Tag: リハビリテーション

評価 ≠ 検査,推測

あるあるな誤解です。

評価=検査 ではありません。
でも、評価といいながら検査の意味で言葉を使っている療法士って
案外多いように感じています。

検査=評価だと思っていると
認知症のある方に対して、お手上げになってしまうのではないでしょうか。

また、評価=推測 でもありません。
とりわけ、精神科作業療法士の中に
推測の積み重ね=評価 と考えている作業療法士が
とても多いように感じています。

実習にくる学生さんには
推測するのは後!まず情報収集!と繰返し伝えています。

結果として表面的に起こっている事象について
〇〇ではないかと考える、のは違うよ。
それは臨床的推論とは違うよ。と言っています。

結果として表面的に起こっている事象について
〇〇という障害と〇〇という能力が表れている。
こう言えるためには知識が必要だし
異なる場面設定での確認ができるだけの情報収集が必要だよ。

異なる場面で違うカタチで現れていることも
メタの視点で眺めれば同じコトが(同じ障害と能力が)違うカタチで現れていることが
自然と浮かび上がってくる
浮かび上がってくるまでは情報収集が必要なんだよ。と言っています。

臨床あるあるな傾向として
身障系の作業療法士は「評価=検査」という誤解が多くて
精神系の作業療法士は「評価=推測」という誤解が多いように感じています。

モチロン、
行うべき検査をきっちり行ったうえで、評価をしている作業療法士も
複数の場面設定を巧みに緻密に行い、評価を深めている作業療法士も
たくさんいますが。

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問いを読みとる

実習に来た学生さんが
なぜ私のところに来たのか
ということの意味を考えることがあります。

学生さんがニコニコして実習を終えた時には
必ず学生さんの中でプラスの行動変容が起こっている。
そしてその時には必ず私の中でも変化が起こっている。
新たな気づきとか、理解の深化とか。

モチロン、学生さんがどの実習地に行くのか
養成校の教員の方がいろいろなことを総合的に考えられた結果決定されるのだと思いますから
教員の方の術中にはまったと言えるのかもしれませんね (^^;

人との出会いによって
あぶり出される自分の能力と困難と特性

私の場合には
ちょうど良いタイミングで
必要なできごとが起こっているように感じます。

逆か。
認識できることしかわからないから (^^;

私の大好きな作家に
アーシュラ・K・ル=グウィン という人がいて
読むたびごとに発見や理解の深化があるのですが
「西のはての年代記 II ヴォイス」にこんな言葉があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わたしたちの求めるのは真の答えではない。
われわれの探す迷子の羊は真の問いだ。
羊の体のあとにしっぽがついてくるように、真の問いには答えがついてくる。
(p.177)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はかりしれない謎に対して理にかなった思考を寄せる
(p.195)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この表現に出会った時に衝撃を受けました。
私の中でまったく言葉にはならないでいた、
でも、漠とした感覚のような存在に名前が与えられたように感じました。

ル=グウィンの本は折にふれ、読み返しているのですが
ここのところ、全然読んでいなかったことに気がつきました。
今すぐは仕事が立て込んでいるから読めないけど
もうちょっとしたら夏休み(秋休み?)だから
その時に読み返そうって思いました。
そのためにもやるべき仕事を完遂しなくちゃ!

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嬉しかった言葉

認知症のある方に言われて嬉しかった言葉のひとつに
「あんたと話してると頭の中がスッキリしてくるよ」
という言葉があります。

これは嬉しかったです。

だって
その方がご自身の能力を再確認されたからこそ
出てきた言葉ですもの。

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適切なスプーン操作ができて初めて能力を見いだせる

認知症のある方の食べることに関する困難はいろいろありますが
まず、私たちが適切なスプーン操作をすることができて初めて
認知症のある方の本当の食べ方、本来の食べ方、食べる能力に
触れることができるようになります。

言い換えれば
私たちが適切なスプーン操作を実行できなければ
認知症のある方の本当の食べ方
何に困っていて、何ができるのか
気がつくことができないということになってしまいます。

相手の能力がないということと
相手の能力に気がつけないということは全く違います。

いったい、どちらの能力がないのか。。。時々そんな風に感じることもあります (^^;

