Tag: リハビリテーション

暮らしを主語にする

認知症という病気から始まるのではなくて
Aさんという固有の人がいて
Aさんの暮らしが最初にあって
たまたまAさんが病気のために認知症という状態像になって
さまざまな障害を抱えながらも暮らしていく

最初に病気があるんじゃなくて
暮らしが最初にある

かつて
中井久夫が
「医師に治せない病気はあっても看護師が看護できない病気はない」と言ったように
認知症は病気そのものは進行していくけれど
暮らしの援助ができないわけじゃない

まず、暮らしを観ること
暮らしを支えること
暮らしを主語にすること

そうするとブレたり混乱したりメゲたりせずに
着実に歩を進めていけるんじゃないだろうか

地域という押し進められるキーワードの中で
多職種連携が形骸化せずに
実態を伴って進んでいけるんじゃないだろうか

そんな感触があります。

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在りようを工夫するこれからの地域

使えるお金は限られているから
これから先に新しいハコモノや制度を作るのには限界がある。

もっと有機的なシステムが否応もなく求められてくると感じています。

既存の組織や制度の中で
誰かがスーパーヒーローになるのではなくて
厳しい状況ではあるけれど
みんなが少しずつ一歩前に踏み出し合って
知恵を出し合ってできることをしていき合う

誰もがみな今でさえも十分に忙しいけれど
もしも一歩ずつ前に進むことができれば
そして進み合っていることを確認できれば
状況は変わる可能性がたくさんあるとも感じています。

古来、私たち日本人は環境と用途を1対1対応ではなく
同じ素材を用途に応じて使い分ける工夫を
暮らしそのものの中で行ってきました。

たとえば
1枚の布を対象に合わせて包み変えたり
1つの部屋を時に寝室、時に食堂、時に作業場、時に団らんの間と使い分けたり

そういう知恵ってDNAに組み込まれているんじゃないかな

私たちが知らずにしてきて
一度は自らなくしてしまったものの意味を
もう一度わかり直した上で活用し直す

そういったことにもつながるんじゃないかな

従来通りの在りようから
一歩だけ前に踏み出す

最近になって
いかに自分が地域のことを知らないできたのか
痛切に感じています。
ちょっと調べるだけで
ちょっと電話をかけて教えていただくだけで
こんなにもいろいろなことが現在進行形で為されているのだということに
驚くとともに知ることの無かった自分を反省しています。

ただ、案外バラバラに所属している何らかのテリトリーの中で
そっと(当たり前のように)行われている(だからこそスゴイ)から
今所属しているテリトリーの外のことは知らないでいる
知るきっかけがないままでいる

誰かの発想が
他の誰かの新たな発想を呼び起こすように
誰かの実践が
他の誰かの次の実践を呼び起こすかもしれない

そんな可能性を感じる今日この頃です。

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思考回路が伝わる

方法論ではなくて思考回路が伝わっていく

だから
やっちゃいけないこと(方法論)は、やっちゃいけない(方法論)と
おかしなことは、おかしなことだと
明確に言わなくちゃいけない。

ただ
言い方に関して、人としてのマナーがあるだけだと
今はそんな風に考えています。

認知症のある方への対応で困った時に
「食事介助で口を開けてくれないのですが、どうしたらいいのでしょうか?」
「大声で介護抵抗のある人に対して、どうしたらよいのでしょうか?」
というパターンで質問されることは本当に本当によくよくあります。

こういうパターンで質問する
ということは、こういうパターンで臨床しているということを表してもいるのです。
その意味は、リハ職が一番わかるはずだと思います。

結果としてのAという現れ方に対して、万能な方法論があるわけがない。

考え方や方法論は
人により時代により変遷していくものでしょう。

でも、根本的な考え方、在りようとでも言うものは
本質に迫るものであればあるほど変遷していくはずがない。

認知症のある方への対応に関して
切実に困っているからこそ、
さまざまな方法論が提唱されているし
また要望もされるのだろうとも考えます。

「徘徊する人がいるんです。どうしたらよいでしょうか?」
「高齢の女性だったらタオルをたたんでいただければ?」
実際にあったやりとりですし
また臨床でもよくあるあるな対応でもあるでしょう。
そしてそれで「済んでしまう」場合だってあるでしょう。
済んでしまった場合には「何が起こっていたのか」ということについて
検討されにくいという現実もあります。

