Tag: コミュニケーション
古今東西、当たり前のことだと思いますが
私たちは自分にわかることしか観察できない。
その時の自分にわからないことは
見れども観えず。になってしまっています。
そこからスタートするしかない。
そこからスタートすれば
今まで観えていなかったコトが何なのか
注意を向けることができるようになります。
注意を向けることができれば観察することができるようになります。
その過程を繰り返すしかない。
ただし
ここは誤解されていることが多いようですが
注意を向けようと意思すればできるようになるわけではなくて
その「意思」を具体化する「行動」として
目標設定の基準と条件の明確化をするという「自分の能力」を発揮することによって
注意を向けるポイントが明確化されるのです。
意思しているだけでは変わらない
「意思」を「行動」として表現することが必要なのです。
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目標設定のトレーニング過程において
概念の明確な理解が要求されます。
実践において
すりかえられがち、混同されがちな
目標と目的と方法
言葉の使い方が曖昧ということは
概念の理解が曖昧ということを示しています。
自分コトとして
概念の区分けができるようになると
目標設定において
実は重要な臨床能力というものは
対象者の能力を見いだすというセラピストの能力である
ということが明確に理解できるようになってきます。
最初は大雑把にしか能力が把握できないセラピストでも
目標を目標として設定する過程において
否応もなく細分化された能力の把握を要求されるので
自分で自分をトレーニングするようになってきます。
もしかしたら
世の中には天才的にパッと対象者の能力を
感覚的に明確に把握できて
常に適切に対応することが可能なセラピストも
いるのかもしれません。
そういう人には関係ない話ですが
目の前にいる方にちゃんと役立てるようになりたい
少なくとも不毛なことはしないですむようになりたい
そう願っていた私にとっては切実な問題でした。
能力を細かく明確に把握することができる
ということと
目標を適切に設定できる
ということは
別の問題ではなく相当深いところで関連し合っている。
なぜなら
目標というのは行動のカタチで表される
行動というのは生きている人にしかできない
このことの意味に気がついた時には身震いしました。
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たとえば
リハスタッフなら
脳血管障害後遺症片麻痺のある方が
歩くのにどれだけ頑張って歩いているか
手を動かすのにどれだけ頑張っているか
トイレ動作やお食事するのにどれだけ頑張っているのか
よーくわかると思う。
それとまったく同じで
私たちにしてみれば
ごく簡単に思える手作業が
認知症のある方にしてみたら
どれだけ頑張って集中しているのか
よーくわかると思う。
ある場面に現れている
その方の障害も能力も特性もわかるということ
何が起こっているのか、わかるということ
それが大事で必要なこと
そうすれば、どうしたらいいのかがわかるもの。
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私たちの仕事は技術職だから
突き詰めていくと言語化できない部分がある。
でも
だからといって言語化をあきらめてはいけない
言語化できない領域は言語化の努力の先にあるものだと思う。
たくさんの先人の努力の積み重ねによって現在があるのだから
それは後世を支える人たちに伝えていきたいと思うし
その義務もあると考えています。
言語化できることは言語化への努力をする。
それでもなお、言語化できない部分は残る。
その時その場のその関係性において
言葉にならないけれど
明確に伝わるものがある。
時には
手を通して
対象を通して
すごく難しくてしんどいけど
そこに「いる」だけでも
かつて河合隼雄が
「そうするしかできなかったからそうした」と語っていたことがありますが
誰にでもそういう時期があると思う。
それしかできない
でもその時々でできることを積み上げていくと
次の扉が見えてくる。
その道を一足飛びにスキップすることはできなくても。
非言語のパワーと伝達の一端を知っているからこそ
言語化への努力の重要性がわかるし
その過程を通して非言語に巻き込まれないでいることを
鍛錬されているようにも感じることがあります。
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前の記事「こそあど言葉とAct.説明」を読んでくださった方の中には
「あ!」と気づかれた方もいると思います。
ADL介助の場面でも同じコトが違うカタチで現れている
そうなんです。
Activity提供、何か「する」コトに関して
言語理解と構成障害の有無とその程度が関与しているならば
ADL場面にだって関与しないはずがありません。
認知症=記憶障害。だけではないのです。
認知症=快・不快しかわからない。わけではないのです。
たとえば
洋服の着脱が困難になってしまった方に介助する時に
どんな声かけが適切なのか
具体的に検討されているのでしょうか?
