Tag: コミュニケーション

嬉しい。。。

もしも
私の話を聴いて
「私も頑張ろう!」
「明日からもう一度やってみよう!」
って感じてもらえたとしたら
こんなに嬉しいことはないです。

私の講演のゴール設定は
「受講者が希望を胸に抱いて職場に向かえるようになる」
なのです。

かつて
もがきまくっていた時の私が一番欲しかったものは何なのだろう?

そう考えた時に
誰かに頭をなでてもらいたいわけでもないし
誰かと慰め合いたいわけでもないし
安直なその場しのぎや解答もどきを欲しかったわけでもない
自分の足でまっすぐ歩いていけるように
そのための道しるべ、信頼できる道しるべ
この道なら途中険しくても細くても遠くても歩いていきたい
歩き続けられるという実感がある道しるべがほしかったんだと思ったんです。

今の私にそこまでのお話ができているかどうかは、わかりませんが。。。

でも
どんな疾患によるどんな状況の認知症のある方にも
適用できる、除外要件のない、包含できる、考え方
とてもシンプルでベーシックな考え方だと自負しています (^^;
(自負するのは自由だもんね)

もしも私のお話が
誰かの道しるべになれるのなら
もしもそんなことが叶うのならば
それは私にとって本当に本当に嬉しいことです。

かつてのもがきまくっていた私にとっても
報われるような本当に本当に嬉しいことなのです。

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掲載「OTジャーナルVol.51No.2」

本日、三輪書店さんから発刊された「作業療法ジャーナル」の第51巻2月号
特集「認知症−身体障害合併症を中心に」の中で
「「認知症のある方への対応−能力と障害の把握」」が掲載されました。

認知症のある方は単に能力が低下した結果として
不合理な言動をするわけではない。ということ。

低下した能力もあるが、残っている能力もあって何とか対応しようとした結果として
不合理な言動というカタチで現れているのだから
表面的なカタチに対して表面的に対応を考えても有効な方法とはなりにくい。

どのような障害とどのような能力が不合理な言動というカタチに投影されているのかを観て
能力をより合理的なカタチで発揮できるように援助することが大切。という論旨です。

読んでいただければ嬉しく思います。

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昔の宮崎アニメの魅力

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アニメーションとは
ラテン語で霊魂を意味するanimaアニマに由来した言葉で
生命のない動かないものに命を与えて動かす
ということを意味するのだそうです。

私が好きな宮崎駿のアニメは
「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」「カリオストロの城」「天空の城ラビュタ」「もののけ姫」
です。

動きの表現が凄いんですもの。

二次元の表現なのに
奥行き、上下する感覚、スピード感
リズムとテンポがあるから思わず画面に引き込まれてしまう。

動きの表現が
人物の感情や周囲の状況を表現することにもなり
表現と演出が渾然となって物語が進行していく

先週、久しぶりにテレビで「風の谷のナウシカ」を観て
改めてアニメーションの素晴らしさを堪能しました。

アニメーションは単に「絵」じゃないんだということを再確認。
だから、ナウシカの絵はお世辞にも上手いとは言えない。
背景も登場人物も最近の絵と比べたら荒いこと雑なこと (^^;
だけど、そんなことあっという間に気にならなくなっちゃう。

本当に生き生きと動いてる。

絵が動いてるだけなのに
感情がものすごく喚起される。

観てる私の身体感覚にものすごく訴えかけてくるものがある。

アニメーションは表面的な技術だけじゃなくて
実体験がないと技術を活かせないんじゃないかな。
自身の体験と感覚と感情を自分の中に明確に自覚しながら培っていって
その積み重ねで初めて技術を活用できるんじゃないだろうか。
じゃないと大掛かりなハリウッド映画のようなものになってしまって
量的な刺激の大きさ、多さ、あるいはきめ細かさ、綺麗さ
といったものに追従するしかなくなってしまうんじゃないかな。

ナウシカは
環境保護、自然を大切に、自然讃歌
とか、そんなメッセージ映画みたいに捉えられていたこともあったそうですが
痛切な映画だと感じました。ものすごいアイロニーが込められてる。
まぁ、そこに共感する私も私ですが (^^;

