Tag: リハビリテーション

チームワーク考:視点

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いろいろなところでお話をすると
決まってチームワークについてよく質問されます。

「多職種連携について、どうしたらいいでしょうか?」
「協力してもらうには、どうしたらいいでしょうか?」

どうも、セラピストには養成課程において
「リハスタッフの指導をありがたく受け取って実践してくれる看護介護職」
とでもいうようなイメージが刷り込まれているようで (^^;
「いくら説明してもやってもらえないんです」的な内心を吐露されることもあります。

あぁ大変なんだなぁ。。。とは思いますが
ちょっとその大変な感情は横に置いておいて。
何が起こっているかというと。。。

まずは
セラピストが頭の中で
「本来あるべきチームワーク」や「看護介護とのあるべき連携」とでもいうような
イメージを明確にこしらえている。という前提要件をしかと認識していただきたいです。

モノゴトを考える時には
まずは自分が無自覚に抱いている前提要件を意識化することって
とても大切なことだと考えています。

前提要件って、立場によって状況によって人によって異なったものを抱いていて当たり前なのですが
前提要件を明確化も共有化もしていないことを確認もせずに
その前提要件の上に立つ考え方や方法論を検討してもズレてしまっても当然でしょう。
と思うわけなのです。
案外、ここが盲点になっている人っていっぱいいると感じています。

その上で
職場の状況はさまざまで
いろいろな背景と経過があって今があるという認識をすること。

「他」部門の現状と今後を考えるのは
他でもない「他」部門のトップであって
自分という「他の部門の一個人」ではないということを認識すること。

こういうと抵抗を感じる人もいるかも。ですが
逆の立場で同じことを想像してみてください。
リハ以外の部門の一個人から
「リハでこうこうこうしてほしいんです」って仕事内容の変更を要請されることを。
ビックリしませんか?
もちろん、下話としてはありだし、希望としてもありだし
でも、要請としては「?」ですよね。
こういうことっていっぱいあります (^^;

ここで誤解のないように付け加えると
私は仕方ないから諦めろと言っているわけでは決してありません。

どんな関係性においても言えることだとは思いますが
相手の現状を否定しても良いことはない。からなのです。
だって「今」あるべくして「今」なのです。

今を否定しない。
あるべきイメージから差し引きマイナスで現状を見て判断しない。
今をそのまま認識して、今も良いけど今より良くなったらもっと良いよね。
という視点で積み重ねていく。
Bestを望むのではなく、Betterを積み重ねていく。
そういう視点が重要なのだと考えています。

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伝わるのは根底の考え方

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いろいろなところに出かけて
いろいろな方に出会えて
いろいろなお話を聞くことができるのは
とてもありがたいことです。

その人の主張されるお話を聴いていると
その人が言葉にしていない
根底にある考え方が透けてくるように感じます。

認知症のある方に対して
〇〇という方法論をとるというお話の前提として
その人は認知症のある方をこんな風に捉えている
だから〇〇という方法論をとるというお話をされているのだ
ということがよくわかります。

いろいろな立場があって
いろいろな考え方があるのでしょうけれど
私は信頼をベースに置いている考え方が好き。
性に合うんです。

紙は細部に宿りたまふ。
この考え方も好き。

私は作業療法士だから
「体験」をともにすることで
その人を理解しやすいです。

表現と実践
主張と考え方

逆に言えば
私自身もこんな風に書くということや話すという体験を通して
自分自身をさらしていることにもなるわけで
それは恐ろしい一面でもあるけれど
そういった体験を通して鍛えられている一面もまたあります。

自分自身の立ち位置という根本を
問い返され、吟味を要求される。

どうしたって表現の過程で
日頃の実践が透けてみえるわけで
問われているのは日頃の実践と
その実践を為すにあたっての自分の根本的な考え方なのだと
しみじみと感じています。

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自分が変われば世界が変わる

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その最たるものがスポーツだと思う。

でもリハの世界も同じ。だと思う。

結果を出すこと。

誰の目にも明らかなくらい
対象者の方が良くなるように
そんな関わりができるように。

モチロン、ないものねだりはできないけれど
埋もれていて表面に現れていない能力ってたくさんある。

講演後の質疑応答で必ずといっていいくらい受ける質問の中に
「多職種との協力関係をどうやって築いたらいいでしょう?」
というものがあります。

それはいろいろ気をつけることはたくさんありますが
巷間もろもろ言われていることよりも
まず、第一に自分がスキルアップすることだと伝えています。

対象者の方に対して
30%しかできない人の集まりの中で
もしも自分が50%できるようになったとしたら
他の人を50%に引き上げることよりも
自分が90%できるようになることの方が大切なんだと。

多職種との協力という手段は
対象者のためにという目的のため。
手段を目的化して本来の目的を見失ってはいけないと思う。

ここで対象者の立場に立ってみれば
30%できる人が9人いて残り1人が50%できたとしたら
50%できる人が10人になることを目指すよりも
9人が30%しかできなかったとしても
90%できる人が1人でもいた方がずっといいんです。

だって食事介助の場面だとしたら
その1人の時には
全然食べやすさが違います。
自分の能力がないせいではなくて
相手によって自分の食べやすさが違うという体験ができます。

自分自身への希望、信頼を実感できます。

たった1人が変わることで
その人にとっては世界が変わるも同然です。

そしてそのような関わりができたとしたら
その人の能力と可能性に目を見開かされるような体験になる。

人間って凄いな。
身体って凄いな。

それは私自身の励まし、支えにもなっています。

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かつての私

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なぜだか、今でもよく覚えていて忘れられないことの中に
臨床1年目の自分の姿があります。