そのような現実の中で
一生懸命な優秀な人ほど
方法論が暗黙のうちに伝える無自覚な思考回路に傷つき悩み
思考回路と提唱されている理念の乖離に疑問を抱き
現状に対しての違和感や苦悩を共有化できる人が周囲にいなかったり
ということも起こってきます。

そしてまた
認知症のある方ご本人が体験した
「一度起こったことはなかったことにはならない」
「感情の体験は積み重なっていく」
という当たり前のことの吟味が為されない
ということも起こってきます。

私自身、今までは明確に言語化できなかったことがたくさんありますし
これから先においても、繰返し繰り返しこういった思いを味わっていくのだろうと
覚悟もしています。

だからこそ
伝えていく意義があるのだと
言語化する意味があるのだと
はっきりともう一段わかり直しました。

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POST連載記事「ナウシカに絡めて」

POSTさんのサイト
「風の谷のナウシカから考える認知症対応」という記事が掲載されました。
https://1post.jp/2838

できるだけ早く「続き」を書きたいと思っています。
もう少しだけお待ちください m(_ _)m

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当てる>はずさない>当たる

昨日の記事の続き。です。

私はプロとして
少なくとも、認知症のある方を対象として働いている人間として
適切な対応の工夫を考えられる、つまり、「当てる」ことができるように努力をするのは、
作業療法士という対人援助職を選択した自分の義務だと考えています。
でも、努力をする…ということは、ウラを返せばカンペキではない自分を認めている。ということでもあります。
今、目の前にいる方に対して、いつでも誰に対しても、常に100%のことがすぐにできているわけではありません。
だからこそ、そうなれるように、仮にできたとしても、できるだけ早く、より円滑に。と願います。

「当てる」ことができるように
でもそれは「当たる」こととは違う
結果として「当たる」のではなくて
当たりがわかったうえでの「当てられる」ことを目指す。
それが叶わない時には、少なくとも「はずさない」ことを目指します。
当たらずとも遠からじ。から始める。
そして当たりに近づくように。

「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。」

この言葉に出会った時には、なるほどなーと思いました。
本質を突いた言葉ってそういうチカラもあります。
1つの言葉がジャンルを超えて通ずる。
勝負の世界の言葉が認知症のある方への対応についてにも通ずる。

私は結果として「当たってよかったよかった」とは喜べない。
当たったとしたら、どこが当たりだったのか考えます。
そして、その当たりは本質なのか、考えます。

かなり重度の認知症のある方でも、こちらに合わせてくださいます。
つまり、自分の意志や感情を抑制して合わせられる能力がある。
でも、表面には「この方策が有効だった」「当たった」という受け取り方をされがちです。
本当は「当たった」ように見えるだけで「当てる」ことができたわけではない。
こういうことはヤマほど起こります。

ここでは、前の記事との関連もあって
敢えて、「当てる」「当たる」「はずさない」など
ちょっと誤解を招きかねない言葉を使いましたが
意図する言葉の意味はおわかりいただけていると思います。

適切な方法を根拠を明確にして考えられる>根拠を明確にして不適切なことはしない>根拠はわからないけれどとにかく「問題」が解決した(見えなくなった)

こういった思考過程を繰り返すことで
根拠を明確にして適切な方法をより早くより簡潔により明確に提供できるようになる
そんなふうに感じています。

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勝ちに不思議の勝ちあり

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。」

プロ野球の野村克也監督の言葉だそうですが
実は原典があって
「勝ちには偶然の勝ちがあり、負けには偶然の負けはない」という言葉は
江戸時代の剣豪、松浦清(松浦静山)の言葉の引用なのだそうです。

そこから
「失敗は必然、成功は偶然」という言葉も広く使われているとか。

ふと、そんな言葉を思い出しました。

このことは以前のブログにも書いてあります。

認知症のある方への対応についても同じコトが言えるように感じています。

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目標設定の研修会無事終了☆

昨日、作業療法総合研究所さん主催の研修会
「対象者と恊働して良い目標を設定できる作業療法士になろう」
を無事に終了することができました。

参加してくださったみなさま
準備・運営を担当された会長のTさん、事務局長のSさん
お手伝いしてくださったふたりのIさん
お世話になりました。
どうもありがとうございました。

