Tag: リハビリテーション

日精看「ナーシング・スター」11月号見てね

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日本精神科看護協会の「ナーシング・スター」
私が実践している食事介助に関する記事が掲載されました!

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関連職種に聞こうという企画の中で私も登場することになりました。
11月27日(日)の日本精神科看護協会学術集会での実践セミナーに関するPRも兼ねてくださっています。
ありがたい限りです。

私たちが食事介助を変えるだけで対象者の方の食べ方が変わります。

認知症治療病棟に入院される患者さんはモチロンですが
精神科療養病棟に入院されている高齢患者さんの中に食事介助が必要な方が増えてきていると思います。

ところが、残念なことに
精神科作業療法に従事している作業療法士が
「食事介助に詳しくない」
「ポジショニングに詳しくない」
ということで看護師さんも相談にのってもらいたいのにのってもらえなくて困っている
という声を聞くことがあります。

精神科作業療法に従事している作業療法士にも諸般の事情があるのだと思います。
診療報酬の枠内でいろいろなことに対応するためには物理的な限界もあるでしょう。
でも、それって精神科に限ったことではありません。
身障系でも診療報酬の枠組みが大きく変わり、そのことへの対応が迫られました。
介護保険の分野でも、大きな変更がたびたび行われ、その都度対応が迫られています。
チャレンジを続けるのは、どの分野でも同じです。

もし使えるようでしたら、この情報誌を活用してくださいませんか?

看護師さんは、「こんなことしてる作業療法士がいるんだって」と
腰の重い作業療法士のお尻をひっぱたいてください。
作業療法士は、「こんな風に変わるんだそうです。試してみたいんです」と
看護師さんにはたらきかけてみてください。
もしかしたら黒船効果?として機能して第一歩を踏み出すことに寄与できるかもしれません。

それは私にとっても嬉しいことです。

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臨床あるある(座り方↑ // 立上がり↑)

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たとえ、自力では立ち上がれない人でも
座れないという人は非常に少ない。
ただ、その座り方が後方へひっくり返るようにドシンとなってしまうけど。

こういう場合には
立ち上がりは重心の移動方向に気をつけた全介助で行い
座る練習を恊働して行います。

言語的指示は
「音がしないようにそーっと静かに座る練習をしましょう」

最初はお一人ではできないので
座る時の重心の移動方向の練習を動作介助も含めて行います。

たいていの場合に
体幹の前傾と前方への体重移動が困難なことが多いので
腰部を伸張するように気をつけて介助をします。

そうすると
だんだんと肩甲帯のretractionを起こさないように軽介助するだけで
音がしないようにそーっと静かに
つまり重心の移動方向を自分で気をつけて座ることができるようになります。

それができるようになると
立ち上がり全介助だった方が軽介助で
立ち上がり軽介助だった方は自力で
立ち上がれるようになってきます。

(続く)

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sensitiveにcoolに

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ある人に
「よっしーさんは理系ですからね」
と言われたことがあって内心ビックリしたことがあります。

いやー高校の時は理系苦手でした。。。
でもある時に数学の美しさに触れて感動して
「年とってから数学にハマると大変だからやめておきなさい」と言われ
なんとなくわかる気がして老後の楽しみに封印してるということは言ってないはず。。。

私が仕事で認知症のある方に接する時には
ものすごく感覚と感情を使ってる。
でも、何が起こっていたのか判断する、どうしようか考える時には
できるだけ論理的であろうと努力している(つもり)

講演などで誰かに伝える時には
なるべく明確に論理的に伝えようと努力している(つもり)

恥ずかしながら白状すると
私、すごく涙もろいんです。
子どもが小さい時に、ドラえもんの映画を観に行って自分が泣いてたくらい (^^;
でも、というか、だから、というか
私、お涙頂戴はキライなんです。
公私ともに。

認知症のある方への対応の話って
なぜだか、感動路線に流されやすい部分もあるのよね。
そういう講演構成にしてる人もいるし。
それを求めて聞く人もいるし。
「泣く=良い」と判断する人もいるし。

でも、そんなことしたって
明日からの臨床の役には立たないのになー。
自分の困りごとも認知症のある方やご家族の困りごとも解決できないのになー。

だから、私は講演で感動路線は微塵も狙わない。
考え方や対応の提案も毒を吐く時も理詰めで吐きます (^^;

inputもoutputもsensitiveに
思考はcoolに

そういう在りようってカッコいいもん。
私の憧れです。

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臨床あるある(座る練習>立ち上がり)

我慢のしどころ

騙されたと思って、やってみてほしい。です。

ご自身で立ち上がりができない方に対して
立ち上がりの練習をする時に
まず、最初は
頑張って立ち上がりを練習するのではなくて
座る練習をする
立ち上がりは全介助で重心の移動方向に注意しておこなう
という方法です。

以前にこのブログのどこかに書きましたけれど
随分前なので、探すのも大変だと思います。
(そんなワケで今書いています ^^;)

この方法はいくつかポイントがあるのですが
肝心なことは、
過剰努力をさせるから
立ち上がりの練習をしているのに立ち上がれるようにはならないし
できるけれど腰痛を発症するとか回数を重ねるとできなくなってしまうので
過剰努力をさせないということと
できることのでき方を良くすると、できないことができるようになる
というところにあります。

(続く)

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手段の目的化

ちょっと待った

あちこちで起こっています。

手段の目的化

たとえば
現在の作業療法の世界で流行していることは
かつての作業療法からブラッシュアップさせたいのかもしれないけれど
それだと作業療法士のスローガンの実践になっちゃうんだよね。

