Tag: リハビリテーション

経過の中で観る

経過の中で観ることが大切

かつて
身障領域では、急性期・回復期・生活期と
発症直後から回復の過程とその後まで1人のセラピストが
経過をずっと追って担当していくことが可能な時代がありました。

でも今はそうじゃない

病院・施設の機能分化と役割分担が明確になり
それぞれの場で働くセラピストに求められることも変わってきたし
同じ時期の対象者の方はたくさん担当することができるけれども
受傷・発症からの時期が異なる対象者の方は担当しにくくなってきています。

だから「今」しか見えにくい

将来より良い暮らしができるために
敢えて今必要なことが見えにくい

逆に
生活期から急性期に移ったセラピストが
「先を観てきたから今必要なことの意味がよくわかる」
と言っている場合もあります。

「今」しか見えないと、そういうことがわかりにくい

認知症のある方にも
同じコトが起こっています。

スタッフにとっては
「今」しか見えないと、わからないのかもしれないけれど
認知症のある方は
「この先」も生きていく

だから「今」必要なことがある。

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掲載「OTジャーナルVol.51No.2」

本日、三輪書店さんから発刊された「作業療法ジャーナル」の第51巻2月号
特集「認知症−身体障害合併症を中心に」の中で
「「認知症のある方への対応−能力と障害の把握」」が掲載されました。

認知症のある方は単に能力が低下した結果として
不合理な言動をするわけではない。ということ。

低下した能力もあるが、残っている能力もあって何とか対応しようとした結果として
不合理な言動というカタチで現れているのだから
表面的なカタチに対して表面的に対応を考えても有効な方法とはなりにくい。

どのような障害とどのような能力が不合理な言動というカタチに投影されているのかを観て
能力をより合理的なカタチで発揮できるように援助することが大切。という論旨です。

読んでいただければ嬉しく思います。

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?「人として接する」

ちょっと待った

よく聞くけどよくわかんない言葉

「認知症のある方に人として接する」

どういう言動が人として接していないことで
どういう言動が人として接することなんだろう?
人として接するって何?

私には、わからない、理解できない言葉です。

結局それって
単に言葉を言い換えてるだけで
親切に接する、丁寧に接する、優しく接する、怒らないようにする
という昔から言われてることに過ぎないんじゃないのかしら?

耳に優しいスローガンや降りやすい旗を大きく降っていくら声高に叫んでも
それで現実が変わるわけないのは
どんな世界だって同じなのに。

専門家としての知識と技術の研鑽を怠り
安直に「思い」にすがった対応を進んでいけば
感情労働しかすることができないから
自分がすり減って壊れるか、その矛先を相手に向けるかしかなくなってしまうのに。

そうならないのは、「思い」が強いわけではなくて
単に「思い」にすがった対応をどこかでやめてるから
そこまでに至らないで済んでるだけなんだと思う。
でも、そういう人はどこかで自分の「思いの弱さを認識する」のは辛いから
「思い」にすがった対応はもうやめて違う道を探そうよ。とは言い出しにくいよね。

普通に考えれば、それは当たり前のことなんだと思うけどな。

「思い」を実現できるようになりたければ
知識と技術を習得するしかなくて
知識と技術を現実にどう運用していくのかという術を習得するしかないのに
どうしてそういう当たり前のことが認識されにくいのかな?

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能力に胸がいっぱいになる

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認知症のある方の能力に胸がいっぱいになる

そういうことって
本当によくあります。

食事介助の最初と最後で食べ方が大きく変わった方がいます。
舌で食塊を押し出してしまい食べこぼしが多かったのに
文字通り押し出さずに食べられるようになって食べこぼしもゼロに
それだけではなくて
意思表示としてうなづいているということが明確にわかるようにうなづけるようになりました。

私がしたことは
姿勢を少し変えて
スプーンを小さくして
スプーン操作を少し変えて
それだけ。

あとは、その方がもっていた能力なんです。

埋もれていて表面には出ない
でもちゃんともっていたその方の能力

こんなにわかっていて
こんなに能力があって
だとすると
今までどれだけ頑張って食べていたか。。。

そうなんです。
その方にイマ、ナニが起こっているのか
ということが明確に把握できるようになると
その方がどれだけ頑張っていらっしゃるのかがものすごく伝わってきます。

