Tag: リハビリテーション

臨床あるある(昔とった杵柄は要注意3)

ちょっと待った

もうひとつ、根本的に見落とされていることがあります。

人は明確に「やりたいこと」を希求して生きている人ばかりではない
ということです。

人によっては
「求められていること」をやることに重点を置くタイプの方もいますし
「生きること」「暮らすこと」に必死だった方も大勢おられます。

そういった方に
「やりたいことを尋ねる」だけでは、たとえこちらが意図していなかったとしても
その方の生き方を結果として否定してしまうことにもなりかねません。
少なくともそのように受けとめられる可能性については事前に十分に考慮しておく必要性があります。

こういうことを言うと
「認知症のある人は、そんなことわかんないでしょう」と言う人が出てくるものですが (^^;
そう言う人は認知症という病気の理解ができていないから、そんな風に言えるんです。

認知症のある方ご本人が「バカになった」という言い方をよくされますが
決して「バカ」になったのではありません。
あくまでも「障害」として、
新しいことが覚えられなくなったり、遂行機能障害が出てくるだけで
「判断力」の全てを喪失したわけではありません。

「やりたいことは何ですか?」と尋ねて答えられない方に対して
「やりたいこと」を想起しやすいような工夫は必要です。
そうすることによって答えられるようになる方もたくさんいるでしょう。

でも一方で
暗黙の前提要件となっている
「人は、やりたいことを明確に希求して生きるものだ」という命題は
本当に吟味されてきたのでしょうか?

この前提となっている命題は、本当に万人に当てはまるものなのでしょうか?

そもそも
「やりたいことをやる」のは何故なんでしょうか?
「作業をすることで元気になる」のは何故なんでしょうか?

「やりたいことができるようになって嬉しい」ということは
単に表面的な意味だけなのでしょうか?

活動・参加に大きく旗が振られるようになった今
「何をするのか」という根拠が求められています。
その1つに本人のやりたいことをもってくることは、よくわかります。
いろんな意味で。

でももう一歩深く考えてみれば、
目をつぶってきた本当には、わからないことがあったりするのではないでしょうか。

もしかしたら、必死になって「やりたいこと」を探すことによって
もう1つの本質的な問いかけを避けていたりはしないでしょうか。

「やりたいことはない」
この答えにその方の一端が現れてもいます。
それなのに、やりたいこと探しから始めるのでしょうか。。。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/2722

臨床あるある(昔とった杵柄は要注意2)

ちょっと待った

臨床上、圧倒的に多いアルツハイマー型認知症のある方は記憶の連続性が低下していきます。
病状の進行に伴い、遠隔記憶が保たれていても近時記憶は低下していきます。
いわゆる、昔のことは覚えていても最近のことは覚えられないという状態像になります。

認知症のある方に
「何かやりたいことはありますか?」
「得意なこと、好きなこと、趣味は何ですか?」
そう尋ねられて答えるのが、かつて若い頃に得意だったこと、好きだったこと、趣味だったりしますし
「今は何もできないから」「今は何もしていないし」
そう答える認知症のある方に「かつて」のことを尋ねる作業療法士だっているでしょう。

こんな風に尋ねることそのものは悪いことではありません。
でもその答えをそのまま鵜呑みにしてActivityを提供するのは考えものです。

「かつて」は、好きだった、得意だった、趣味だったことが
「今」も、同じようにできるとは限らない。からです。

アルツハイマー型認知症のある方は
多くの場合、当初は記銘力低下が主体で構成障害や遂行機能障害は目立たないことがよくあります。
ある程度、病状が進行するとそれらの障害も進行してきます。
そうすると「かつて」できていたことも「今」できなくなる、混乱することになってしまいます。
基本的なADLが自立していても、このような状態像になってくることが少なくありません。
つまり日々それなりに内心不安を抱えながらも巧みに回避しながら暮らせていたのに
何か作る段になって明確に失敗体験に直面してびっくりしてしまう。ことになりかねません。

また、提供者側が構成障害や遂行機能障害について無頓着であると
こういった失敗体験の意味がわからないまま「優しく」「丁寧に」「怒らないで」対応しようとして
かえって傷を広げてしまうことにもなりかねません。

同じ脳の病気によって障害が起こる脳血管障害後遺症を考えるとおわかりいただけるかと思います。
動かない右手で、かつてしていた趣味を提供してみたら、できなかった方に対して
どんなに優しく、丁寧に、怒らないで接したとしても、できないという状況は何も変わりません。
こんな時にそのまま提供し続けるでしょうか?
方法を変えることが容易であれば、「異なる方法」で行うという選択肢もありますが
認知症が進行していると「新たな方法」つまり「同じことを違う方法で行う」ことを学習することは困難です。
このような状態でも、そのまま提供し続けられますか?

