Tag: コミュニケーション

事実の子4:?「立って食事介助しない」

ネットで
「立って食事介助するなんて危ない」
という記載を見かけました。
その通りだと思います。
でも、「立って食事介助することの何がどう危ないのか」
理解していないと片手落ちになってしまいます。

立って食事介助すると
介助を受けている方の顎が上がってしまいます。
その姿勢は気道確保している姿勢と同じです。
つまり、食事介助しながら気道確保するという、とんでもないことをしていることになってしまう。

だとしたら
たとえ、立っていなくても、座って食事介助をしていても
顎が上がるような介助をしてはいけないということにもなります。

つまり
座って食事介助をしたとしても
対象者の上の歯を使って
スプーンで食塊をこそげ落とすような介助をしてはいけないのです。
このような介助は、立って食事介助をしているのと同じでとても危険な方法です。
ところが、現実には非常に多くの施設・病院でそうとは知らずに為されている方法でもあります。

諸般の事情で立って食事介助するしかない場合だって起こり得ます。
その時に大切なことは、立って行う食事介助を禁止することではなくて
立って食事介助していても安全に介助するにはどうしたら良いのか
ということを実践できることだと考えています。
(もちろん、座って食事介助できる方がより望ましいと思っています)

カタチが意味するハタラキを理解する

カタチだけ伝える、受け取る、のではなくて
その意味をも理解しないと本末転倒になってしまいます。

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事実の子2:?「ひどいムセは食事中止」

認知症のある方や生活期にある対象者が
食事中にひどくムセてしまうと
そこで食事を中止してしまう
という対応をしている施設・病院も多いのではないかと感じています。

この問題はふたつ

ひとつには
「ムセ」がどういう機序で起こっているのか理解せずに
「ムセ=誤嚥=ひどいムセ=ひどい誤嚥=食事中止」というパターン化した思考・対応をしているところです。

ふたつめには
ムセた時に、どうしたら良いのかを教わっていないために
ムセで苦しんでいる方を目の前にすると、食事を中止するしかできないのだと推測しています。

ムセは、確かに誤嚥のサインではありますが
同時に、誤嚥した異物を喀出しようとしている生体防御の働きでもあります。
ひどいムセ、強いムセは確かに目立つものですが
しっかりと喀出しようとしている働きの強さを示してもいます。
むしろ、危ないのは、か細く弱々しくしかムセられないケースなんです。

また、ムセた時には
背中を叩くのではなくて
異物を喀出しようとしている呼気のパワーを強めるために呼気の介助をします。
そして声の清明さを確認して清明な声であれば食事を再開できるし
まだ声が濁っていたり嗄声であれば呼気の介助を繰り返します。

本当に「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。」なんです。
評価が大事
そして後でまた書きますが
評価ができるためには適切なスプーン操作ができないと
評価の入り口にさえ立てないんです。
不適切なスプーン操作をしているために
誤嚥のリスクを高めてしまう恐れがあるのです。

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事実の子1:?「ムセたらトロミ」

多分ほとんどの施設・病院で
「ムセたらトロミ」
「まだムセたらもっとトロミ」
ムセの頻度や強さによって、トロミの粘度をどんどん強くする
というパターンで対応しているところが多いのではないかと感じています。

この対応の問題は2つ

ひとつには
対象者の食べ方や飲み方の観察・評価が為されずに
「ムセ」という結果だけを見て「トロミ」という
パターン化した対応をしているということ

もうひとつは
嚥下5相(機能解剖が大切なので、4相でも6相でも流派は問わない)の関係性
食べ方のいつ、どこで、どんな風にムセているのか
観察・評価が為されていないこと

現実に起こっていることは
嚥下5相でいう「咽頭期」の問題は「口腔期」の易疲労によって
二次的に引き起こされているケースもあるということです。
だから、トロミをつけたら逆効果になってしまうということも起こり得ます。
このような場合には、ごく薄い粘性の液体の形状で栄養を摂取してもらうことから始めた方が良いのです。
いわば、逆・嚥下ピラミッド

「ムセ→トロミ」という「パターン化された思考・対応」ではなくて
「ムセ→観察・評価→トロミの要・不要と粘性の判断」が必要だと考えています。
その結果、もちろん、咽頭期そのものの問題というケースだってあるでしょう。
そういう場合には、トロミをつけていくことが適切です。

先日、ある人から(すごく信頼している優秀な人です)
私の他にも同じことを言っている人がいることを教えてもらいました。
すごく心強かったです。
そのことについては、ただいま情報収集中です。

本当に「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。」なんです。
評価が大事
そして後でまた書きますが
評価ができるためには適切なスプーン操作ができないと
評価の入り口にさえ立てないんです。

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「事実の子たれよ」

知人から内村鑑三の言葉を教えてもらいました。

「事実の子たれよ。
理論の奴隷たるなかれ。
事実はことごとくこれを信ぜよ。
その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、あえて心を痛ましむるなかれ。
事実はついに相調和すべし。
その宗教的なると科学的なると、哲学的なると事実的なるとにかかわらず、すべての事実はついに一大事実となりてあらわるべし。」

