死人テストとは
1965年に行動分析学のOgden Lindsley によって開発された
「死人にできることは行動ではない」
という行動の定義のことです。
行動とは
状態ではないし
否定形ではなく肯定形で表されるということを意味します。
逆に言えば
肯定のカタチでの世界への働きかけ・意思表明=生きる
ということです。
雷に打たれたような
とは、まさにこういう状態を言うのか
というような気持ちになりました。
死人テストってスゴい。
端的な言葉で奥深い概念を明確に示しています。
3月 29 2017
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3月 28 2017
認知症のある方は
失われた能力をどんなにトレーニングしても再習得することはできない。
でも、埋もれていて表面化していない能力を見いだしてもらえれば
合理的に発揮できるように再習得することは可能です。
だから
リハやケアの分野において
生活障害やBPSDの改善に関して
能力を見いだすということがとても重要なポイントになってきます。
「認知症があってもできることはある」
と旗を振る人が増えてきたのは良いことだと思います。
でも、旗を振ってるだけでは個々の現実を善くしていくことはできない。
「意思」していれば現実が変わるわけではない
「意思」を行動のカタチで表現することが大切
ということは前の記事で記載した通りです。
「できることはある」ならば
今、どんな場面でどんな風にどのくらいのどういう能力が
現れているのか、明確に把握できるようになること
それこそが求められていることなのだと考えています。
そして
能力を見いだす
とは、一見綺麗で簡単な言葉ですが
おいそれとできることではありません。
「観測できれば干渉することができる
干渉することができれば制御することもできる
観測できないものには手の出しようがない」
とは、魔法少女☆まどかマギカでキュウべえのセリフですが
まさに。まさに。
見れども観えず。の状態から
観える。ようになるために
実は目標設定のトレーニングという
一見全然関係のないように思える事柄が非常に深く関与しているのです。
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3月 27 2017
古今東西、当たり前のことだと思いますが
私たちは自分にわかることしか観察できない。
その時の自分にわからないことは
見れども観えず。になってしまっています。
そこからスタートするしかない。
そこからスタートすれば
今まで観えていなかったコトが何なのか
注意を向けることができるようになります。
注意を向けることができれば観察することができるようになります。
その過程を繰り返すしかない。
ただし
ここは誤解されていることが多いようですが
注意を向けようと意思すればできるようになるわけではなくて
その「意思」を具体化する「行動」として
目標設定の基準と条件の明確化をするという「自分の能力」を発揮することによって
注意を向けるポイントが明確化されるのです。
意思しているだけでは変わらない
「意思」を「行動」として表現することが必要なのです。
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3月 23 2017
目標設定のトレーニング過程において
概念の明確な理解が要求されます。
実践において
すりかえられがち、混同されがちな
目標と目的と方法
言葉の使い方が曖昧ということは
概念の理解が曖昧ということを示しています。
自分コトとして
概念の区分けができるようになると
目標設定において
実は重要な臨床能力というものは
対象者の能力を見いだすというセラピストの能力である
ということが明確に理解できるようになってきます。
最初は大雑把にしか能力が把握できないセラピストでも
目標を目標として設定する過程において
否応もなく細分化された能力の把握を要求されるので
自分で自分をトレーニングするようになってきます。
もしかしたら
世の中には天才的にパッと対象者の能力を
感覚的に明確に把握できて
常に適切に対応することが可能なセラピストも
いるのかもしれません。
そういう人には関係ない話ですが
目の前にいる方にちゃんと役立てるようになりたい
少なくとも不毛なことはしないですむようになりたい
そう願っていた私にとっては切実な問題でした。
能力を細かく明確に把握することができる
ということと
目標を適切に設定できる
ということは
別の問題ではなく相当深いところで関連し合っている。
なぜなら
目標というのは行動のカタチで表される
行動というのは生きている人にしかできない
このことの意味に気がついた時には身震いしました。
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3月 08 2017
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3月 03 2017
私たちの仕事は技術職だから
突き詰めていくと言語化できない部分がある。
でも
だからといって言語化をあきらめてはいけない
言語化できない領域は言語化の努力の先にあるものだと思う。
たくさんの先人の努力の積み重ねによって現在があるのだから
それは後世を支える人たちに伝えていきたいと思うし
その義務もあると考えています。
言語化できることは言語化への努力をする。
それでもなお、言語化できない部分は残る。
その時その場のその関係性において
言葉にならないけれど
明確に伝わるものがある。
時には
手を通して
対象を通して
すごく難しくてしんどいけど
そこに「いる」だけでも
かつて河合隼雄が
「そうするしかできなかったからそうした」と語っていたことがありますが
誰にでもそういう時期があると思う。
それしかできない
でもその時々でできることを積み上げていくと
次の扉が見えてくる。
その道を一足飛びにスキップすることはできなくても。
非言語のパワーと伝達の一端を知っているからこそ
言語化への努力の重要性がわかるし
その過程を通して非言語に巻き込まれないでいることを
鍛錬されているようにも感じることがあります。
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3月 01 2017
前の記事「こそあど言葉とAct.説明」を読んでくださった方の中には
「あ!」と気づかれた方もいると思います。
ADL介助の場面でも同じコトが違うカタチで現れている
そうなんです。
Activity提供、何か「する」コトに関して
言語理解と構成障害の有無とその程度が関与しているならば
ADL場面にだって関与しないはずがありません。
認知症=記憶障害。だけではないのです。
認知症=快・不快しかわからない。わけではないのです。
たとえば
洋服の着脱が困難になってしまった方に介助する時に
どんな声かけが適切なのか
具体的に検討されているのでしょうか?
認知症
=わからない
=仕方ない
=早く着替えが終わるように
=優しく、怒らせないように
というような方法論しか検討されてこなかったのではないでしょうか。
案外、「こそあど言葉」を意図せずに無自覚のうちに
多用している私たちのせいで
認知症のある方が余分に混乱している可能性はないでしょうか。
だとしたら
「こそあど言葉」「名詞」「動詞」を意図的に自覚的に選択的に
私たちが扱えるようになったとしたら
認知症のある方の状況が変わる可能性があるのではないでしょうか。
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2月 28 2017
Act.の説明をする時に
「こうして、次にこうやって」
「それをこっちにもってきて」
かつて、私もそのような説明をしていました (^^;
いわゆる、「こそあど言葉」
認知症のある方の
言語理解力と構成能力が保たれていると
「こそあど言葉」を使った説明をしても理解してもらえますが
言語理解力や構成能力が低下してくると
「こそあど言葉」を使った説明では
認知症のある方がAct.を遂行することは余計に難しくなります。
私たちが無自覚に使っている、「こそあど言葉」を
自覚的に、明確に、名詞と動詞で表現するように心がけると
動作的介助なしに声かけだけでできる部分がグンと増えたりします。
裏を返せば
作業療法士が「こそあど言葉」を使わないで説明できる。ということは
工程を明確に理解できている。ということを示してもいるのです。
また、逆に
ある種の認知症(たとえば、意味性認知症)のある方の場合には
意図的に「こそあど言葉」を使うこともあります。
物品名詞は「これ」「あれ」「それ」
そして動詞を明確に端的に使う。
つまり
作業療法士が意図的に選択的に言葉を扱えるということは
認知症のある方の障害と能力を把握していて
目の前に起こっている事象の意味がわかる
ということなんです。
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