私たちにとっては
なんでもないように、ごく簡単に、見えることでも
「できる」ためには、いくつものスモールステップをクリアしなければ
「できる」ようにはならない。
身の回りのことでも
何か作ったりすることでも
スモールステップが明確にわかるようになると
できることのすごさを実感する。
こんなに難しいことができているんだ。
その「できる」ということに感嘆する。
2月 01 2019
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1月 31 2019
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1月 29 2019
前の記事と同じ意味ですが
「一緒にやるから大丈夫」
この言葉も注意が必要な言葉だと考えているので自戒しています。
励ましや気持ちを支えるために使ったのだとしても
構成障害のある方にとっては
「ここをこうしてこうやって」と
隣で説明されてもわからない。ということが多々あります。
わからない、できない方にやっていただこうとして
文字通り手をとって教えるような説明では
達成感は得られにくいと思いますし
なんだか「させてる」「作らせてる」ように感じませんか?
私たちの脳が対象者の方の手を動かさせている
そんなの、嫌です。
「一緒にやるから大丈夫」
この言葉を言う人に悪気があるわけではないと思います。
でも、結果としてでも
「やらされた感」を感じさせてしまわなかったかどうか
PDCAを回すことが大切なのではないかと考えています。
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1月 28 2019
ある時、ハッとしたことがあります。
何のActivityをしている時かは忘れてしまいましたが
「ここをこうしてこうやって」
私はそう言っていたんです。
「あっ!私の伝え方が悪いんだ」
そう思いました。
認知症という状態像を示す病気では、構成障害という障害が出る場合があります。
構成障害とは、全体と部分、部分と部分の位置関係を認識し再現する能力の障害です。
「ここをこうしてこうやって」という説明をしているときには
隣で認知症のある方が扱っているのと同じ品物を私も同じように取り扱って
目で見ていただきながら、その上で言葉でも説明しています。
構成障害のある方にとって
全体と部分、部分と部分の位置関係を認識することが難しければ
ご自身の作業と対象物と、私の作業と対象物とを
目で見て比較対照しながら理解するということは、とても難しい。
「ここをこうして」を理解するのは非常にハードルの高い言語説明なんです。
それまでは無自覚に使っていた言葉でしたが
以降は気をつけて言葉を選びながら伝えるようにしました。
構成障害があってもなくても
「ここをこうしてこうやって」ではなくて
できるだけ動詞と名詞、位置関係を明確に言語化するように気をつけました。
そして、明確な言語による説明だけでは
「位置関係を認識し再現する」という障害を補うことは難しいので
「対象そのものに工程を語らせる」という工夫をするようになりました。
「対象そのものに工程を語らせる」
このことについては
具体的に説明しないと伝わらないし、その説明は長くなるので
いずれまた、改めてこちらの記事に書くようにします。
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1月 25 2019
どんなに知識が限定していたとしても
どんなに技術が乏しかったとしても
PDCAを回している限り
必ずや適切な対応ができるようになると思う。
でも、PDCAには落とし穴があることに最近気がつくようになりました。
この頃では
「G -PDCA」ということもあるそうですが
まず目標Goalがあって、計画Planを立て、やってみてDo、振り返りCheck、改善処置するAction
ここで一番大切なことは、Cの振り返りだと考えています。
大抵のリハスタッフは、悪い結果だったらなんとか良い結果が出るように修正対応をすると思う。
でも、良い結果が出た時に振り返りをしないケースもあるとよく聞きます。
良かった。これで良いんだとしてしまう。
本当は、良かった時に何がどう良かったのか確認することが大切。
もっと正確に言うと、方法論は状態像への適合の問題なので
何がどう適切で何がどう不適切だったのかと言うことを確認することが大切だと考えています。
そして、抽象化・一般化する。
そうすると、実践をより一層深めることができるようになるし
不適切さの意味を明確に認識した上で回避できるようになると感じています。
もうひとつ
PDCAを回す時には、意図こそが大切
何を意図しているのかということです。
リハやケアは関係性の中で行われる。
「援助」という意図を持って対していたはずなのに
いつの間にか「使役」にすり替わってしまうということがよくあります。
目の前にいる対象者の方の
「食べることの援助」をしたいと願っていながら
いつの間にか「食べさせる」ためにという視点にすり替わってしまっていた
「入浴することの援助」をしたいと願っていながら
いつの間にか「どうやったら入浴させる」ことができるか、という視点にすり替わってしまった
ということは枚挙にいとまがありません。
対人援助職はそういう宿命を持っている。
「意図こそが重要」ではあるけれど
援助と使役が紙一重ということを認識した上で
日々の実践において誠実に自覚し自己制御できるためには
単に「頑張る」といった宣誓ではなくて、もっと論理的に明確な意識化が必要とされると感じています。
もちろん、状況によっては、援助ではなくて使役が要求される場合だってあるでしょう。
災害時などの緊急時には、「避難させる」ことが最優先だと思います。
大切なことは、自分の中で「援助」なのか「使役」なのか
自分が何をしているのか、自覚しているということから始める。
そのくらい、関係性の中で行われるが故について回る宿命でもあるという認識がまず必要なのだと考えています。
