Tag: コミュニケーション

聴いてみないとわからない

聴いてみないとわからない。

認知症のある方が大声を出している時に
「また大声出してる」で終わらせずに
なぜ大声を出しているのか。

その答えが言葉として明瞭に返ってくることもあれば
言葉以外の答えとして返ってくることもある。

聴くのは言葉だけではなくて
認知症のある方の答え方全体を聴く。

耳だけじゃなくて
眼でも観察する。

思いもかけない答えが潜んでいることもある。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3981

意図こそが重要

スティーブ・ジョブズの言葉に
「意図こそが重要」と言う言葉がある。

この言葉の意味を
その都度その都度何回もわかり直している。

認知症のある方への対応について
「援助」なのか、「使役」なのか、という違いはとても大きくて
にも関わらず、実は自覚されにくい。

例えば
入浴でもトイレでも誘導しようというときに拒否されてしまう
ということは、よくあります。

このときに
「誘導しようとしたら拒否されてしまった。
どうしたらいいだろう?」
と言う問いのカタチでは
「拒否されない誘導の方法は何があるだろう?」
というカタチで問いを重ねることになってしまいます。
これでは主語が私たちになってしまっています。

ここでもしも
「誘導しようとしたら、嫌!と言って顔を背けてしまった。
このときに何がこの方に起こっていたんだろう?」
というカタチの問いを立てれば
「何が嫌なんだろう?嫌でないことは何だろう?」
と次へ続けることのできる問いのカタチができます。
この問いは主語が認知症のある方になっています。

どっちだっておんなじじゃん。
とはならない。

意図は相手に伝わってしまう。
例え、明確に表現してもされなくても。
そして、その意図はその後の私たちの行動にも影響を与える。

拒否されないように。。。という観点を重視した関わり
認知症のある方が受け入れやすい方法を探るという観点を重視した関わり

援助なのか、使役なのか
容易にすり替わりがちだからこそ
気持ちだけでは防ぎにくいことだからこそ
意図的に気をつけなくてはならないと思う。

言葉で「認知症のある方に寄り添ったケアをします」
と宣言することも大切かもしれないけれど
個々の実践において「寄り添ったケア」という理想に合致しているかどうか
具体的に検討するとともに
予防できるものは予防していくために
気をつけ方の言語化が必要なのではないかと考えています。

<お詫び>
今回の一連の記事において
誤解を招きかねない表現をしてしまったために記事を削除いたしました。
ここに深くお詫び申し上げます。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3978

環境との相互作用2

ここからが問題で
私たちは援助と使役が紙一重ということを
それほど明確には学んでこない。
理想として語られた言葉として聞くことはあったとしても
実際にどのようにしてすり替えが起こってしまいがちなのか
どうしたら少しでも防ぐことが可能なのか
具体的には教えてもらうことがない。

「気をつけましょう」では
行動変容は起こらない。
それはサボっているからではなくて
そうしたくないからというだけでもなくて
気をつけたくても行動を変えることができないことだってある。

認知症のある方の
一見不合理な言動から能力を見出そう
そのように意思として心がけたとしても現実問題できない人は少なくない。
こういう状態は、とても辛い。

なぜできないのか?

それは、過程の具体化が抜け落ちてるから

願えば叶うわけでもなく
唱えれば叶うわけでもない
気持ちだけでは行動変容は起こらない。

自分の実習体験を思い起こせば
あるあるの話なんじゃないかな?
指導者に指摘されたことはわかる。
自分も努力しようと思う。
でもできない。。。

一方で
認知症のある方の立場に立ってみれば
理解してほしい、助けてほしい
と願うだけでなく
自分でできる限りのことはできるようになりたいと願っている。
してもらうのではなくて、自分でできるようになるような援助も願っている。

認知症のある方本人も
周囲の方も
困ってしまう生活障害やBPSDには
その場面にこそ、困りごとというカタチで現れている能力と障害が反映されている。

アフォーダンスの言葉を借りれば
見出されるのを待っている

表面的に
修正したり、改善したり、制圧しようとしてはいけない。

結果としてであっても
能力を否定することになってしまうから。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3953

環境との相互作用

人は環境の中にいる。

いろいろな構造物に囲まれているし
いろいろな人間関係に囲まれている。

自覚的にも無自覚にも甘受している情報はたくさんある。

アフォーダンスとは
環境の中に実在する行為の資源 と定義されている。

私たちは対人援助職として
対象者に対峙するけれど
同時に認知症のある方の側に立ってみれば
無数の環境の中の構成因子でもある。

認知症のある方は
私たちの言動を手掛かりの一つとして
環境認識し対応しようとする。

だからこそ
私たちの言動の意図がcontrolであれば、
通常は誰だって嫌がるものではないだろうか。

その表れが
ネガティブなパターンだと
表れ方だけを見て否定的な判断を下されがちだけど
そこだけ切り取ってしまえるものなのだろうか?

