Tag: リハビリテーション

伝聞表現を使う その2

実は私も伝聞表現を時々使っています。

「家にはちゃんと帰るんだけど、今日じゃないんですって。
今日はここに泊まっていくんですって」

帰りたいという方に対してそんな風に言うこともあります。
よくよく考えると本来はそういう言い方しかできないですし。

でも往々にして
認知症のある方が帰りたいと言うと
なんとか気をそらしてそんな言葉を言わないように(忘れてもらえるように)
あの手この手を繰り出したり
「ここに泊まるの」と、入院だったら医師しか判断できないはずのことを
他の職種なのに言ってしまったり
そういうことってよくあると思います。

「ここに泊まるの」という言い方をした人が
ここにいることを決定したように認知症のある方が感じるのは
当たり前のことだと思う。
『そんなこと言わないで帰してください』
と認知症のある方が言うのは正当だと思う。
だってあなたが決定したんでしょ?と内心思うもの。

けれど多くの場合に
職員はお茶を濁すような言い方をしているのではないでしょうか?
あるいは説明したのに理解してもらえない。と判断したりとか?

そう言う職員に悪気はないけれど
認知症のある方にしたら
ここにいることを決めたこの人にお願いしてもダメなんだ
という風にしか受けとめてもらえないと思う。

でも、最初から伝聞表現を使っていれば
私が決定したことではないのだということを言外に伝えることができます。

誤解が多いのは
確かに認知症のある方の言葉を聞いて理解するはたらきが低下することはよくあるけれど
(そしてそのことをこちらでも繰返し書いていますが)
言葉のニュアンスや意図や意味をすべて理解できなくなるわけではありません。

認知症という状態像を引き起こす疾患によりけり
障害によりけり
元々の言葉の扱い方に関する特性によりけり
なんです。

伝聞表現を意図的に用いることによって
認知症のある方の会話し続けようとする意思をくじかずに
お話を聴くことが可能となってきます。

言葉に鋭敏になる
意図的に自覚的に扱えるようになる
それらのことをたくさんの方から教えていただきました。

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3月OT Lab 準備中

「文章、読みましたよ。今度叫ぶんですね。」

ある人にそう声をかけられ赤面の至り。。。(^^;;;

ええ、そうです。
3月12日(日)に作業療法総合研究所さんの主催の研修会で
「神奈川の地から作業を叫ぶ−愛と毒を込めて”作業”を問う−」
というタイトルでお話をします。

詳細はこちらから

開催まで1ヶ月以上ありますが、準備を少しずつ始めています。

飲み会程度のお話で終わるわけにはいきませんし
どういう構成で
どういう表現で
う〜ん、難しいです。。。(^^;
手を挙げたはいいけれど、こういうテーマを系統立てて話すのは難しい。
でも、誰かがきちんと言っておかないと。という思いもあります。

だって、今、大混乱してるでしょう?

物事をじっくりきちんと考える人は
何かおかしい、どこかおかしい。と感じながらも
そのおかしさを言語化できず、
あちらこちらからの旗ふりに押しつぶされそうになっているのを
必死な思いで、こらえているのではないでしょうか。

私は
「作業療法は素晴らしい」と叫ぶつもりはありません。
作業療法の素晴らしさを伝えるために
体験談を紹介するつもりも、毛頭ありません。

もっと具体的な話をしようと思っています。
だって、世の中に〇〇療法と名のつくものは全てツールに過ぎないから。

ツールはツールとして役立てるために存在します。
ツールに使われているようでは目的を果たせません。
ツールをツールとして使いこなせるようにならなければ。
作業をツールとして使いこなせるのがプロとしての作業療法士なんだと考えています。

作業療法士の目的は何か?

対象者の方のRe-Habilisの援助です。
「やりたいことができて嬉しい」のは、Re-Habilisの下位項目に過ぎません。

そして、もうひとつ
ここで、手段と目的の混同が起こっていませんか?