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能力に胸がいっぱいになる

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認知症のある方の能力に胸がいっぱいになる

そういうことって
本当によくあります。

食事介助の最初と最後で食べ方が大きく変わった方がいます。
舌で食塊を押し出してしまい食べこぼしが多かったのに
文字通り押し出さずに食べられるようになって食べこぼしもゼロに
それだけではなくて
意思表示としてうなづいているということが明確にわかるようにうなづけるようになりました。

私がしたことは
姿勢を少し変えて
スプーンを小さくして
スプーン操作を少し変えて
それだけ。

あとは、その方がもっていた能力なんです。

埋もれていて表面には出ない
でもちゃんともっていたその方の能力

こんなにわかっていて
こんなに能力があって
だとすると
今までどれだけ頑張って食べていたか。。。

そうなんです。
その方にイマ、ナニが起こっているのか
ということが明確に把握できるようになると
その方がどれだけ頑張っていらっしゃるのかがものすごく伝わってきます。

認知症のある方の能力に胸がいっぱいになります。

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暗黙の前提は自覚しにくい

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人の意見には必ず前提があります。

その前提が異なっていると結果として意見だって異なってきます。

その時に結果としての意見だけをすりあわせようとしても
それはなかなか難しい。
そういう時には意見の前提を確認しあうと良いと思います。

極端な例を出しますと
何か品物を作って出荷する作業において
Aさんはたくさん品物を出荷してたくさんの人に届けたいと考えている
Bさんはより良い品物を出荷して見る目のある人が納得できるようなものを届けたいと考えている
検討会の議題で
Aさんは「こうしてみたらどうだろう」とC案を出します。
Bさんは「こうしたらよいと思う」とD案を出します。

その時によくあるのが
AさんはD案では時間がかかりすぎる
BさんはC案では時間が足りない
とあたかも時間の過不足が焦点化されてしまいます。

でも肝心なのは何を優先と考えているのか
というところなんです。

Aさんの考えるC案は、どうしたらもっとたくさん出荷できるだろうか。
Bさんの考えるD案は、どうしたらもっと良いものを出荷できるだろうか。
C案、D案の依って立つ優先事項、前提がまったく異なっているのですから
本来は、どのくらいの量をどのくらいの品質で出荷するのか
ということについて確認をすることから始めないといつまでたっても
建設的な議論が始まらないのです。

これは極論ですからわかりやすい例を出しましたが
これに類似したことは、ヤマほど起きています。

自分の考えが実は何に依って立っている考えなのか
言っている本人が自覚していない。。。なんてことはザラにあります。

前提は暗黙に置かれている

今、認知症のある方への対応で言われていることの多くは
暗黙には認知症のある方の能力を否定しています。
「できない、わからない、難しい」
「だから、〇〇してあげる」
そのような暗黙の前提に立っていながら表面的にはいろいろなことを言っています。
「ひとりひとり違う」
「寄り添ったケア」
と言いながらも万人に通用するような万能の対応策が求められたり
ICFで障害構造を把握する時代なのに
「原因があるはずだから原因を探索・改善」等と言ったり。。。
総論賛成各論反対のような現象が透けて見えます。

だから
本当にモノゴトを考えるようなタイプの人には
言行不一致を明確には言語化して指摘できなくても
何かモヤモヤしたものを感じて
現行言われているようなコトに対して内心不満や納得できなさがあるのではありませんか。

生活障害やBPSDという困りごとにも、ちゃんと能力が投影されているのです。
ただ、能力の現れ方が不合理なだけなので能力とは見えずらいだけなのです。
認知症のある方は、快・不快しかわからないわけでは決してありません。
重度の認知症のある方だとしても。

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説明より実践

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自分が体験したことのないことは理解できない。

そういうものなのだと思います。

私はいろいろなところで
「重度の認知症のある方でも介助を変えるだけで食べ方が変わる」と言っていますが
ある時に正面きって
「にわかには信じ難い」
と言われたこともあります。