目標を目標というカタチで設定できることがなぜ重要なのか
今現在、すでに起こっている問題と
活動・参加に焦点を当てたリハが推進されていく過程において
起こりうる逆効果をどう防ぐことができるのか
そして根本的に作業療法とは何か
ということについてお伝えする機会をいただけたこと
とても感謝しています。

「人は作業をすることで元気になれる」

そう語るのはよいですが
なぜなんですか?
作業の何がそうさせるのですか?
そして
本当にパワーの強いものは逆の目が出た時の悪影響も強く出てしまう
それをどうやったら防ぐことができるのですか?

納得のいく答えを携えている人が何人いるのだろう?
これらの答えを携えずにただ語っているだけでは信頼されないと感じています。

そして、作業Occupyと目標がどう関係するのか
とても大きく深く関係しているということについてもお伝えしました。

たぶん、参加されたそれぞれの方がお勤めされている分野を超えて受けとめていただけたと思う。
受けとめ方の深度は人それぞれであったとしても。

来年は学生さん向けの目標設定の企画が動いています。
もう少し演習の時間を増やした内容に少し練り変えて再挑戦 (^^)
楽しみです!

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目標設定の研修会ver.2にどうぞ☆

11月12日(日)に
作業療法総合研究所さんの主催で
「対象者の方と恊働して良い目標が設定できる作業療法士になろう!」が開催されます。

締切が11月10日(金)17:00までとなっております。
これからお申込になる方はどうぞお早めに。

講演後など、いろいろなところで尋ねられます。
「認知症は難しい」
「どうしたらいいのでしょう?」「何をしたらよいのでしょう?」

気持ちはわかります。
かつて、私もそのような思考回路をしていましたもの (^^;
でも、このようなパターンで問う。ということは
このようなパターンで考えている。ということを示しているのです。

これは、本質的に非常に危機的な状況だと考えています。

認知症というカタチで現れてはいますが
問題の本質は、認知症ではない。と考えています。
他の疾患でも実は評価や目標設定が明確にできていないけれど
なんとなく教科書的に、なんとなく周囲に言われたことを当てはめている。
自分の知っているパターンに目の前にいる方を当てはめている。
他の疾患では何とかなるけど、認知症ではそうはいかない。
それで困ってしまって、認知症は難しい。
という現れになっているということなのではないでしょうか。

パターンはあります。
でもあくまでも結果としてパターンがあるのです。
目の前にいる方をパターンに当てはめても「うまくいく」はずがありません。

このような対人援助職の在りように対して、危機意識を抱いています。

一方で希望を失っているわけではありません。

多くの対人援助職の人たちが、限られた時間で一生懸命に目の前にいる方に対して向き合っている
そのような人たちとたくさん出会っています。

ただ、残念ながら学んでいないことがある。
学んでいないために、プロとしての良心や心意気を
目の前にいる方に適切なカタチで表現できないでいるのなら
学ぶ場があればいいだけのこと。

その「場」がこちらです。

おそらく、今の日本で
目標設定についてこれだけ明確に言語化して学べる場
その臨床的意義について明確に実感できる場
というのは、そんなに多くはありません。

平成26年7月20日に第1回目の目標設定の研修会が開催された時には
臨床家、学生あわせて100名近い方が参加され
終了後のアンケートは
「とても良かった」臨床家75%学生100%
「とても良かった+良かった」臨床家92%
という結果でした。
つまり、実際に臨床でたくさんの人が困っているということの現れでもあります。

実習で目標設定が難しかった学生さん
実習で学生さんに目標設定をわかりやすく教えられなかった若手作業療法士さん
すごくラクになります。
そして日々の臨床が変わってきます。

まず、目標を目標というカタチで設定できること

これができるようになれば
評価を評価として行えるようになるし
評価が行えるようになるだけの情報収集をすることができるようになるし
情報収集できるようになるために必要な知識が何なのか探しやすくなります。

PDCAは、対象者のためだけではなくて、自分の成長のためにも必要なんです。

迷っているなら、騙されたと思って参加してみてください。

「私、後悔させないので」

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