Tag: リハビリテーション

ヘンな言葉「なじみの関係」2

リハやケアの分野で
常識のように言われ為されていることでも
吟味・検討すると、とてもおかしなことがあると記載しました。

その一つが
「なじみの関係」

認知症のある方を担当したら
毎朝部屋を訪問して挨拶に行く。とか
信頼関係を作ってからリハをする。とか

でも
私たちは毎朝顔を合わせているから
なじみの関係だから
相手を信頼しているわけではありません。

相手の言動や志など
信頼に値すると感じた何かに共鳴して信頼するわけで。

つまり、信頼関係は結果としてできるので
結果と目的を混同させるのは
現場あるあるですが、やっちゃいけないことでもあります。

ただし
本当はおかしなことなのに
ある分野で長く言い伝えられてしまっているには
相応の理由があるとも考えています。

その多くは、おそらく
部分的に効果があった体験がそれなりの数の蓄積があり
その体験が意味する本当の概念を知らずにいたために
誤認が起こってしまった。と考えています。

その概念の誤認を説きおこし
正確な知識をもとに本当の概念を明示することが必要
だと考えています。

そこで本題

「なじみの関係」は「再認+プラスの感情記憶」

この人といると
楽しい・安心できる・癒される。。。など
プラスの感情が湧き起こる。
感情記憶は残るし
「誰か」ということを再生できなくても
顔を見たり、名前を言われたりすれば
「この人だ!」と再認することができる。

人によってプラスの感情が湧き起こりやすい方向は異なります。
Aさんは楽しさに
Bさんは安心に
Cさんは癒しに。。。

再認しやすいきっかけは
人により時期により状況によっても異なります。

目の前にいる認知症のある方が
どんなコトにマイナスの感情を抱きやすく
どんなコトにプラスの感情を抱きやすいのか
評価・アセスメント・状態把握することが最優先で行うべきことであると考えています。

毎朝挨拶をしようがしまいが、本当は無関係で
たまたま毎朝の挨拶がその時の相手のキモだった
そしてそういうケースがある程度あった。。。ということだったのではないかしら?

だって
重度の認知症のある方でも
礼節保持されている方はとても多いし
それなのに認知症というだけで、ぞんざいな対応をするスタッフもまだまだいるし

そもそも
テレビで何らかの事件が起こった時に
被害者であれ加害者であれ
「ちゃんと挨拶する人」というコメントが必ずと言っていいほど流れるのは
それだけ私たちの社会の根底に「挨拶」が大切とすり込まれているのではないかしら?

だから
余計に
目の前にいる方にどうしたら良いのか
何もわからない、できない時に
すぐにできることとして「挨拶」が取り上げられてしまった

そして
部分的にでも効果的な体験の蓄積があり
現場では効果的な対応が切実に求められていたために
概念と実践のすり合わせを行う過程で「間に合わせ」が生じてしまった。。。
のではないかしら?

ハインリッヒの法則は
事故だけに限らずに適用されるように感じています。

事故は起きる必然がある
だからこそ、予防できる事故もある

ヘンな常識は伝わる必然がある
だからこそ、バージョンアップできる
正当な常識として生まれ変わらせられるものもある
そう考えています。

 

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偉大なるマンネリの効用

作業に語らせる:輪くさり

マンネリというと
ネガティブなイメージがつきまといます。

本来、マンネリという状態には
プラスもマイナスの意味合いもありません。
私たちが勝手にマンネリは良くないと思い込んでいるだけです。

認知症のある方には
同じことを同じように繰り返すことで
安心して取り組んでいただける場合が多々あります。

感情記憶は蓄積される
再認ができる方は大勢います。

認知症のある方のこういった特性は
プラスの方向にもマイナスの方向にも作用します。

「できた」
「面白い」
「懐かしい」
ポジティブな感情は蓄積されるし
できた体験を通してポジティブな感情を想起することもあります。

「できなかった」
「困った」
「わからなかった」
ネガティブな感情は蓄積されるし
できない体験を通してネガティブな感情を想起することもあります。

重度の認知症のある方でも
だからこそ
その方の特性と能力に合致したActivtyを行うときには
ものすごく集中して夢中になって行っています。

「少し、休憩しましょうか?」
と言っても耳に入らないくらい。。。
そういう体験をしたことのある人は
きっとたくさんいるのではないでしょうか?