そのくらいその人の職場で起こっていることと
私の話つまり実践とは乖離があるのだろうな
と思いました。

でも目の前で起きていることは誰も否定できません。

「認知症なんだから誤嚥性肺炎は仕方ない」
とこれまた私の目の前で言われたこともありますが
そういう時には何も言いません (^^;

そのかわり、内心今に見てろと思います。
そして仕方ないと言われた人の食べ方が良くなった時には
内心、ザマーミロと思っています (^^;

仕方ないのは、認知症のある方じゃなくて能力を見いだせなかったあなたなんだと。

スミマセン。
毒吐き女で。

だって悔しいじゃないですか。
「仕方ない」認定をこんなに軽々しくしちゃっていいんでしょうか。
私たちができる最善を尽くした後に初めて言えるセリフなんじゃないでしょうか。

これでも私も今までいろんなところでいろんな人にいろんなことを言われてきました。
でもその時その場ではそういう人には何も言わない。

言うことよりも
現実を変えることに努力します。
説明するより実践で証明してみせます。

現実が変わっても話を聴こうともしない人だっていますが
少なくとも表立って反対意見は言えなくなります。
だってみんなが変化を見ているんですもの。

それで十分なんです。
その先の話を聴いてくれる人も聴いてくれない人もいますが。

大切なことは
目の前にいる対象者の利益であって
相手をギャフンと言わせることじゃない。
相手におっしゃる通りです。よくわかりました。と言わせることでもない。
協力してくれなくても全然いいです。
足だけはひっぱらないでもらえればそれでいいんです。
ここは、すり替えが起こりがちなところだから気をつけなきゃいけない。

「自分が変われば世界が変わる」のコメントの4番目に
説明だけでは通じない意味、議論が平行線に終わる意味を書いてあります。
よかったらご参照ください。

関連して
よく「ケアの統一」って言われるじゃないですか。
もちろん、必要な時に必要なケアを全員ができれば望ましいけれど
統一できなければ対象者の方に対して良いケアができない。ということではありません。

以前にも書きましたけれど
みんなが30%のケアしかできていない状況で
みんなが50%できるようになるよりは
誰か一人でいいから90%のケアができるようになることの方がずっと大切です。

そのくらい認知症のある方の能力があるんです。

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言葉の取り扱い

ちょっと待った

「アルツだから」

先日、こんな言葉を聞いてびっくりしました。
いわゆるギョーカイ用語のつもりなのでしょうか?

他にもよく聞くのが
「認知だから」
「認知の人」
「認知のある方」

その流れで「アルツ」なんだとは思いますが。

少なくとも
私の周囲でそんな言葉を使う人で
行動観察がしっかりしていて
知識もきちんともっていて
論理的に考えるような人には出会った試しがない。

当たり前だと思いますが (^^;
だって言葉は概念を表すものだもの。

言葉の取り扱いに気をつけるということは
概念の取り扱いにも気をつけているということだもの。

とりわけ
リハスタッフは
末梢からの情報入力に関与することによって
中枢の回路を組み替えるという仕事をしているわけだから
リハスタッフが一番言葉の取り扱いに鋭敏にならざるを得ないと思うのですが。

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キュウべぇのセリフ

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前にも書きましたけれど
今さらではありますが
「魔法少女まどか☆マギカ」に出てくるキュウべぇのセリフで痛切に残っているものがあります。

 

「観測さえできれば干渉できる
干渉できるなら制御もできる
観測できない、存在すら確認できないものは手の出しようがない」

 

現実には
干渉と制御には大きな溝があるでしょうけれど
認知症のある方への対応についても本当にその通りなんだと感じています。

「観測できない、存在すら確認できないものは手の出しようがない」

目の前で起こっていることが何なのか
私たちが観察できない
あるいは観察しそこなっている
だから結果として見当違いのことをしてしまう

だとしたら
観察できるようになりさえすればいい

口で言うのはカンタンですが (^^;

でも、まず、そこから。なんですよね。

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