Tag: リハビリテーション

スプーンの工夫:自力摂取

 

今から10年以上も前になりますが
食事が終わった方の手指を見た時の衝撃を忘れられません。

「このスプーンが重いのよ」と
通常使用している普通のスプーンの重さを訴えられた私は
スプーンを把持していた右手を確認して
くっきりとスプーンの跡がついていたのを見て驚きました。

その方は
特に片麻痺があるわけでもなく
外傷や末梢神経障害があるわけでもありませんでした。

こんなに力を入れて食べていたんだ。。。
と思うと胸がいっぱいになりました。

自力摂取できる方の場合
よっぽど食べこぼしが多いとか
時間がかかるといったことがないと
スプーンをどんな風に把持しているのか
あまり気にされることがないのではないでしょうか。

OTならぜひ一度はご確認いただきたいものです。

重度の認知症のある方でも
なんとか自力摂取しようとさまざまな把持の工夫を見てとれます。
把持の低下ではなく、工夫の意図が反映されています。

ひとつには
認知症のある方は、オーラルジスキネジアがある場合も多いのですが
自力摂取できている時には、オーラルジスキネジアによる困難は目立ちません。

ところが
食事に介助が必要になると
オーラルジスキネジアによる困難が一気に表面化します。
ものすごく介助がしづらくなります。
オーラルジスキネジアという認識ができなければ
「どうしてちゃんと食べてくれないの?」と思ってしまうかもしれません。

方策は2つ
ひとつは、できるだけ長く自力摂取できるように
スプーンを工夫すること
もうひとつは、食べ方をきちんと観察・洞察して
適切に食事介助ができるようになることです。

でも、こちらは本当に難しい。
食べ方を摂食・嚥下5相にそって観察することができない
それぞれにどのような能力と困難が反映されているのかを洞察することができずに
「ためこんでしまう」「飲み込んでくれない」「口を開けてくれない」
といった結果として起こっている表面的な事象しか見ていない人の方が
圧倒的に多いのが現状なのです。

そして食べ方の観察・洞察ができたとしても
改善していくためには焦らず辛抱強く
その時々の能力発揮を援助できることが必要ですが
そのような対応ができる人はまだまだ少ないのが現状です。

だったら、スプーンを工夫する方がまだ簡単です。
食べられるようになったか、ならないかが明白だからです。
手指に過剰に力を入れなくても
スプーンを把持できるように工夫する。
オーラルジスキネジアがある方もない方も
できるだけ長くスムーズに安全に自力摂取できるようになります。

市販のスプーンで対応できることもあるでしょうけれど
市販のスプーンは大きくて重くて
かえって扱いにくいものです。

軽くて把持しやすいスプーン
できるだけ長く自力摂取できるように
OT の腕の見せ所だと思います。

ただし
本当に予防的対応ができた場合には
皮肉なことに問題を未然に完璧に防いでしまったが故に
困りごとが起こらないのですから
周囲の人に何が起こっていたのかを理解してもらえないかもしれません。

私は村上春樹の「1Q84」に出てきた
「説明しなくちゃわからないってことは
 説明したってわからないってことだ」
と言う言葉に大きくうなづいたものですが
仕方ないことも世の中にはあるんです。
対象者の利益のために尽力するのが私の仕事であって
誰かに理解してもらうのが仕事ではないですから。

また
認知症のある方あるあるですが
新規事象への対応困難な故に
使い慣れているスプーンの方が良いと言うケースもよくあります。

スプーンを落とすことがなくなった
食べこぼしが激減した
という「事実」があるにもかかわらず
「(適合良好な)このスプーンは食べにくい」
と言いますし
その言葉を事実と照合せずに本人の希望だからと鵜呑みにして
「前のスプーンの方が良いのでは?」
と言ってくるスタッフが出てきたりもします。。。

スタッフには事実と照合することを促すために
「でも前のスプーンだと食事中に何回もスプーンを落としてたけど
このスプーンになってからは1回もスプーンを落としてない」
「前のスプーンでは食べこぼしが多かったけど
このスプーンになってからは食べこぼしは付着程度に過ぎない」
「本人には1ヶ月だけ試しに使ってみてと言ってる」
などと伝えるようにしています。

認知症のある方も
だんだんと新しいスプーンになじんでくるので
そうすれば「このスプーンは嫌」とは言わなくなるし
スタッフも疑問を呈することもなくなり
まるで最初からこのスプーンを使っていたかのように
当たり前になってきます。

そのためにも
私たちOTとしては、
本当に適合が最高なスプーンを
個々の方それぞれにオーダーメイドで作れるように
自身の技術を高めることと
知識のブラッシュアップを図ることが
OTの責務なんじゃないかなと考えています。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4521

DoとBe(優しくする ?優しくなる!)