手段の目的化という観点でみれば
同じことが違うカタチで繰り返されてるだけになってしまって
本質的な問題は、解決されないどころか結果として、より曖昧なカタチで隠蔽されてしまう。

問題の本質は
評価と目標設定にあるのに。

基本的すぎて
当たり前すぎて
問い返されることがほとんどないけど

現実問題として目標設定を適切に行えてる人がどれだけいるのだろう?
臨床家でも教育家でも、目標と目的と方法を混同している作業療法士は少なくないし
しかも、多くの場合にそのことに無自覚だったりする。

「認知症は難しい」「どうしていいかわからない」
という声もよく聞きますが、難しいのは対応や作業療法の提供ではなくて
本質は、認知症のある方の評価を適切に行うのが困難だというところにあるし
現状では、評価ができるように教えてもらえる機会がほとんどないというところにある。

そして
それは認知症にだけ起こっていることだろうか。。。?

本質からのすりかえ
手段の目的化

もしかしたら、人ってそういことに取り込まれやすいのかも。
もしかしたら、私も気づかないままに取り込まれているのかな?

それはイヤだ。

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臨床あるある(昔とった杵柄の意味)

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スティーブ・ジョブズは言いました。
「人は形にして見せてもらうまで自分のほしいものがわからない」

だから、アップルは他社とは違って
敢えて、商品開発のための事前の市場調査を行っていなかったんだそうです。
そのかわり、発売した製品の使い勝手などのモニタリングは徹底して行ったとのこと。

なるほどー。と思ったものです。

Mac OSやi Macやi Phoneが世に出て初めて
「こんなのがあったらいいなーと思ってたんだよ」とは言えても
商品化される前に具体的なイメージができていた人は圧倒的に少なかったと思います。

作業選択だって、そういう場面にはよく遭遇しています。
だって、重度の認知症のある方には
昔とった杵柄をそのまま適用はできませんもの。

「かつて」好きだった、得意だったことが
「今も」そのままできるとは限らない。からです。

でも、昔とった杵柄がそのままできないからといって
まるきり、意味がなくなるわけでは決してありません。

昔とった杵柄と同じ要素を違うカタチで提示するといいんです。

初めて行う作業であったとしても
集中して行えるし
綺麗にできるし
満足感も高いし
何よりも重度の認知症のある方自身が
自分で在ることの意義を言葉ではなくて体験を通して再確認できる。

Re-Habilis の体験をすることができる。

それら一連の過程を言葉ではなくて
体験を通して確認・恊働することができる。

その援助ができるのが、作業療法士の作業療法士たる所以なのだと感じています。

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作業のもつ非言語的側面

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プロとして
作業を扱えるのが作業療法士であるならば
作業のもつ非言語的側面についても
明敏であることが求められると考えています。

評価法にしても
理論にしても
治療論にしても
欧米で発祥したものを日本に導入する
ということが多いですよね。

モチロン、それはそれで
学問としての作業療法の発展に寄与できるのだから
導入することにはやぶさかではありません。

でもそれらが
臨床として常に日本人の対象者に有効かというとどうなんでしょうか。

根本的に文化、在りようが異なっているのに
そのまま適用できるものなのでしょうか。。。

欧米流の明晰さ論理性や自己認識に関する在りようと
日本人に深く浸透している非言語的な感知や伝達や自己認識の在りようについて
臨床心理学者の河合隼雄は下記のように指摘しています。
「まずはその違いを認識し時間をかけて第三の道を模索することが否応もなく求められる」と。
それは、作業療法の世界においても同じだと感じています。

作業療法士が本来取り扱う作業-occupation-は、決して表面的なものではないと考えています。

河合隼雄が手段として用いてきた箱庭−言語と非言語の中間−という媒体の有用性と
その場に臨床心理士がいることの意味については
作業療法にも通じる部分があると感じています。

時代は、活動・参加へとなだれをうって動いています。
その経緯の問題は心身機能へのセラピストのこだわりではなくて
本質的には目標設定の不適切さや手段の目的化の問題であって
心身機能よりも活動・参加の重視といった誤解は問題のすりかえに過ぎないし
セラピストの先達がさまざまな困難の中にもかかわらず
積み重ねてきた知識と技術の伝承の危機に陥ることになってしまいかねません。
そんなことになってしまったら不利益を被るのは他でもない対象者の方です。

時代の要請は、チャンスでもありピンチでもあります。

活動・参加が注目されている今
本当に求められているのは作業療法士の作業療法士たる所以なんだと考えています。

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「言ってくれなきゃわからない」

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私の大好きな「ゲド戦記」に
コケばばが語るこんな言葉があります。

「(略)
いいですかね、もしわしの顔にちゃんと目がありゃ、わしにはおかみさんに目があるのがわかる。
そうじゃないですかね。もし、おかみさんが目が見えなくても、わしにはそれとちゃんとわかる。
もし、おかみさんがあの子みたいにひとつしか目がなくても、反対に三つ目があっても、それもこっちにはわかる。
だけど、わしのほうに見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。
(略)」
ー ゲド戦記 最後の書 帰還 p.81より ー

相手に言葉にして尋ねることも言葉にして確認することも大切で必要だけれど
言葉だけに頼ったり強調されたりするのは、臨床的な意味でどうかと思う。

1つには言ってもらわないと、わからないのはどうかと思うし
もう1つは言葉以外の聴き方や確認をとりこぼしてしまうおそれがあると思います。

そういうことって
もう既に起こっているように感じられてなりません。

私たち作業療法士が扱う作業の本質としてのoccupationは
言葉によって分離されたものではない。
言葉も言葉以外のものもすべて包含した「場」のことです。

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