もちろん時間感覚の低下といった要素もあるでしょうけれど
それ以上に、「自分が自分で在る」ことを
体験できているという実感を欲しているのだと思います。

マンネリを良い方向で活用する

根拠なく長年言われているから行っていること
河野大臣は深夜の会見を「前例主義」と言っていましたが
リハやケアの分野でも悪しき前例主義はたくさんあります。
それらをきちんと吟味・検討すると
思いも掛けないブレークスルーの道が開けます。

そして
その道は、対象者の状態を詳細に把握する
ということと決して無関係ではありません。

 

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いろいろなことをすると良い刺激になる?

作業に語らせる:輪くさり

ヒポクラテスの誓いは
「まず第一に患者を傷つけないこと」
と言う言葉から始まると聞いたことがあります。

私は医師ではありませんが
対人援助職として、この言葉は肝に銘じています。

良いことをしようとするよりも
悪いことをしないようにする

認知症のある方に対して
多様なActivityを提供することには疑問を抱いています。

MCIの方には通用することもあるかもしれませんが
重度になればなるほど現実には難しい。。。
その方ができることは限定的になってきますし
日々暮らすだけでその都度一生懸命どうしようかと考えています。

「私、カラオケは大好きよ。
だって、考えなくていいんだもの。」

この言葉を聞いた時の衝撃を忘れることはありません。

考えなくても楽しめること
新しいことを覚えなくてもできること
嫌いなことや苦手なことを頑張らなくてもいいこと

余暇活動は楽しんでリフレッシュできることの方が大事だと思いますし
治療的な意味合いを考えても
失われてしまった能力は努力してもできるようにはならないのだから
潜在している能力や不合理な現れに反映されている能力を見出し
より合理的に発揮してもらえるような援助を考えることの方が大事だと思います。

普通に考えて、大の大人が
文系の人に「数学は論理的思考のトレーニングに役立つから毎日やりなさい」
理系の人に「漢文は文学的素養を高めるために役立つから毎日やりなさい」
と言われてできますか?

子どもは自分自身でも何が適しているのか分からないから
さまざまな体験をすることに意義があるし
ネガティブな体験からもポジティブな体験からも学んで
自身の成長に役立てるようにする意義もあると思います。

でも
高齢者は?
まして重度の認知症のある方は?

説明された工程を理解し、覚えて、実践する
新しいことを覚えることは
近時記憶障害のある方にとって最も苦手なことです。
まして、自分の不得意な分野のことは。

私たちが認知症のある方に接する以前に
既に認知症のある方は暮らしの場面で
さまざまな失敗体験・喪失体験を重ねています。

余暇活動において
まして治療的な場面において
余分な失敗体験・苦手な体験をすることの意義が
私には理解できません。

目の前にいる方には
長年の人生経験で培ってきた特性がある
たとえ重度の方でも生きている限りできることがある。

いろいろなことを提供する
と言うことは、つまり、そのかたの特性も能力も把握できていないから
という側面があるのではないでしょうか?

認知症のある方が
今、楽しめること、特性と能力を発揮できること
それが何なのかを具体的に提供できることが
本当の作業療法士なのだと考えています。

 

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ヘンな言葉「なじみの関係」

いまだに
「毎朝、挨拶に行って関係性を作る」
「なじみの関係を作る」
「信頼関係ができてからリハをする」
ということが言われているようですが。。。

おかしな言葉です。

第一に、時間がもったいないです。

認知症のある高齢者は
明日が確実にあるとは限りません。
基礎疾患を抱えている場合も少なくないし
突発的な体調変化は常に起こり得ます。

第二に
看護介護職員は
なじみの関係になっていようがいまいが
毎日のADLの援助をしなくてはいけません。
最初から大きな除外要件があるということは本質的ではないと考えています。