認知症のある方への対応で
「優しくする」
「言動を否定しない」
「褒めてあげる」
等と言われています。

これらの常識化している対応について
何回も過去の記事にて疑問を提示してきました。

優しくするということは、優しくない ということです。
DoBeの違いです。

結果として優しくなるように
認知症のある方の状態がありありと実感を持って
わかるようになることの方が大切だと思う。

「大声を出す」「抵抗する」
というのは結果として起こっている表面的な事象に過ぎません。
表面的な事象に反映されている、なんとかしようとしている
その方の意図と能力がわかれば
結果として優しくなるし
否定できなくなるし
敬服したくなるし
少なくともキツい言い方は控えたくなる

認知症のある方は決して何もわからないわけではありません。

表面的に口先だけ、優しくしても、褒めてあげても
本心は伝わる
このサイトにお立ち寄りくださっている方なら
そういった実感をお持ちなのではないでしょうか。

本心として認知症のある方の努力と能力が実感できるようになるためには
知識をもとにした観察と洞察が必須です。
地道に努力を積み重ねれば誰でも実践できるようになります。

「あぁすればこうなる」式のマニュアルやハウツー以外の
思考をしたことがないと最初は大変に感じると思う。

「あなた、どうしてそんなに私のことがわかるの?」
「あんたが一番好きなんだよ」
そんな風に言われたり
認知症のある方が過去に信頼していた人と誤認されたり
他の人の前では見られないような能力を発揮する場面を共有できたり
そのような体験をしたことのある人はきっと私だけではないと思います。

ケアやリハの場面において
根底にどれだけ理解の実感があるのかということが
信頼関係に一番重要なんだとまさしく実感しています。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4619

良いものを後世に伝え残す

時代の先端をいくモノ
より本質に迫るモノは
それゆえに実はその時々には理解されづらかったりする

誰もが言葉にしている概念は
一つ前の時代の考え方だからこそ
誰もが言葉にできる

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問だから
常に更新、バージョンアップされている

より良いモノ
より本質に迫るモノが
時の流れによって淘汰され、生き残り、伝わっていく

それらは
流布している概念とは全く異なるので最初は理解されづらい
理解されづらいどころか否定され迫害される
それでも必ずより良いモノ、本質に迫るモノがとって変わっていく
のは歴史が証明している。
ガリレオ然り、小笠原登然り。。。

良いものを後世に伝え、残していく

仮に今、それらの努力がカタチとなって実を結ばなかったとしても
それらの努力が無駄になることなんて決してない。
と強く感じています。

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4493

「現場で本当に役立つ認知症研修会第2回」受付開始

「現場で本当に役立つ認知症研修会第2回」をオンラインで開催します。

作業療法士でなくても
学生さんでもどちらにお住まいの方でもご参加いただけます。

日時は
2022年5月14日(土)19:00〜20:30

テーマは
「認知症のある方への声かけの工夫〜眼からウロコの視点〜」

参加費は無料

事前申込制で
申込締切は4月30日ですが、
定員超過の場合には期日前でも申込を締切ますので
ご了承ください。

お申込は下記のURLにアクセスしてください。
https://forms.gle/HsStN3K2786zKAhD9

研修会の詳細は こちら をご参照ください。

お問い合わせは こちら からどうぞ。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4611

能力発揮は状況によりけり

能力発揮は状況によりけり
だから、場面設定の工夫や介助の仕方、声かけに工夫が必要なのであって
決して介助者の思う通りに認知症のある方を動かすためではありません。

たとえば
私は、ちぎり絵では和紙をタオルの上に1枚ずつあらかじめ置く
という工夫をしています。

ほんの一手間ですが
このような場面設定をすることで
1)手指の巧緻性が低下している方でも
  和紙を1枚ずつつまみ上げることが容易となる
2)和紙の微妙な色合いの変化を明確に認識しやすくなる
というメリットがあります。

和紙を缶の中に入れたままで提供するだけでは
ちぎり絵を行うことができない方もいます。

場面設定がその方に適切かどうかを検討・吟味することなく
「ちぎり絵の遂行不可」という判断
「和紙を1枚ずつ取って」という指示理解不可という判断
は、拙速であり、間違いであり、大変大きな問題です。

こちらをご覧になれば、お分かりのとおり
ナスの右側は濃い色の和紙を貼り
左側は明るい色の和紙を貼っています。
同じ左側でも、上の方は濃く、下の方は薄い色を選んでいます。

ナスを立体的に光と影や色の微妙な違いや濃淡を意識して
貼っていることが窺えます。

これほどの能力を発揮できるか、できないかが
和紙の提供の仕方という場面設定によって異なってくる。

能力は状況によりけり発揮される所以であり
場面設定の工夫が必要な所以でもあります。

場面設定の工夫次第で
認知機能障害が低下したとしても楽しめるように
能力と特性の発揮を援助することができるかできないかに関わってきます。

関連してこちらの記事もご参照ください。

「ちぎり絵の工夫(1)タオル」
「塗り絵」と「ちぎり絵」の違い:共通点
「塗り絵」と「ちぎり絵」の違い

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4607

リハサマリーの工夫

記憶の連続性の低下が見落とされている

当院に入院される方は
施設やご自宅からといろいろです。

ご自宅から入院される方の場合では
ケアマネさんは、ほぼ100%に近い形で在宅サマリーを送ってくれます。
何らかの理由で他の医療機関に入院されていた方の場合では
病院のリハスタッフからは、どの病院であっても
ほぼ100%、サマリーを送ってもらえます。
激務の中、本当に頭が下がります。
 
