Tag: コミュニケーション

スモールステップ

誤嚥性肺炎になった後
もう一度経口摂取にトライする方を担当して思うのは
焦っちゃいけない。
スモールステップを着実に踏んでいくこと。

能力は
白黒じゃなくてグレースケール。
そのグレーの色調をどれだけ細やかに色分けするように把握できるか
ということが大切だから

スモールステップも細やかに設定して
細やかに達成できるように援助することが大切

経口摂取していないと
どんどん体力が落ちてしまうから
こちらが内心焦ってしまう時もある。

でも、焦ってもロクなことにはならないどころか
逆効果になってしまうから
焦らない、焦らない。
自分自身に言い聞かせる時もある。

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理念と実践の照合

私たちが理想とするケアの理念をどうやったら具現化できるのか
まさしく今後問われてくる課題だと考えています。

認知症の普及啓蒙が進めば進むほど
理念と現実との狭間に直面する機会が増えてくる

こういう課題は
抽象的に考えても答えは出ない。
正確に言うと
抽象的に考えても日々の実践に役立つ「具現化の方法」は出てこない。

日々の実践の場において
理念と実践の照合をその都度行うといった
気の遠くなるような地道な作業を一人一人が行っていき
そこから得られた知見の検証から始めるしかないと考えています。

その過程において
目からウロコのような発見があったり
先人が語っていた言葉を深く再認識できるような体験があったりするのだと思う。

私はかつて
とても苦しい日々を送っていたことがあります。
自分の中で、常識的一般的なケアの対応では
どう考えてもケアの理念に反するとしか感じられなかった時
自分としては、そんな対応はもうイヤだと感じた時
バリデーションに出会うことができて本当によかったと思う。
「帰りたい」と言う方の気持ちをどんな風に聴いたら良いのか
ゴールはまだまだ遠いけれど、スタートラインに立つことはできたし
とにもかくにも、スタートを切ることはできるようになった。

でも、バリデーション創始者のナオミ・フェイルが言ったように
「バリデーションは万能ではない」

認知症には様々な生活障害があり、様々なBPSDがある。

なぜ、バリデーションを通して
「語る」ことで「帰りたい」と言う気持ちが解消されるのか
なぜ、BPSDは出る人と出ない人がいるのか
理念と実践の照合を繰り返すと
理解や認識、発見が深まっていく。
(そう言う意味で大切なのはPDCAを回すこと。一番大切なのは「C」を疎かにしないこと)

作業療法の「体験」の意味がもう一段深く理解できるようになっていく。

耳に心地の良い言葉やギョーカイに深く浸透している言葉(概念)って検証されにくいものですが、
案外表面的に見えることに過ぎない理解、入り口でしかない理解って多々あるように感じています。

理念と実践が乖離しているとしたら
どちらかが間違っている。
「認知症のある方に寄り添ったケア」と言う理念が間違っているとは考えられない。
だとしたら、実践がどこかでズレている。
だとしたら、そのズレを修正すれば良いだけだと考えています。

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「痛いですよ。言わないだけ。」

ずいぶんと昔に聞いたことがあります。

ある対象者の方がリハ中に
「痛い」って繰り返し言っていたけど
セラピストから我慢するように繰り返し言われ続けていた。

ある時にセラピストが
「〇〇さん、ずいぶん良くなりましたね。痛いって言わなくなりましたね。」
と言ったら
対象者の方が「痛いですよ。言わないだけ。」と答えた。

言ったってしようがないと思えば
もう言わなくなりますよね?

「言わない=ない」わけじゃない。

リハの世界じゃなくても
認知症があってもなくても
普通によくあることですよね。

今まで書いてきた認知症のある方の帰宅願望のケースでも
「帰りたい」と言わないようにしているだけなのか
「帰りたい」と言う必然性がなくなったのか
全然違うことだけど
私たちは、どっちを求めているんでしょう?
認知症のある方は、どちらを求めているのでしょうか?

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「寄り添ったケア」って何?

「認知症のある方に寄り添ったケア」は
ケアの理念として語られています。

理念が実践とリンクしているかどうか
照合しながら自らの実践を吟味している人は、
たぶんとても辛い思いを抱いているのではないでしょうか。

理念や理想が高ければ高いほど
目の前の事象に自分が関与する仕方、実践との隔たりを
否応もなく感じると思う。

先の例で言えば
「帰りたい」という方に対して
どのような対応が為されているのでしょうか?

「帰りたい」と言う言葉には
帰って何をしたいのかという切実な気持ちがある。
イマ・ココで起きていることではないにしても

その切実な気持ちがあるということをまず認識して
その上でその気持ちに共感することが
「認知症のある方に寄り添ったケア」なんじゃないかな。
入り口の前に立ち
入り口の扉を開けることなんじゃないかな。

「帰りたい」という言葉の不合理さという判断のもとに
気持ちを逸らすことを目的として
「お茶でもいかが?」「タオルをたたんで」「今日はもう遅いから」
などという声かけをすることが本当に「寄り添ったケア」なのかな?