じゃあ、どう考えたらいいのでしょうか。
その提案をしたいと思います。

ある人は私の話を聴いてくださった後に
「目新しいことはなかった。基本的な当たり前のことだ。」
と感想を寄越してくださいました。

そうです。
その通りなんです。
私の実践は本当に泥臭くて基本にのっとって当たり前のことを当たり前にしてるだけです。

「作業療法ジャーナル 」Vol.51No.2には
身体合併症のある認知症の方への対応の考え方について記載したものが掲載されました。
もしよかったらご参照ください。

当たり前の実践によって
多くの重度の認知症のある方に行動変容が起こるということをお伝えしています。

その事実は何を意味しているのでしょうか?

私は旗を振りたいタイプの人間ではないんです。
旗を振るよりも目の前にいる方に
現実に具体的に
役立つことができるようになりたいと痛切に願い続けています。

体験談として紹介する許可をご家族にいただく時に
「えぇ。えぇ。いいですよ。困っている方の役に立つなら。」
そうおっしゃっていただける言葉の重み

その重みを思いながら準備を少しずつしています。

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ミニ研修会「食事介助」ご案内

平成29年3月4日(土)10:00〜12:00
曽我病院内にて「食事介助」のミニ研修会を開催します。

「認知症家族教室」というタイトルになっていますが
どなたでも参加できます。
関係職種の方は事前にご連絡をお願いしておりますが
どの職種の方でも無料でご参加いただけます。

当日は相談員さんからのミニレクチャーに続いて
「奥が深いのに知られていない食事介助のホント」についてお話します。
デモもありますし、実際に食事の介助−被介助体験も考えています。

何かご不明なことがありましたら
ご遠慮なくお問い合わせください。
病院の電話番号でも結構ですし
『 yoshiemon.atあっとgmail.com 』(あっとは変換してください)
メールでも結構です (^^)

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内向きに深める

先日の講演の最後に
「内向きに深める」について質問してくださった方がいて凄くうれしかったです。

健康寿命を伸ばすという意味で
厚労省はじめいろいろな人たちがいろいろなことをPRしていて
それは本当にその通りだと思います。

病気も障害もなく過ごせる期間が長いのなら長いに越したことはありません。
活動的に過ごせる「場」が保障されるのであればこんなにいいことはありません。

でも「生きもの」としての人間には
必ず「老い」が待ち受けている。

その時に
量的向上をだけ追い求めるような思想は
「老い」に「負けた」人を結果として作り出してしまう恐れがある。

現に自分自身を追いつめている人がもう既に現れている。

外向きに広げられるように
考え、施策を充実させ、協力体制を整え
それはとても大事。

一方で
内向きに深める
ことの担保について
どこかで考えておかないと
誰かが実践できるように準備を整えておかないと

単なる「老いの否定」になってしまう。

老いのただ中にいる人だけでなく
老いを迎えつつある人
老いを遠くから見つめる人まで巻き込んで
結果として、たとえ意図していなかったとしても
「老いの否定」の大合唱になってしまう。

いずれそう遠くないうちに
人口の1/4が75歳以上になるというのに

「内向きに深める」
この実践ができる一番近道にいるのは Occupational Therapist だと思っています。

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嬉しい。。。

もしも
私の話を聴いて
「私も頑張ろう!」
「明日からもう一度やってみよう!」
って感じてもらえたとしたら
こんなに嬉しいことはないです。

私の講演のゴール設定は
「受講者が希望を胸に抱いて職場に向かえるようになる」
なのです。

かつて
もがきまくっていた時の私が一番欲しかったものは何なのだろう?