一方、施設から入所される方の場合では
老健から来られる方でサマリーをいただける場合は少ないのが現状です。
病状改善した患者さんが当院から老健に入所されるにあたって、
こちらからサマリーを送ってもお礼状が来なかったり
その老健から他の方が当院に入院される時に、
リハサマリーが送られてこないこともあります。。。
まぁ、そういうところなんだと思うだけですけど。

でも、サマリーを送ってくださる老健も少数ながらちゃんとあって
本当にありがたい限りです。

そんなわけで
私も可能な限り、リハサマリーを送るようにしています。

病状改善し、当院を退院する時には
退院先が老健であれ、特養であれ、グループホームであれ、在宅であれ
退院先を問わずにサマリーを記載します。

一方、転倒骨折やCVA発症などで他院に転院することもあります。
そのような時にもリハサマリーを送っています。

転倒骨折であれば、骨折前の歩容や移動能力については
転院先のリハスタッフが欲しい情報の一つだと思いますし
転院先での認知症のある方へのリハが少しでも進展するように
どのような声かけであれば理解しやすいのか
混乱せずに済むように、回避すべき場面はどんな場面か
会話の糸口やAct.の参考になるように、
その方が好きなこと、若い頃の職業や趣味、得意なことや好きな歌や歌手名を伝えたり
こちらでの実践や対応の工夫を記載するようにしています。

また、リハサマリーを受け取った時にちょっとした工夫もしています。
お礼状をすぐに出すのではなくて、1週間くらい経ってから
直近のご様子も含めて伝えるようにしています。

私だったら、元気かな?頑張っているかな?と心配だし
そんなコメントをもらえたら、やっぱり嬉しいですし。

専門職がどんどん増え、対象者が利用するサービスが多様化している中にあって
連携のキーワードの一つが情報共有だと思います。

でも、連携のための連携にならないように
対象者のリハが進展するようにという本来の目的を忘れないように
気をつけています。

関連記事
「伝達するときは具体的に/意味も添えて」もご参照ください。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4605

「あそこに行く!」

転倒リスクの高い方が
食堂からパントリーを指さして
「あそこに行く!」と言って立ち上がろうとしています。

(あそこに行って何をしたいんですか?)と尋ねたら
「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」と答えました。

パントリーには食べおわった食器が並んでいます。
パントリーの向こうは廊下です。

さて
あなただったら、どう対応しますか?

答えは
今週の土曜日、2月19日に掲載します。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4600

概念の明確な理解

認知症のある方の
生活障害やBPSDといった困りごとの改善や
能力と特性の発揮のためには
評価、アセスメント、状態把握ができることが重要です。

評価、アセスメント、状態把握とは
決して、検査やバッテリーをとることではありません。
その時その状況を事実に即して、観察・洞察できることを意味しています。

観察・洞察というと
客観的ではない、科学的ではない、根拠に乏しい
といった批判もあるようですが
批判されるべきは、未熟な観察・洞察であって
観察・洞察そのものではありません。

観察の解像度を上げるためには
知識の習得が必要です。

知識の習得とは
単に知っている。ということではありません。

概念を明確に理解することです。

曖昧な理解しかできないから観察し損ねている人がたくさんいます。
その代表例が、「短期記憶」です。
この言葉、概念の誤認と誤用については
「現場で役立つ認知症研修会ー観察力を磨く」において説明します。

他にも、遂行機能障害、構成障害という
認知症のある方の生活障害に大きく関わっている障害について
言葉は学校で聞いたことはあっても
意味を明確に説明できない人はたくさんいます。

「わかっちゃいるけど言葉にできない」
と言う人もたくさんいますが
本当にわかっていれば明確に言語化できます。

  明確な言語化を突き詰めた先に
  どうしても言葉にできない領域がありますが
  突き詰めてもいない人にはそこまで到達できません。

遂行機能障害や構成障害とは何ぞや
という言葉の意味を言語化できないから観察できないのです。
観察できないから、当然、障害も能力も洞察できない。
結果、検査やバッテリーを活用するのではなく
検査やバッテリーにすがるしかなくなってしまう。。。
そのような人には観察・洞察とはどういうことか見当もつかないことだから、
観察・洞察を批判する。。。
最も大きな瑕疵は、自身が観察し損なっていることの自覚がないことです。

  本当は無自覚に意識下では、気がついていると思う。
  でも自覚してしまうと困るのは自身だから
  困らないように自覚することを回避しているんじゃないかな。。。?

けれど
観察し損なっているという自覚さえ芽生えれば
観察できるようになるチャンスがある
ということでもあります。

答えは常に目の前にあります。

そのためには
概念を明確に理解することが最初の一歩です。

ピンチはチャンス

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4595