Tag: リハビリテーション

信頼の重み

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対象者の方に
ご家族の方に
一緒に仕事をしている人に
信頼されることは嬉しい。

信頼には信頼に足る結果で応えたい。

そして、その重みを思う。

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作業療法士だからできる

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私たちには大きな武器があります。

言葉だけに頼らずに「対象」と「場」を活用できます。

最初に言語を中心としたやりとりで「何を」するのか決める「場」を設けることは重要です。
でも、その「場」を言語だけに限定するのは、もったいないです。
それでは認知症のある方に対して不利益にしかなりません。

言語以外の方法で「何を」するのかを
認知症のある方と「相談」し合うことは可能です。
それはおそらく作業療法士が一番の近道にいる職種です。

そういうことができなければ
少なくとも、認知症のある方に対して適切な「活動・参加」を決定できなくなってしまいます。
決定する過程への参加の機会が保証されなくなってしまいます。

それで本当に良いのでしょうか?
認知症だから仕方がないことなのでしょうか?

私は決してそうは思いません。

状態によっては
HDS-R 0/30 点の方でも
「適切な」Activityを「恊働して決定する」ことは可能です。

私は作業療法士として
認知症のある方に対して
他の疾患の方が保証されている決定過程への参加と選択について、
認知症のある方にも同様の権利が保証できるような方法論の1つとして提案します。

言葉だけでは想起できない
絵カードでも再認できない
けれど体験を通してなら再認できる

そのような体験を私はたくさんしています。
それは私が作業療法士だからです。

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特性が良い方向に現れるように

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それから
認知症のある方の
特性が良い方向に現れるように
もう一度Act.を再設定します。

この時に特性を「形容詞として詳細に把握」できていると
Act.再設定が容易になります。

「丁寧」と「きっちり」と「慎重」では意味合いが異なります。

仕上がりは、どれもみんな綺麗に仕上がるでしょうけれど
その綺麗さは、何によってもたらされたものかを明確化しておくことが大切です。

Act.には、通常複数の側面があるものです。
認知症のある方の「対象への向き合い方」が最前景となるような側面のAct.の中から
その方にできるものを選択します。

たとえば
丁寧に作業する人には、切り紙
きっちりと作業する人には、メモ帳作り
慎重に作業する人には、三つ編み
など(モチロンこれらは一例に過ぎません)

そうすると
「対象への向き合い方」にピッタリと当てはまった時には
必ずといっていいほど
過去の何らかの関連づけられた体験を想起し言語化されます。

その言葉は大きなヒントになりますから
そのヒントをもとにさらに再設定したり継続したりを最終決定します。

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特性をフィードバック

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認知症のある方の
Act.という「対象への向き合い方」をよく観察して
その向き合い方の特性をフィードバックします。

人によって向き合い方は、さまざまです。
早く
たくさん
丁寧に
慎重に
きっちりと
などなど全然異なります。

「手早く為さるんですね」
「もうこんなにたくさんできましたね」
「ていねいに為さったのでとてもよい仕上がりになりましたね」
「間違えないようにとても注意深く為さっていましたね」
「きっちり作られたんでぴしっとできましたね」
などなど。。。

時には
認知症のある方がニコニコして「綺麗ねー」とおっしゃってる時には
私も「わー綺麗。すっごい綺麗。」などと言うこともありますが。

認知症のある方の
「対象への向き合い方」が現れる行動をよく観察する。
認知症のある方の
注意を向けているその向け方に着目して言語化する。

ただ単に
作った、できた、よかった、上手…ではなくて
その過程への向き合い方を理解し、受けとめたということを言葉にして伝えます。

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特性を評価:形容詞の詳細化

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認知症のある方へAct.を提供する時には
特性を重要視した選択をします。

まず、こういう傾向のこういうAct.だったら
特性に合致してるし、できるだろうなーという見立てのもとに
ハズレないカンタンにできるものを提供します。

最初から、ぴったりハマるAct.を提供することはないんです。

だって、認知症のある方は
たいていの場合、失敗体験・喪失体験を繰り返し体験されてきて
しかも、多くの場合に、その時に適切な援助を受けられなかったことが多いので
「何かする」とりわけカタチになって結果が明確に残るような手工芸系のAct.には
ものすごく強い不安感を示されて
結果として「何もできない」「わからない」と拒否されることが多いです。

だから、最初のAct.は
その方の特性に沿ったもので
「あら、カンタンにできたわ」「ラクにできた」
と感じられる程度のもの「が」いいんです。

そして、私は
そのAct.を通して評価をします。
「どんな風に」行うのかを観察します。

人によって「どこに」力点をおいた行い方をするのかは異なります。
ひと言で言うなら形容詞の詳細化の過程です。

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「私の名前なんて覚えてなくていいんですよ」

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認知症のある方に
私はいつも言っています。

「私の名前なんて覚えてなくていいんですよ」

私がこういう風に言う前にたいてい
認知症のある方がこんな風におっしゃるんです。

「あら?あなた誰でしたっけ?」
「前にもお会いしましたっけ?」
「ごめんなさいね。私バカだからわかんなくて」

そこで
「私の名前なんて覚えてなくていいんですよ」
といつも言っているんです。

だって
認知症のある方が一日暮らすだけで
どんなに日々気をつけながら暮らしているのか
その一端は私にもわかります。

私の名前なんかより
認知症のある方が覚えようとしなくてはならないことがたくさんあります。

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感情と感覚に

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認知症のある方に関わる時に、気をつけていることがあります。

それは
症状が進行すればするほど
感情と感覚に対して、はたらきかける。ということです。

だからといって
「あなたの今の感情は?」
「どう感じましたか?」
と尋ねるわけではありませんし
挨拶するたびに手を握ったりするわけでもありません。

認知症のある方が
感情や感覚を言語化しやすいように
言語的・非言語的コミュニケーションをしていきます。
その時その場のその関係性において行われることです。

イマ、ココで
感受されるのが「感情」と「感覚」だから。なのです。

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真贋の見極め

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私が尊敬する群馬大学の岩崎清隆先生が
かつて、機関誌のあとがきで
ある骨董屋さんのお話を書いていらっしゃいました。

「小僧さんには本物しか見せない。
本物だけがもつ品の良さがなんとなくわかってくる」

私がずっと大切にしている言葉です。

本物を知らなければそうでないものとの区別がつかない。
そうでないものしか知らなければ本物の良さがわからない。

本当にそうなのだと思います。

とこや談義のような、評価もどきしか教えてもらったり体験したことがなければ
本当の評価とは何ぞやということがわからない。
評価と評価でないものの区別がつかない。

だから
結果として
巷間取りざたされる事柄をそのまま援用したり
流行している方法論をそのまま適用したりすることしか
できなくなってしまっている。ということはないでしょうか。

でも
それで対象者の方が良くなるはずがないのは当然の帰結です。

評価ができなければ評価ができるようになるしかない。
評価を適切に行えるために情報収集ができるようになるしかない。

そこは
私たちが悩んだり、考えたりするところじゃなくて
行動するところなんです。

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