それに、通常、私たちが暮らしの中で
「え?」と思うような対応をされても
内心の思いを抑圧して表面的には追従することもあるのと同様に
認知症のある方だって合わせてくれることだってたくさんあるに違いない。
そこって現実に起こっていても評価されにくいところだと思う。

だけど、私たちが判断できないからといって
現実に起こっていないわけじゃない。

私たちが観えていないだけで
認知症のある方は必死になって対応しようとしている。

それは能力があるからこそできること
なんだと思う。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3948

必死に対応

たとえ、重度の認知症のある方でも
必死になって環境に対応しようとしています。
使える能力を目一杯使って何とかしようと代償もしている。

「異常な環境には異常な反応が正常だ」

この言葉は当事者としての活動のさきがけとなった
クリスティーン・ブライデンさんの言葉です。
本当にその通りだと思う。

一見すると異常に見える言動が
不適切な環境として認識されるような関わりへの正常な反応であるという可能性
への吟味って、あまり為されていないように感じています。

ようやく最近になって
かなり明確に言語化できるようになってきたので
このことを掘り下げて考えてみたいと思います。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3942

違和感がヒント

仕事でも講演でも
自分が組み立てて何かを為した時に
ふと違和感を感じたとしたら
それは私にとってのブラッシュアップのヒントだった
ということって、とても多い。

どこがどう。と明確に言語化できなくて
でも、何か心に引っかかることがある。

そんな時には
まず言語化できるように努力するけど
必ずしもすぐに「あ!そうか!」とわからない時だってある。

わからないことって、抱え続けるのは
モヤモヤした気持ちでいることになるけど
忘れないようにする。エイやって放り投げないようにする。
違和感を感じたところを心に留めておく。
それだけでも違う。

そうすると、後になって、ひょんな時に
「あ!そういうことだったのか!」と気がつくことが多い。
気がついてしまえば何てことはないことでも
気がつけない時は、どうしたって通り過ぎてしまう。

違和感がブラッシュアップのヒントになる。
そういうことって、とても多い。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3932

講演@文京学院大学

平成30年10月6日(土)に
文京学院大学本郷キャンパスにて
「認知症のある方に本当に役立つセラピストになるために」
というタイトルで講演をしてきました。

ほぼ定員いっぱいのたくさんの方にお話を聞いていただくことができました。
貴重な機会を作っていただけたことに心から感謝申し上げます。

私は認知症のある方を取り巻く現状に強く危機意識を抱いています。
優しく親切に快適さを心がけて接するだけでは
認知症のある方とご家族の暮らしの困りごとを少なくしていくことは難しい。
認知症という状態像は脳の病気によって引き起こされるからです。
同じ脳の病気によって引き起こされる脳卒中後遺症片麻痺のある方に対して
優しく親切に快適さを心がけるだけでは
麻痺が改善するわけでもADLが良くなるわけでもありません。
専門的なリハを受け、動作のポイントを踏まえて
毎日の暮らしの中で繰り返し繰り返し実践していくことが求められています。
認知症のある方だって全く同じなのです。

そのためには
認知症のある方に今、ここで、何が起こっているのか
評価、アセスメント、みたてができなければ。

そのためには
知識をもとにした観察ができなければ。
その観察をするにあたり
どんなに自戒してもしすぎることがないのが
私たち自身の在りようで
援助と使役は紙一重だということ
そして自分が何をしようとしているのか、自分自身が明確にしておくことが
肝要なのだということをお伝えしました。

一人でも多くの方に伝わって
明日からの臨床に活かされ
認知症のある方とご家族の暮らしの困難が少しでも少なくなることを
心から願っています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3919

ムセ=嚥下機能低下?

ムセたら、嚥下機能低下
とすぐに判断するのではなく
ムセた時に、何が起こっていたのか
きちんと状態を確認することが重要です。

えてして
食事中にムセたら、まずトロミをつけて様子観察する。
という対応をしてしまいがちですが
ムセは必ずしも嚥下機能低下が本質的な原因ではないことが少なくありません。

姿勢や身体の使い方の問題がメインで
ムセは二次的に引き起こされていることがよくあります。
そのような場合には、身体状況にアプローチすることでムセが良くなります。
トロミをつけるだけでは本質的な問題は改善されません。

ムセを問題として捉えるのであれば
ムセが起きている状況をきちんと観察することで情報収集し
その方がどんな風に食べているのかをきちんとアセスメントしなければ
何が起こっているのかがわからない。
わからないから、的確な対応ができない。
だったら、わかるようにすれば良いだけです。

生活歴は確かに大事です。
その方の好き嫌いなどの嗜好を確認することも大事です。
それと同じように、食べ方に反映されている困難も能力も把握しなければ。

お年寄りは、口腔内にちょっとしたウィークポイントを持っています。
身体全体にも何らかのウィークポイントを持っています。
なおかつ、ウィークポイントをなんとか代償しようとして頑張って食べようともしています。
この部分を「観る」ことが一番大切。

ムセという結果だけ見て、嚥下機能低下という判断は早計です。
食べるという行為は、決して「口」だけで為されているわけではありません。
私たちは文字通り全身を使って食べているのです。
だから、食べ方では全身を「観る」必要があります。

認知症があってもなくても必要性には変わりありません。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3913