認知症
=わからない
=仕方ない
=早く着替えが終わるように
=優しく、怒らせないように
というような方法論しか検討されてこなかったのではないでしょうか。
案外、「こそあど言葉」を意図せずに無自覚のうちに
多用している私たちのせいで
認知症のある方が余分に混乱している可能性はないでしょうか。
だとしたら
「こそあど言葉」「名詞」「動詞」を意図的に自覚的に選択的に
私たちが扱えるようになったとしたら
認知症のある方の状況が変わる可能性があるのではないでしょうか。
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Act.の説明をする時に
「こうして、次にこうやって」
「それをこっちにもってきて」
かつて、私もそのような説明をしていました (^^;
いわゆる、「こそあど言葉」
認知症のある方の
言語理解力と構成能力が保たれていると
「こそあど言葉」を使った説明をしても理解してもらえますが
言語理解力や構成能力が低下してくると
「こそあど言葉」を使った説明では
認知症のある方がAct.を遂行することは余計に難しくなります。
私たちが無自覚に使っている、「こそあど言葉」を
自覚的に、明確に、名詞と動詞で表現するように心がけると
動作的介助なしに声かけだけでできる部分がグンと増えたりします。
裏を返せば
作業療法士が「こそあど言葉」を使わないで説明できる。ということは
工程を明確に理解できている。ということを示してもいるのです。
また、逆に
ある種の認知症(たとえば、意味性認知症)のある方の場合には
意図的に「こそあど言葉」を使うこともあります。
物品名詞は「これ」「あれ」「それ」
そして動詞を明確に端的に使う。
つまり
作業療法士が意図的に選択的に言葉を扱えるということは
認知症のある方の障害と能力を把握していて
目の前に起こっている事象の意味がわかる
ということなんです。
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あんまり言語化されていないと思いますが
認知症のある方にActivityを提供する時に
工程を説明します。
実はその時にポイントがあります。
それは
視覚的な情報を中心にするのか
聴覚的な情報を中心にするのか
運動的な情報を中心にするのか
説明の力点をどの情報を主体として提供するのか
ということです。
どの感覚が理解しやすいのか
こちらが把握できていれば
Act.の場面でその都度説明したり声かけをしたりお手伝いをしたり
という必要がほとんど少なくなって
認知症のある方自身で援助を受けることがほとんどない状態で
Act.に取り組むことができるようになります。
えてして
Act.の場面において
対人援助職たる私たちは
「援助を受けながらでも〇〇できる」ことを善しとしがちですが
認知症のある方にとって
〇〇という作業をしながら、もう一方で他者の説明を聞いて理解して行動修正する
というような同時並行課題は負担の大きいものです。
他職種の人たちに
「これならカンタンだからできるんじゃない?」と言われることもよくありますが
認知症のある方の近時記憶障害、構成障害、遂行機能障害などの有無と
その程度を把握していると、とてもそんな風には思えません。
必死になって一生懸命やろうと向き合っているのがよく伝わってきます。
たとえ
援助を受けながらでも、何か作り上げることができたとしても
それってどうなんだろう?
作っている最中の手応え、充実感、そんな感情を味わうことができたのだろうか?
私の脳が認知症のある方の手を動かさせているような状態は、私は絶対イヤです。
認知症のある方の脳と、認知症のある方の手と、対象たるAct.とが
たとえ、どんなに小さくてもしっかりと1つのループを作っているような場
そういう場を作り上げるためには、説明ってとても大切。
どの感覚を主体として説明するのか
それは、その人がどの感覚を理解しやすいのか
その評価を根拠に判断しています。
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POST 理学療法士作業療法士言語聴覚士のためのリハビリ情報サイトさんに
昨日、私の記事が掲載されました。
「認知症の方のリハビリ室への誘導のしかた」
「作業療法ジャーナル」vol.51No2にも一部掲載されている内容です。
リハ室に来てしまえば
ニコニコして楽しそうに過ごされるけど
誘導の時に拒否するという認知症のある方は少なくありません。
それは誘導の仕方が「態度として悪い」のではなくて
適切ではない。だけなのです。
リハ室に行ってしまえば楽しまれるんだから
誘導が多少強引だっていいんじゃない?とは思いませんよね。
デイサービスなどにも
行ってしまえば楽しく過ごされるのに
行くまでが大変、お迎えが大変。というケースは案外多いと思います。
そういう場合にも応用できるかもしれません。
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