「やりたいことを尋ねる」ことは必要不可欠です。
でも、認知症のある方の場合に
その尋ね方が言葉に頼り過ぎていると、結果として逆効果になってしまうこともあります。
認知症という病態に起因することなので、十分に気をつけることが求められます。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/2721

臨床あるある(昔とった杵柄は要注意1)

IMG_0519

多かれ少なかれ経験している人は少なくないと思います。

昔とった杵柄
手続き記憶の活用
としてActivityを選択する。
あるいは認知症のある方から「やってみたい」「昔は好きだった」と言われて提供する。

ところが、実際にやってみたら
上手にできない。ほとんどOTRがやっている。表情も険しくなる。怒り出す。。。etc. etc.

認知症の状態が軽い方であれば、こういうことは少ないかもしれませんが
ある程度進行している認知症のある方には要注意なんです。
昔とった杵柄は意味がないというわけでは決してありませんし
病状が進行した認知症のある方はActivityができないというわけでもありません。
(HDS-R0/30点の方でも、いわゆる「意味のある作業」が遂行可能な方もいます。
個人的にはあんまり使いたくない言葉ですけど ^^;)

ただし、「要望を聞く」「やりたいと言ったことをやる」という観点でしか対応できないと
結果として、認知症のある方に逆効果を招きかねません。
(認知症という病態を考えれば当たり前のことなんですが。。。
このことに関しては後日詳述します)

認知症のある方は
一日暮らすだけでも、日々さまざまな困難に遭遇し
失敗体験や喪失体験を重ねていることも少なくありません。

プラスアルファとしてのActivityで
失敗体験や喪失体験の反復・強調体験を
たとえ、結果的にであったとしても、させてしまうことだけはないように
どんなに気をつけても気をつけ過ぎることはないと感じています。

ヒポクラテスが言ったように
「まず、第一に患者を傷つけないこと」

良かれと思ってスタートするのではなくて
悪いことをしないように気をつけながらスタートする

これは私の流儀ですから、別に周囲は関係ないのですけれど
昨今の風潮を眺めていると、ちょっと声高に言いたくなる時もあったりします (^^;

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/2716

講演@CM 県西地区

IMG_0446

昨日、県西地区のケアマネージャーさんに
「認知症のある方の状態をどう把握するか」という内容でお話をしてきました。

お忙しい中、参加してくださったみなさま、どうもありがとうございました。
窓口となってくださったYさん、どうもありがとうございました。

私の今日のお話が、ケアマネさんのこれからのお仕事に役に立つように
ひいては、認知症のある方とご家族の方の余分な困難が少しでも少なくなることに寄与できるとしたら
私は本当に嬉しく思います。

実は、今回、どのポイントでお話をするか…ということで、ちょっと悩みました。

基本的にお伝えしたいことは
どんな方が対象であったとしても同じですが
伝え方や伝える内容は対象となる方によって変えています。

ケアマネさんだから
直接業務ではなくて状態把握が主なお仕事だと考えて
・視点の転換:能力があるからこそ生活障害やBPSDが起こる
・状態把握:事例を通して説明
・意外と知られていないコミュニケーションの工夫
といったあたりに的をしぼってお話してみたけどどうだったかなぁ?

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/2701

注・車いすブレーキ延長

img_0224

ほとんどの人が気をつけているとは思うので老婆心ながら。。。の記事です (^^;

車いすのブレーキを延長しようとして、ラップの芯をブレーキに差し込むことってよくありますよね?

たいていはそれで問題が解決するけど
たまに、かけたはずのブレーキがはずれてしまう。。。ということはありませんか?