そしてこの言葉の最もヘンなことは
結果として起こることと目的を取り違えているということです。

普通に考えて
あなたは毎日会っている同僚や先輩や他職種をそれだけの理由で信頼していますか?
信頼している同僚や先輩や他職種の人は
あなたが信頼に足ると感じる何かがあるから信頼しているのではないですか?
毎日顔を合わせても信頼できない人っているでしょう?
言葉にしないだけで。

信頼関係は結果としてできる

大切なことは
自分が相手から信頼されるに足る人だと感じてもらえるような
援助ができることなのではないでしょうか。
その積み重ねで信頼してもらえる。

信頼してもらいたいのなら
まずは、こちらが相手を信頼しなければ。

どこかで
認知症のある方の能力を軽んじているから
毎日顔を合わせて挨拶するなんて発想を実行できるんじゃないかな?

「なじみの関係」という言葉から私が感じるのは
認知症のある方の能力を把握できていないんじゃないかな?
把握する術を知らないんじゃないかな?
ということです。
そんな方にオススメします。

「OT臨地実習ルートマップ」メジカルビュー社

この本の「認知症」のページは私が担当しました。
評価の進め方について記載してあります。
笑顔で「なじみの関係を作る」なと言いつつも
心のどこかで違和感を感じて
でも他にどうしようもないから違和感にフタをするしかなくて
そんな状況から抜け出したいと思っている人は読んでみてください。

そんなことはない!大丈夫!という人も
日本の各分野の第一人者がわかりやすく執筆しているので
若手作業療法士にも各分野の入門編としてオススメします。
本来は学生向けに企画された本ですが
いろいろな疾患・障害のある方を前にして
悩むことの多い若手作業療法士にとっても
実践的で臨床に役立つ良い本だと思います。

 

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ヘンな言葉「認知だから」

「認知だから」「認知の人」「認知のある方」

ギョーカイの人なら
あぁ、認知症のある方のことね。ってすぐにわかると思いますが
この言葉ってすごく変です。

実際、疑問に思われる一般の方もいました。
公民館に出向いて地域住民の方に
「認知症予防」のお話をした時のことです。
終わってからある人に声をかけられました。

「あの。。。ちょっといいですか?
今日の講演のことじゃないんですけど気になることがあって」

「『認知だから』『認知の人』って言葉をよく聞くんですけど
あれっておかしな言葉ですよね?」

その通りです。
日本語として成り立たない。
認知のある方って、認知があっていいじゃないですか。
認知、なければ困ります。

私はいつも
「認知症のある方」という言葉を使っています。
その時もいつもと同じように「認知症のある方」という言葉を使いました。
だから声をかけてくださったのだと思います。

「認知」
周囲が言っているから使っている
略して言うと専門家っぽく聞こえるから使う
と思っているのかな?

それこそ、メタ認知の観点からすれば
日本語として成り立たない言葉を使える人は
流行には敏感とか
周囲の状況に染まりやすいかもしれないけれど
物事をきちんと吟味・検討しているかどうかは別問題
ということを自分で世界に表明しているとも言えます。

気にしない人は全然気にしないでしょうけれど
きちんと検討している人からしたら
信頼の対象外と認識されてしまう恐れだってあります。

何よりも
末梢からの感覚・運動刺激の入力をコントロールすることで
中枢の機能の変革を仕事とするリハスタッフは
もっと言葉を吟味して扱う必要があるのではないでしょうか?

言葉を吟味して適切に扱うというトレーニングをすることで
普段のリハ場面でも場面設定や自らの言動に
もっとsensitiveになれる
もっと広く深く鋭敏になれるのではないでしょうか。

 

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ヘンな言葉

認知症のある方への対応について
よくよく考えるとすごくおかしいのに
昔から言われているからと
吟味検討もせずに
そのまま伝えられている言葉がいくつもあります。

言葉は概念を現します。

適切に言葉を扱えないということは
適切に概念を扱えていない
つまり実践の根幹を成す概念が疎かになっているということは
実践そのものが疑われてしまいかねないということを意味しています。

実際に
言葉の不適切さについて疑問を呈した方もいます。
(後述します)

ご家族の中には
一般企業で丁寧にお仕事に向き合っていられる方も大勢いらっしゃいます。
論理的思考についてものすごくトレーニングされている方も大勢いらっしゃいます。

面と向かっては言わないだけで
ケアやリハで飛び交う言葉に疑問を抱いている方だっていらっしゃるのではないでしょうか?