私たちの腕は2本しかないから
「ごめんね。今はこっちをしなくちゃいけなくて」
という場合が必ずあると思う。
それはやっぱり「ごめんなさい」だと思う。

今は、どの分野の人も、どこで働いていようとも
とても忙しい日々を送っていると思うから
「忙しくて話が聞けない」
という現実も確かにあると思う。

でも、本当にそれだけかな?

時間があるにもかかわらず
私たちがとれる方策として
「お茶を飲んで」「外は寒い」「また今度」などと
話をすり替えてはいないだろうか?

「帰りたい」という気持ちを聞くのではなくて
「帰りたい」という言葉を言わせないように
しているのではないだろうか?

それって
本当に「認知症のある方に寄り添ったケア」なのか?
自己欺瞞に陥って悩んでいる人は少なくないだろうと思う。
違うかな?

自己欺瞞に陥るのがイヤだから
理念と実践の乖離について、自覚しないで済むように
気がつかないようにしている。
そういう人も少なくないだろうけど。

現実の要請として
自覚的に時間稼ぎをする場合だってあると思う。

問題は無自覚に
「認知症のある方に寄り添ったケア」と言葉で語りながら
行動として真反対のことをしている場合だと感じています。

認知症のある方にとっても
ケアする人にとっても
良いことはない。

問題を抑圧して、見えなくしているだけ

認知症のある方に能力があれば
問題の抑圧に協力してくれることもあると思う。
でもそれは、認知症のある方が私たちに寄り添ってくれているから
成り立つ対応なんじゃないかな。

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入り口の扉を開ける

記憶のトレーニングが逆効果

認知症のある方が
鍵のかかっているドアをガタガタ思いっきり引っ張っている。

その時に
大抵の人は
結果として起こっている「ドアをガタガタさせて力づくで引っ張っている」ことだけを見て
「ドアが壊れちゃう」「そんなに引っ張ったらダメ」と言ってしまっていると思う。
そうすると
「何言ってるんだ!」と怒鳴られたりしてしまう。。。
臨床あるあるだと思います。

「思いっきり」引っ張っている、その強さは
その人の意思の強さなんです。

何もわからなくてドアを壊そうとしているわけではない。

だからといって
為すがままにさせておけば、器物破損、場合によってはケガやもっと大きな事故に至りかねません。

私は、否定でもなく肯定でもない第三の道を模索します。

「どうしたんですか?」
オープンクエスチョンで率直に聴いてみる。

「このドアが開かないんだよ」

そう答えられたら
大抵の人はまた「このドアは鍵がかかって開かないんですよ」と答えていると思います。

本当は尋ね返さないといけない。

「このドアを開けてどうしたいんですか?」

「早く外に出たいんだよ」

そうするとまた
大抵の人が「まだ外には出られないんですよ」と答えていると思います。
そこで「なんで出られないんだよ!」と怒鳴られたりしていませんか?

本当はもっと聴き返さないといけなかったんです。
その人の本来の意図を。

「早く外に出て、どうしてもやりたいことがあるんですね」
「早く外に出て何がしたかったんですか?」

そこで初めて認知症のある方は
本来の意図を言葉にして伝えてくれる。
例えば
「子どもを探しに行かなくちゃいけないんだよ」
「お母さんが具合が悪いから早く行かなくちゃ」

それだけ強くご家族のことを心配しているのだという気持ちは伝わってきます。
イマ・ココの事実ではないけれど
心配しているという気持ちを今抱いていることは
紛れもなくその人にとっての事実なんです。

ここまで聴いて初めて
目の前にいる人の気持ちに触れることができる。
表面的に起こっているドアをガタガタさせて引っ張るという行動だけを見て
その行動を修正しようとしたりやめさせようとしても
効果がないどころか、逆効果にしかなりません。
お茶をどうぞと薦めたり、外は寒いからとその場をしのぐ声かけをしても
効果がないのも理解できますよね。

認知症のある方は
自分でなんとかしようとして行動しようとしている。
そしてその行動の本来の意図、目的をなかなか言葉にすることはないけれど
聴いてくれた人には答えることができる。
その意図、目的がその人にとって切実であればあるほど言葉にはしないものです。

それだけではなくて
聴いてくれた人の意図を敏感に察知・感受するものです。
「自分を助けようとしてくれているのか」
「指示に従わせようとしているのか」

そういう体験をしている人はきっとたくさんいると思う。
ただ明確な言語化ができにくいだけで。

入り口の扉を開ける

私たちは扉の取っ手を手にはしているのだと思う。
でも、自動ドアではないのだから
取ってに触れただけでは扉は開かない。
扉の取っ手を持って開けなければ。

えてして
私たちは
入り口に立つこともなく
扉を開けることもないのに
見てもいない扉の向こう側の景色を想像で語っている
そんな現状も多々あるのではないでしょうか。