本当にその通りだと思いました。
こんなに明確に言語化していた人がいたんですね。

理論とか常識というメガネをかけて見てはいけない。
メガネを外して事実そのままを観るように心がける。
事実が理論や常識として言われていることと反することや
事実同士が矛盾するように見えることでも
必ず見落としていた、隠れていた、一片のピースが見つかり
整合性のある事実としてもう一度現前し直す。
こういうことには、よくよく遭遇しています。

リハやケアの常識として語られていることも
事実の子たる在りようによって
異なる現実として現前し直す。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問だし
ましてや、作業療法は実践の科学です。
目の前の対象者こそ最前線。

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適切な声かけが評価の入り口

適切なスプーン操作が評価の入り口であるのと同じように
適切な声かけが評価の入り口
適切な声かけができて初めて認知症のある方の能力がわかる。

適切な声かけができないと
対象者の状態像を見誤ってしまいます。

求められているのは
唯一絶対の正しい声かけではなくて
その時その場のその関係性において適切な声かけ
なんだと考えています。

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聴いてみないとわからない

聴いてみないとわからない。

認知症のある方が大声を出している時に
「また大声出してる」で終わらせずに
なぜ大声を出しているのか。

その答えが言葉として明瞭に返ってくることもあれば
言葉以外の答えとして返ってくることもある。

聴くのは言葉だけではなくて
認知症のある方の答え方全体を聴く。

耳だけじゃなくて
眼でも観察する。

思いもかけない答えが潜んでいることもある。

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意図こそが重要

スティーブ・ジョブズの言葉に
「意図こそが重要」と言う言葉がある。

この言葉の意味を
その都度その都度何回もわかり直している。

認知症のある方への対応について
「援助」なのか、「使役」なのか、という違いはとても大きくて
にも関わらず、実は自覚されにくい。

例えば
入浴でもトイレでも誘導しようというときに拒否されてしまう
ということは、よくあります。

このときに
「誘導しようとしたら拒否されてしまった。
どうしたらいいだろう?」
と言う問いのカタチでは
「拒否されない誘導の方法は何があるだろう?」
というカタチで問いを重ねることになってしまいます。
これでは主語が私たちになってしまっています。

ここでもしも
「誘導しようとしたら、嫌!と言って顔を背けてしまった。
このときに何がこの方に起こっていたんだろう?」
というカタチの問いを立てれば
「何が嫌なんだろう?嫌でないことは何だろう?」
と次へ続けることのできる問いのカタチができます。
この問いは主語が認知症のある方になっています。

どっちだっておんなじじゃん。
とはならない。

意図は相手に伝わってしまう。
例え、明確に表現してもされなくても。
そして、その意図はその後の私たちの行動にも影響を与える。

拒否されないように。。。という観点を重視した関わり
認知症のある方が受け入れやすい方法を探るという観点を重視した関わり

援助なのか、使役なのか
容易にすり替わりがちだからこそ
気持ちだけでは防ぎにくいことだからこそ
意図的に気をつけなくてはならないと思う。

言葉で「認知症のある方に寄り添ったケアをします」
と宣言することも大切かもしれないけれど
個々の実践において「寄り添ったケア」という理想に合致しているかどうか
具体的に検討するとともに
予防できるものは予防していくために
気をつけ方の言語化が必要なのではないかと考えています。

<お詫び>
今回の一連の記事において
誤解を招きかねない表現をしてしまったために記事を削除いたしました。
ここに深くお詫び申し上げます。

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環境との相互作用2

ここからが問題で
私たちは援助と使役が紙一重ということを
それほど明確には学んでこない。
理想として語られた言葉として聞くことはあったとしても
実際にどのようにしてすり替えが起こってしまいがちなのか
どうしたら少しでも防ぐことが可能なのか
具体的には教えてもらうことがない。

「気をつけましょう」では
行動変容は起こらない。
それはサボっているからではなくて
そうしたくないからというだけでもなくて
気をつけたくても行動を変えることができないことだってある。

認知症のある方の
一見不合理な言動から能力を見出そう
そのように意思として心がけたとしても現実問題できない人は少なくない。
こういう状態は、とても辛い。

なぜできないのか?

それは、過程の具体化が抜け落ちてるから

願えば叶うわけでもなく
唱えれば叶うわけでもない
気持ちだけでは行動変容は起こらない。

自分の実習体験を思い起こせば
あるあるの話なんじゃないかな?
指導者に指摘されたことはわかる。
自分も努力しようと思う。
でもできない。。。

一方で
認知症のある方の立場に立ってみれば
理解してほしい、助けてほしい
と願うだけでなく
自分でできる限りのことはできるようになりたいと願っている。
してもらうのではなくて、自分でできるようになるような援助も願っている。

認知症のある方本人も
周囲の方も
困ってしまう生活障害やBPSDには
その場面にこそ、困りごとというカタチで現れている能力と障害が反映されている。

アフォーダンスの言葉を借りれば
見出されるのを待っている

表面的に
修正したり、改善したり、制圧しようとしてはいけない。

結果としてであっても
能力を否定することになってしまうから。

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