 

 

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Activityと構成障害「工夫の考え方2」

作業に語らせる:輪くさり

もう一つの工夫の考え方です。

輪くさりではなくて
違うActivityを検討する場合

輪っか単体を作ることはできる。
ということは
1つの対象で
1つの工程であれば
平面から立体を形作ることはできる
ということを意味します。

だとしたら
できることはたくさんあります。

輪っか単体を
端と端をきちんと重ねてのり付けできるということは
両手の協応が可能ということを意味します。

例えば
あんでるせん手芸の紙巻き作り
最初にまとめて紙巻を作り
次に出来上がった紙巻をティッシュペーパーの空き箱につけて
小物入れを作ります。

冒頭の写真のように
なんとか輪くさりを作ろうとこれだけ試行錯誤した、
試行錯誤できるということは
それだけ集中できるということを表しています。

案の定、紙巻を上手に集中して作り続けることができました。

いろいろなActivityを知っていることは悪いことではありません。
ですが、Activityに対象者を合わせるのではなくて
対象者にActivityを合わせるのです。

対象者の良いところを良い方向に発揮できるように
Activityの場面設定を工夫したり
Activityの種目を選択します。

それぞれのActivityには、遂行に必要なActivityそのものが要求する能力があります。
この段階では、要求される能力にプラスもマイナスも意味づけはありません。

ところが、今、目の前にいる対象者にとって
選択されたActivityはプラスにもマイナスにも変わり得ます。

誰にでもいつでも「使える」Activity
万人に有効なActivityなどあり得ません。

マイナスに作用することがないように
できればプラスに作用するように
どのように考え、どのように工夫するのか
きっちりと言語化して説明できることと
(少なくとも自分の中で言語化できていること)
きっちりと実行して結果を出せることが
とりわけ、作業療法士には求められていると感じています。

作業療法士で他職種への説明の必要性を唱える人は多いけど
結果を出す、実行できることの重要性を強調する人が少ないのが
私にしては本当に不思議なことですが。。。

なぜなら
ピンチはチャンス
結果が出せない時こそ
出せない必然がある。

自分の認識をもう一段深めたり広げたりするチャンス
自分に必要な知識と技術を習得するチャンスでもあるからです。

 

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Activityと構成障害「工夫の考え方1」

作業に語らせる:輪くさり

この方の作り方から
輪っか単体を作ることはできるけど
「輪の中に紙を通す」ことができない
ということがわかりました。

机の上という平面で
立体と平面の異なる2つの対象の操作が難しい

構成障害があるから
隣で見て真似をするということも難しい

もしも
声かけや場面設定という介助の工夫を考えるならば
「優しく声をかける」「何回も繰り返し説明する」ではなくて

こんな風に
輪くさりを棒にぶら下げて
「立体」であることを「空間の中で」強調して
視覚的に提示します。

その上で
「輪っかの真ん中に通して」という声かけをします。
紙を通すことができれば
輪っか単体を作ることはできます。

声かけだけに頼らない
対象者にとっての「対象」をより明確に視覚的に認識しやすいように
「場面」という環境設定を工夫します。
声かけは端的に。

もちろん
このようなケースは臨床あるある。だとは思いますが
人により時期により、状態像はさまざまです。
この方の場合にはこの方法でできるようになった
できるようになる環境設定への考え方を説明しました。

目の前の方のやり方、でき方、できなさを
きちんと観察することから始めます。

きちんと観察する。。。というのは
言語化できるくらいに観察する。ということです。

その言語化された表現だけに絞って
その通りに実行して再現できるかどうかを自己確認します。
言語化された表現だけに従って実行した時に再現できなければ
その部分が観察し損ねた部分です。
観察力を磨こうとする人におすすめする方法です。
この方法はActivityはもちろんADLなどすべての行為に応用できます。

では、次の記事で
もう一つの工夫。
輪くさり以外の課題に変える場合について記載します。

 

 

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