そういう時に、車いすを使う方がうまく力を入れられなくてはずれちゃうんだろう。。。と判断する前に
念のために確認することも大切です。

たとえば上の写真。
ブレーキをかけたはずなのに、はずれてしまいます。

で、確認してみると。。。

img_0223

ちょっと見にくいかも。ですが、元のブレーキレバーはこういう状態でした。
あぁ、納得!
これでは、はずれてしまいます。

延長した筒状のものは、斜めにささっているので
斜めの筒を後方に倒しても、中にある元のレバーには後方への力が伝わりにくいんです。

img_0222

そこで提案としては
延長する筒状のものが斜めに倒れなければ、中のレバーに力がちゃんと届くので
例えば、この写真のように内側に切れ込みを入れたり
もしくは、斜めの筒の内側に粘土か何かを詰めて筒がまっすぐに立つように工夫をしたり
ということをしておけばOK☆

お金をかけずに、手元にあるもので工夫することって大切ですけど
その工夫が有効に機能しているかどうか
最後まで確認することも大切ですよね。

あらためて
PDCAをきちんとまわすことの大切さ
地味なことだけど、当たり前のことを当たり前にすることの大切さ
を思いました (^^)

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/2695

菅先生のご講演に希望と可能性が

IMG_0442

先日開催された小田原歯科医師会主催の研修会で
鶴見大学歯学部高齢者歯科学講座の菅武雄先生のご講演を拝聴しました。

大変明解でそれでいて先生の対象者のためにというお気持ちが伝わってくる
とても素晴らしいご講演でした。
先生のご講演を伺うことができて本当に良かったと思います。

中でも、先生と歯科衛生士さんが開発された「口腔咽頭吸引」という方法は
唾液誤嚥のある方にも「食べる」可能性を切り開く大きな技術だと感じました。

私は唾液でムセなければ重度の認知症のある方でも食べられるようになる。とは確信していましたが
唾液でムセてしまうような方には経口摂取をチャレンジできていなかったので
もし、この技術を習得できれば経口摂取への可能性がぐんと広がります。

横浜では、もう口腔咽頭吸引が当たり前になっているとのこと
素晴らしい実践が当たり前に展開されていると聴いて驚きました。

これはもう勉強するしかありません!

これからに希望と可能性を感じられるご講演でした。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/2671

研修を消費しない

ちょっと待った

DFJ Summit 2016 に参加して思ったことは
「明日につなげる」工夫をちゃんと取り入れているとことでした。

2日間の日程のうち、半日しか参加していない私が言うのもナンですが
締めのセッションで「Action計画」として、これからどうするのか
自分で考えて小グループで発言・共有化して最後に全員の前で発言。という進行。

前日のセッションのグループワークの結果が張り出されていたのですが
そこに「じゃあどうしたらよいか」を考える書式になっていたり。

本当にそこが大事。ですよね。

時折、研修は研修で、日々の臨床は臨床で、と切り離してる人がいる。
「あーよかった。良い話を聴けてよかった」でおわり。
明日からの臨床はそれはそれ。

研修のはずが、なんか「感動させてくれる」「楽しませてくれる」「よかった感にあふれる」ショーみたいになっちゃう。という。。。

あれれ?

研修を消費してしまっては、もったいない。です。

大切な中身を届けるためには、表現の工夫は大事。
どんなに良い中身でも聞いてもらえなければ、まさしくハナシにならない。

でも表現が刺激的だったり、笑いっぱなしだったり、過剰だったりすると
中身が通り過ぎてしまうことがあるんじゃないかと。
本末転倒という。。。

私は今、いろんな立場に立ってお仕事をしています。
時には、裏方の企画・運営
時には、講師として
時には、参加者として

立場が変わることで視点も変わり、それぞれ別の異なる立場への配慮もできるようになるので
これは役得だなーと感じています。

明日につながるような
研修を企画・運営したいし
そんな話を届けたい。

そういう心構えをカタチにする工夫の一端に触れることができたのも良かったです (^^)

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/2656

象徴的なできごと@実習

IMG_0516

学生を実習でお引き受けすると
必ず、実習開始直後に
学生さんの在りようを明確に示すような象徴的なできごとが起こります。
そして、実習終了する頃に
もう一度明確に示すような象徴的なできごとが起こるのです。

すべての言動には意味があるし
その言動には、学生さんの能力も困難も特性も現れているから
考えてみれば当たり前なのですが。。。

だから
実習開始直後に起きたできごとは
私が実習指導をするにあたり心構えを作ってくれるものになり
実習終了間際に起こったできごとは
いわば「卒業試験」みたいな意味合いをもつものなのです。

象徴的なできごとは明確に起こりますが
一見すると些細なできごとでもあります。

象徴的なできごとを受け取ることができるためには
私たちに明敏さが求められると感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/2645