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入り口に立つ

今、目の前にいる方に
何が起こっているのかを知るためには
聴こうとすることが入り口に立つことになる。

一見不合理に見える言動を
表面的に何とかしようとして対応しようとしてしまうと
相手の「本来の意図」を受け止める以前に
「本来の意図」を否定するという変換されたカタチで
伝わってしまうことになる。

そりゃ怒られますよね。

でも、だからといって
不合理な言動を介護者側が我慢する、受け入れる
というだけでは、適切なケアのあり方として違うと思う。

今、本当に求められているのは
結果として起こってしまっているコミュニケーション不全の健全化だと考えています。

そのためには
「聴いてみないとわからない」のだから
聴こうとすることだと考えています。

聴こうとすることが入り口に立つことになる。

そして
入り口の扉を開けるためには
相手に届くカタチで聴くことができるようになることが必要で
届くカタチで聴けないために
扉が開けられなくて困ってしまっている人が多いのではないでしょうか。

このような現実に無自覚だと
自分が届かないカタチで聴いているから
扉が開けられないだけなのに
認知症のある方の病状のせいにされたりしてしまう。

本当は
届くカタチと届かないカタチがあるのだから
届くカタチで聴けばいい。

「認知症だから何もわからない」という風潮から
一気に真逆の
「認知症でもできることはたくさんある」という風潮に変わり
全か無か、まるで全否定から全肯定というような極端な抽象論は語られても
目の前にいる人に対しての
具体的な理解の仕方の根本にある、有効な考え方については
明確化されてきていないから
真摯な人ほど、実は内心戸惑ってしまうと思うし
そこでまた、有効な考え方がないから
ハウツーやその場しのぎに引き戻されてしまうような現状に
なってしまっているのではないでしょうか。

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これから

切実に困っているからこそ
口ではどうこう言ってはいても、
結局のところハウツーやその場しのぎが求められてしまうのだろうと思う。
気持ちとしてはわかるけれど
それは逆効果にしかならないんですよね。。。

認知症のある方にとっても
ケアする対人援助職自身にとっても

本当に
「認知症のある方ひとりひとりに寄り添ったケア」を実践したいと願うならば
まず必要なことは
知識の習得と現実に起こっている事象の観察と洞察

つまり
「目の前にいる方に何が起こっているのかを知る」ということです。
「目の前で起こったことをどうしたらなくせるか」ではなくて。

技術と理論はその次に要請されるものだし
ハウツーやその場をしのぐことは、
まったく別の次元として現実的な要請から為されているものです。
なのに、ごっちゃにしてモノ言う人が大勢いる。

問題はごっちゃにしていても、今、すぐに
そのマイナスがマイナスとして目立ちにくいことにあると感じています。
だから論理的整合性のなさがわかりにくい。
目立たないからといって、ないわけじゃないのですが。。。

そういうことがわからない人はヤマほどいる。

感情記憶は残るから、陰性感情、信頼感の低下として蓄積していかないはずがない。

食事介助のスプーン操作において
不適切な操作をしたって、今すぐその場には、生命に直結するような問題が現れるわけじゃない。
でも、確実に誤介助誤学習としてのマイナスが積み重なっていく。

同じことが違うカタチで現れているだけ。

声高に叫ばれる理念と乖離する実践との狭間で
苦しんでいる対人援助職の人は少なくないだろうと思う。

私は理念を語るのではなく、実践を通して具現化できるようになりたい。
そして困っている実践者の役に立つように
ひいては認知症のある方とご家族の余分な困難を少しでも少なくできるように
抽象化・一般化・言語化できるようになりたい。

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見れども誤解している

障害と能力の知識がなかったり
観察力と洞察力を磨いていないと
目の前にいる方が何をどうしているのか
「自分に観えない」ために
結果として現前する「能力低下」しか観ることができなくなってしまいます。

そして多くの場合に
認知症のある方のほうから
「私はこうしてこうしようと思ったのだけれど何をどうして良いかわからなくなってしまった」
と言葉にして、ご自分の行為を説明してくれることはありません。

そしてまた多くの場合に
スタッフも認知症のある方に対して
「ここをこうしようと思って困っていたのですか?」
と言葉にして尋ねる人も滅多にいないものです。

現に目の前で起こっていることを
見れども観えず、どころか
見れどもわからず、という自覚すらなく
見れども誤解している。になってしまっています。

認知症のある方の立場にたてば
不当な判断・認識・対応をされている
ということになってしまいます。

そのような現状に対して
「認知症のある方の言動を否定しない」「優しく親切に接する」
というスローガンだけでは方向修正が効きにくいと感じています。

現状に対して
何かどこか違う。という違和感を感じている人は
たくさんいるんじゃないかと思う。

現状突破の切り口は
障害と能力の知識を習得する
その知識を活用して観察力と洞察力を磨く努力をする
ことにあると確信しています。

作業療法士であれば誰でもできるとは思いませんし
(私だってまだまだですし)
作業療法士以外の職種の人だってできるようになるとも思っていますが
養成の特性上、作業療法士が一番近道にいることもまた感じています。

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