そういう意味で
「G-PDCA」という考え方は
目標を明示するという点で「使役ではなく援助」なのだという視点を明確にして
「援助→使役」へのすり替え防止として有効だと考えています。
「対象者の」目標に依拠して実践し考える。
対象者の目標達成のためにPDCAを回すのだ。ということを明確にしています。
ただし、目標を目標というカタチで設定できる
目標を目的や方針、方法と混同しない
ということが担保されていれば。という条件付きではありますが。
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1月 24 2019
ネットで
「立って食事介助するなんて危ない」
という記載を見かけました。
その通りだと思います。
でも、「立って食事介助することの何がどう危ないのか」
理解していないと片手落ちになってしまいます。
立って食事介助すると
介助を受けている方の顎が上がってしまいます。
その姿勢は気道確保している姿勢と同じです。
つまり、食事介助しながら気道確保するという、とんでもないことをしていることになってしまう。
だとしたら
たとえ、立っていなくても、座って食事介助をしていても
顎が上がるような介助をしてはいけないということにもなります。
つまり
座って食事介助をしたとしても
対象者の上の歯を使って
スプーンで食塊をこそげ落とすような介助をしてはいけないのです。
このような介助は、立って食事介助をしているのと同じでとても危険な方法です。
ところが、現実には非常に多くの施設・病院でそうとは知らずに為されている方法でもあります。
諸般の事情で立って食事介助するしかない場合だって起こり得ます。
その時に大切なことは、立って行う食事介助を禁止することではなくて
立って食事介助していても安全に介助するにはどうしたら良いのか
ということを実践できることだと考えています。
(もちろん、座って食事介助できる方がより望ましいと思っています)
カタチが意味するハタラキを理解する
カタチだけ伝える、受け取る、のではなくて
その意味をも理解しないと本末転倒になってしまいます。
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1月 22 2019
認知症のある方や生活期にある対象者が
食事中にひどくムセてしまうと
そこで食事を中止してしまう
という対応をしている施設・病院も多いのではないかと感じています。
この問題はふたつ
ひとつには
「ムセ」がどういう機序で起こっているのか理解せずに
「ムセ=誤嚥=ひどいムセ=ひどい誤嚥=食事中止」というパターン化した思考・対応をしているところです。
ふたつめには
ムセた時に、どうしたら良いのかを教わっていないために
ムセで苦しんでいる方を目の前にすると、食事を中止するしかできないのだと推測しています。
ムセは、確かに誤嚥のサインではありますが
同時に、誤嚥した異物を喀出しようとしている生体防御の働きでもあります。
ひどいムセ、強いムセは確かに目立つものですが
しっかりと喀出しようとしている働きの強さを示してもいます。
むしろ、危ないのは、か細く弱々しくしかムセられないケースなんです。
また、ムセた時には
背中を叩くのではなくて
異物を喀出しようとしている呼気のパワーを強めるために呼気の介助をします。
そして声の清明さを確認して清明な声であれば食事を再開できるし
まだ声が濁っていたり嗄声であれば呼気の介助を繰り返します。
本当に「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。」なんです。
評価が大事
そして後でまた書きますが
評価ができるためには適切なスプーン操作ができないと
評価の入り口にさえ立てないんです。
不適切なスプーン操作をしているために
誤嚥のリスクを高めてしまう恐れがあるのです。
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1月 21 2019
多分ほとんどの施設・病院で
「ムセたらトロミ」
「まだムセたらもっとトロミ」
ムセの頻度や強さによって、トロミの粘度をどんどん強くする
というパターンで対応しているところが多いのではないかと感じています。
この対応の問題は2つ
ひとつには
対象者の食べ方や飲み方の観察・評価が為されずに
「ムセ」という結果だけを見て「トロミ」という
パターン化した対応をしているということ
もうひとつは
嚥下5相(機能解剖が大切なので、4相でも6相でも流派は問わない)の関係性
食べ方のいつ、どこで、どんな風にムセているのか
観察・評価が為されていないこと
現実に起こっていることは
嚥下5相でいう「咽頭期」の問題は「口腔期」の易疲労によって
二次的に引き起こされているケースもあるということです。
だから、トロミをつけたら逆効果になってしまうということも起こり得ます。
このような場合には、ごく薄い粘性の液体の形状で栄養を摂取してもらうことから始めた方が良いのです。
いわば、逆・嚥下ピラミッド
「ムセ→トロミ」という「パターン化された思考・対応」ではなくて
「ムセ→観察・評価→トロミの要・不要と粘性の判断」が必要だと考えています。
その結果、もちろん、咽頭期そのものの問題というケースだってあるでしょう。
そういう場合には、トロミをつけていくことが適切です。
先日、ある人から(すごく信頼している優秀な人です)
私の他にも同じことを言っている人がいることを教えてもらいました。
すごく心強かったです。
そのことについては、ただいま情報収集中です。
本当に「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。」なんです。
評価が大事
そして後でまた書きますが
評価ができるためには適切なスプーン操作ができないと
評価の入り口にさえ立てないんです。
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