そう考えた時に
誰かに頭をなでてもらいたいわけでもないし
誰かと慰め合いたいわけでもないし
安直なその場しのぎや解答もどきを欲しかったわけでもない
自分の足でまっすぐ歩いていけるように
そのための道しるべ、信頼できる道しるべ
この道なら途中険しくても細くても遠くても歩いていきたい
歩き続けられるという実感がある道しるべがほしかったんだと思ったんです。

今の私にそこまでのお話ができているかどうかは、わかりませんが。。。

でも
どんな疾患によるどんな状況の認知症のある方にも
適用できる、除外要件のない、包含できる、考え方
とてもシンプルでベーシックな考え方だと自負しています (^^;
(自負するのは自由だもんね)

もしも私のお話が
誰かの道しるべになれるのなら
もしもそんなことが叶うのならば
それは私にとって本当に本当に嬉しいことです。

かつてのもがきまくっていた私にとっても
報われるような本当に本当に嬉しいことなのです。

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経過の中で観る

経過の中で観ることが大切

かつて
身障領域では、急性期・回復期・生活期と
発症直後から回復の過程とその後まで1人のセラピストが
経過をずっと追って担当していくことが可能な時代がありました。

でも今はそうじゃない

病院・施設の機能分化と役割分担が明確になり
それぞれの場で働くセラピストに求められることも変わってきたし
同じ時期の対象者の方はたくさん担当することができるけれども
受傷・発症からの時期が異なる対象者の方は担当しにくくなってきています。

だから「今」しか見えにくい

将来より良い暮らしができるために
敢えて今必要なことが見えにくい

逆に
生活期から急性期に移ったセラピストが
「先を観てきたから今必要なことの意味がよくわかる」
と言っている場合もあります。

「今」しか見えないと、そういうことがわかりにくい

認知症のある方にも
同じコトが起こっています。

スタッフにとっては
「今」しか見えないと、わからないのかもしれないけれど
認知症のある方は
「この先」も生きていく

だから「今」必要なことがある。

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掲載「OTジャーナルVol.51No.2」

本日、三輪書店さんから発刊された「作業療法ジャーナル」の第51巻2月号
特集「認知症−身体障害合併症を中心に」の中で
「「認知症のある方への対応−能力と障害の把握」」が掲載されました。

認知症のある方は単に能力が低下した結果として
不合理な言動をするわけではない。ということ。

低下した能力もあるが、残っている能力もあって何とか対応しようとした結果として
不合理な言動というカタチで現れているのだから
表面的なカタチに対して表面的に対応を考えても有効な方法とはなりにくい。

どのような障害とどのような能力が不合理な言動というカタチに投影されているのかを観て
能力をより合理的なカタチで発揮できるように援助することが大切。という論旨です。

読んでいただければ嬉しく思います。

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?「人として接する」

ちょっと待った

よく聞くけどよくわかんない言葉

「認知症のある方に人として接する」

どういう言動が人として接していないことで
どういう言動が人として接することなんだろう?
人として接するって何?

私には、わからない、理解できない言葉です。

結局それって
単に言葉を言い換えてるだけで
親切に接する、丁寧に接する、優しく接する、怒らないようにする
という昔から言われてることに過ぎないんじゃないのかしら?

耳に優しいスローガンや降りやすい旗を大きく降っていくら声高に叫んでも
それで現実が変わるわけないのは
どんな世界だって同じなのに。

専門家としての知識と技術の研鑽を怠り
安直に「思い」にすがった対応を進んでいけば
感情労働しかすることができないから
自分がすり減って壊れるか、その矛先を相手に向けるかしかなくなってしまうのに。

そうならないのは、「思い」が強いわけではなくて
単に「思い」にすがった対応をどこかでやめてるから
そこまでに至らないで済んでるだけなんだと思う。
でも、そういう人はどこかで自分の「思いの弱さを認識する」のは辛いから
「思い」にすがった対応はもうやめて違う道を探そうよ。とは言い出しにくいよね。

普通に考えれば、それは当たり前のことなんだと思うけどな。

「思い」を実現できるようになりたければ
知識と技術を習得するしかなくて
知識と技術を現実にどう運用していくのかという術を習得するしかないのに
どうしてそういう当たり前のことが認識されにくいのかな?

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