・便利です。

タブの文字を黒色文字で書いてしまうと
多分ご本人様が気にしてしまうと思うので
敢えて薄めのオレンジ色で書きました。

ベッドサイドの床頭台に置いておいて
お部屋で一人で臥床している時に
自分で時刻を確認して次の予定も確認できるようになりました。

自分で1から作るとサイズを測ったりするのが手間ですが
市販品を上手に活用すると
必要な時に素早くすぐに作ることができます。

もちろん
事前に時計の文字盤や文字を読めること
文字の大きさについて
時刻と日課が表示されていれば安心できることは
別の場面で確認済みです (^^)

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コップで水分摂取の介助2

下唇にコップの縁を当ててから
コップを傾け
上唇に液体を触れるのを確認します。

そうすると
対象者のお身体が動きます。
動く場所は人によって異なります。
頭部だったり、背中だったり、顎だったり。
それが一口量のサインなのでコップの傾けを元に戻します。

してはいけないのは
コップを口角まで押し当てたり
一度に大量の水分を口腔内に「入れてあげて」はいけません。

対象者が「飲むのを援助」してください。

本当に多いのが
食事介助を「食べさせて」あげている人です。

本当に少ないのが
対象者が「食べることを援助」している人です。

言葉遊びではなくて
文字通りに
食べさせているから
飲ませているから
食べられなくなる
飲めなくなる
ということが起こっているのです。

そして
食べることを援助し
飲むことを援助すれば
もう一度食べたり飲んだりできるようになる方が
圧倒的に多いのです。

 

 

 

 

 

 

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