認知症のある方の能力に眼を見開かされた経験をしたことのある人は
自らの見落としに細心の注意を払うようになると思います。

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鮮烈に覚えていること

私が作業療法士として一番最初に勤めたのが
肢体不自由児施設でした。

そこに
紀伊克昌先生や古澤正道先生がいらしてデモンストレーションをしてくださったのです。

その施設にいたスタッフが一度も見たことがないような動きを
子どもたちがどんどん目の前でできるようになっていったんです。

そして(当たり前といえば当たり前ですが)その後でみんなでそれらしくやっても
誰も紀伊先生や古澤先生のようには子ども達の動きを再現できなかった。

鮮烈に覚えています。

できないのは
子どもたちじゃなくて、私なんだ。

紀伊先生や古澤先生が担当しても私が担当しても
ご両親は同じ時間で同じお金を払わなくちゃいけないんだ。

痛切に感じました。

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勝手な推測はしない

いつも、どこでも、言ってることですが
まずは、観察を
そして、観察ができるための知識を。

それにプラスして今日はもうひと言。
勝手な推測はしない。

私は作業療法士ですが
作業療法士がよく言う、あるあるな言葉に
時々ものすごく違和感を感じることもあります。

いわく
「作業療法を説明するのは難しい」
「作業療法は楽しく」
「あぁも考えられる。こうも考えられる。」

最後の言葉は
精神科作業療法の分野で言う人が多いようですが
そんなん、評価の真逆じゃん!
と思ってしまいます。

評価とは、しぼりこんでいく過程でもあります。
これは違うと判断し、可能性を除外していく過程。

その過程において
大切なことは予断をもたずに
まずは、観察すること
わからないことはきちんと本人に尋ねること
ただし、尋ねかたにはいろいろありますが。

そうすれば、こちらが勝手に推測などしなくても
集めた情報の集積から、ある確からしさとして語り出されてくるものです。

十分な観察も
真摯に尋ねもせずに
いくら考える努力をしたって
根拠がないじゃん。
コミュニケーションの真反対じゃん。
そんな風に感じてしまいます。

わからないことは、判断保留し、
わかる時がくるまでは、わからないままにしておくこと。

勝手に対象者のことを推測しない。

本来は、精神科がそういうことに一番明敏であることが望まれているんじゃないでしょうか。

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進化&深化

「よっしーさんも進化しているから」
ある人に言われた言葉。
正直、嬉しかったです。

タマネギの皮をめくっていくみたいに発見がある。

同じ言葉でもその意味がより深く認識できたことを実感できることがある。

華厳経の縁起みたいに
関係性の複雑さ、精妙さが三次元的にわかるというか。。。

歳とるっていいな
って思う。

若い時にはわからなかったことがわかるようになる。

それって希望でもあります。

希望であり、可能性であり、畏れでもあり
深く頭を垂れ
前を向く。

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副詞を使わない説明

今日は祝日・山の日ですが、オマケ☆
私も特別に出勤しています (^^)

他職種への伝達については
相当考えさせられてきました。

基本的には、私の側でできる努力は最大限する
とは考えています。

その1つが説明の言語化

たとえば
食事介助の場面において
他の職種でも今までとは違う方法を再現してもらえるために
どのように説明するか

ひと言で言えば
副詞を使わないで言語化する
ということです。

たとえば
施錠確認。
「ちゃんとカギをかけましょう」
と言うことが指導ではないです。

ちゃんとカギをかけるようにする
ためには、どういう行動に変更したらよいのか
そこを伝えることが重要です。

当病棟は閉鎖病棟なので
実習に来る学生さんへの一番最初の指導が施錠確認です。
「カギをかける。
まずは、ガチャッという音で確認。
次に、目で観てかかったカギを確認。
最後に、ドアを両方向に動かして開かないことを動作確認」
と指導しています。

結果として
「ちゃんと」カギをかけられるようになる。

食事介助の場面でも同じです。

ゆっくり介助する
丁寧に介助する
優しく介助する

そんなことを考えても
食べることにおいて
さまざまなウィークポイントと能力をもっている認知症のある方の
食べることの困難を改善していくことはできません。

そもそも
ゆっくり、丁寧、優しく。とは
どういう行動を示すのでしょうか。
非常に曖昧な言葉です。
人によって受け取り方に差が生じやすい言葉でもありますし
どの程度という基準も明確ではありません。
Aさんにとってのゆっくり介助が、Bさんにとってはせわしない介助
ということだって起こりえます。

だから副詞は使わない

名詞と動詞を中心に構成した言語化を行います。

明確な言語化=名詞と動詞中心の言語化
を心がけています。

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