認知症のある方の能力に胸がいっぱいになります。

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読んでね「OTジャーナルvol.51 No.2」

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三輪書店さんから
1月25日に発刊される「作業療法ジャーナル」2月号の特集に
私の書いた「認知症のある方への対応-能力と障害の把握-」が掲載されます。
(1月号の次号予告でご覧になって既にご存知の方もいるかもしれませんが)

障害と能力のプロである作業療法士が作業療法士として寄与するとはどういうことか
認知症のある方に対して評価をもとにした対応の工夫とはどういうものか
臨床でよく遭遇する、あるあるな場面について記載してみました。

きっと、記載した方法論が役に立つことが多いと思いますが
その方法論が依って立つ考え方をお汲み取りいただければ、とても嬉しく思います。

なぜなら
本当に役に立つのは
方法論ではなくて、考え方なのです。

その考え方をもとに
それぞれの場で展開していただければ
きっと目を見開かされるような体験があるのではないかと思います。

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POST連載「認知症のある方を担当したら その2」

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POSTに私の連載記事が掲載されました。

「PT OT STのための働き方・学び方発見サイト」
https://1post.jp

「認知症のある方を担当したら その2 挨拶でのスクリーニング」
https://1post.jp/1784

初対面の挨拶を単なる挨拶として終わらせることも
貴重なスクリーニングの場として活用することもできます。

詳細は上記URLをクリックしてください (^^)

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ABP 能力に基づいた実践

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イマ風に言うなら。。。
ABPとなりますでしょうか (^^;

Ability Based Practice
能力に基づいた実践

この実践は
認知症のある方と援助職の恊働によって行われるものです。
文字通りに。

援助職の思想だけではなくて
思想を語ると同時に具体的な方法論をも指し示しています。
文字通りに。

主語は
認知症のある方と援助職
両者なんです。

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暗黙の前提は自覚しにくい

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人の意見には必ず前提があります。

その前提が異なっていると結果として意見だって異なってきます。

その時に結果としての意見だけをすりあわせようとしても
それはなかなか難しい。
そういう時には意見の前提を確認しあうと良いと思います。

極端な例を出しますと
何か品物を作って出荷する作業において
Aさんはたくさん品物を出荷してたくさんの人に届けたいと考えている
Bさんはより良い品物を出荷して見る目のある人が納得できるようなものを届けたいと考えている
検討会の議題で
Aさんは「こうしてみたらどうだろう」とC案を出します。
Bさんは「こうしたらよいと思う」とD案を出します。

その時によくあるのが
AさんはD案では時間がかかりすぎる
BさんはC案では時間が足りない
とあたかも時間の過不足が焦点化されてしまいます。

でも肝心なのは何を優先と考えているのか
というところなんです。

Aさんの考えるC案は、どうしたらもっとたくさん出荷できるだろうか。
Bさんの考えるD案は、どうしたらもっと良いものを出荷できるだろうか。
C案、D案の依って立つ優先事項、前提がまったく異なっているのですから
本来は、どのくらいの量をどのくらいの品質で出荷するのか
ということについて確認をすることから始めないといつまでたっても
建設的な議論が始まらないのです。

これは極論ですからわかりやすい例を出しましたが
これに類似したことは、ヤマほど起きています。

自分の考えが実は何に依って立っている考えなのか
言っている本人が自覚していない。。。なんてことはザラにあります。

前提は暗黙に置かれている

今、認知症のある方への対応で言われていることの多くは
暗黙には認知症のある方の能力を否定しています。
「できない、わからない、難しい」
「だから、〇〇してあげる」
そのような暗黙の前提に立っていながら表面的にはいろいろなことを言っています。
「ひとりひとり違う」
「寄り添ったケア」
と言いながらも万人に通用するような万能の対応策が求められたり
ICFで障害構造を把握する時代なのに
「原因があるはずだから原因を探索・改善」等と言ったり。。。
総論賛成各論反対のような現象が透けて見えます。

だから
本当にモノゴトを考えるようなタイプの人には
言行不一致を明確には言語化して指摘できなくても
何かモヤモヤしたものを感じて
現行言われているようなコトに対して内心不満や納得できなさがあるのではありませんか。

生活障害やBPSDという困りごとにも、ちゃんと能力が投影されているのです。
ただ、能力の現れ方が不合理なだけなので能力とは見えずらいだけなのです。
認知症のある方は、快・不快しかわからないわけでは決してありません。
重度の認知症のある方だとしても。

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