To Do リストを作って
いつまでに何をするか書き出しておくけど
いっこうにそのリストが減らないどころか増えるばかり。。。

担当していた子ども達が毎日夢の中に出てきて
(その時には発達の分野で働いていた)
自分の知識と技術のなさに焦りまくり
手当たり次第に本を読み、研修に出かけ、気持ちばかり焦っていた日々

そんな私でした。。。(^^;

今でこそ
「仕事が早い」と言われるようになり
「明確でわかりやすい」「明日からの臨床に役に立つ」講演だったと言われるようになり
何よりも対象者の方の評価にもとづいた実践が多少なりともできていると自負できるようになりましたが
かつての私は本当に情けない。。。
ただただ必死なだけの作業療法士でした。。。

ですが
そんな私でも今いくらかでも現実的に具体的に誰かの役に立てるような作業療法士になれました。
そんな私でも努力の積み重ねで成長できました。
今の学生よりも当時の私の方がはるかに知識も技術もなかったと思う。

だから
今もがきまくっている人がいるとしたら
絶対大丈夫だと伝えたい。
努力がムダになることなんて絶対にないから頑張ってほしい。

そういうことを実感をもって伝えられるんだと思う。

社会人1年目というだけで学生の時の1日の過ごし方とは全然違うし
自分で1人暮らしをしているならなおさら違うし
1人の作業療法士として対象者に関わる責任の重さをひしひしと感じるだろうし

だけど、やるっきゃない。のですよ。
その時その時の自分にできることを。

それはたとえ経験を積み重ねた今も変わらない。

いつの時も
あの時の自分ではできなかったことが今できるようになったとしても
今の自分にはできないことが必ずある。
その悔しさ情けなさは
将来の自分が晴らすしかない。
そして将来の誰かに晴らしてもらうしかない。

どうぞよろしくお願いします。

とは言っても
まだまだ私もガンバリますよー!

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臨床あるある(立ち上がり100回)

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結果として起こることの目的化の典型例だと思いますが。。。

たとえば
「立ち上がり100回」を励行されるケースもあるようで
かつて某番組である人が取り組もうとされているシーンを見たことがあります。

でも、その立ち上がり方じゃあ、100回できないでしょうに。。。
と思っていたら、案の定途中でギブアップ
それを「やる気のなさ」とご本人も捉えていたので
なんともやるせない気持ちになりました。

「立ち上がり100回」は結果として起こることであって目的ではありません。

100回立ち上がれるような身体のはたらきを習得することが目的であって
100回は結果として行えるようになるだけです。

そのような身体のはたらきを習得しないまま
100回の立ち上がりを「させても」効果がないどころか、逆効果になってしまいます。

つまり
腰痛を起こす、自信喪失、意欲低下。。。いいことなし。です。
誰の得にも、何の得にもなりません。

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信頼の重み

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対象者の方に
ご家族の方に
一緒に仕事をしている人に
信頼されることは嬉しい。

信頼には信頼に足る結果で応えたい。

そして、その重みを思う。

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作業療法士だからできる

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私たちには大きな武器があります。

言葉だけに頼らずに「対象」と「場」を活用できます。

最初に言語を中心としたやりとりで「何を」するのか決める「場」を設けることは重要です。
でも、その「場」を言語だけに限定するのは、もったいないです。
それでは認知症のある方に対して不利益にしかなりません。

言語以外の方法で「何を」するのかを
認知症のある方と「相談」し合うことは可能です。
それはおそらく作業療法士が一番の近道にいる職種です。

そういうことができなければ
少なくとも、認知症のある方に対して適切な「活動・参加」を決定できなくなってしまいます。
決定する過程への参加の機会が保証されなくなってしまいます。

それで本当に良いのでしょうか?
認知症だから仕方がないことなのでしょうか?

私は決してそうは思いません。

状態によっては
HDS-R 0/30 点の方でも
「適切な」Activityを「恊働して決定する」ことは可能です。

私は作業療法士として
認知症のある方に対して
他の疾患の方が保証されている決定過程への参加と選択について、
認知症のある方にも同様の権利が保証できるような方法論の1つとして提案します。

言葉だけでは想起できない
絵カードでも再認できない
けれど体験を通してなら再認できる

そのような体験を私はたくさんしています。
それは私が作業療法士だからです。

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特性が良い方向に現れるように

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それから
認知症のある方の
特性が良い方向に現れるように
もう一度Act.を再設定します。

この時に特性を「形容詞として詳細に把握」できていると
Act.再設定が容易になります。

「丁寧」と「きっちり」と「慎重」では意味合いが異なります。

仕上がりは、どれもみんな綺麗に仕上がるでしょうけれど
その綺麗さは、何によってもたらされたものかを明確化しておくことが大切です。

Act.には、通常複数の側面があるものです。
認知症のある方の「対象への向き合い方」が最前景となるような側面のAct.の中から
その方にできるものを選択します。

たとえば
丁寧に作業する人には、切り紙
きっちりと作業する人には、メモ帳作り
慎重に作業する人には、三つ編み
など(モチロンこれらは一例に過ぎません)

そうすると
「対象への向き合い方」にピッタリと当てはまった時には
必ずといっていいほど
過去の何らかの関連づけられた体験を想起し言語化されます。

その言葉は大きなヒントになりますから
そのヒントをもとにさらに再設定したり継続したりを最終決定します。

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