Tag: リハビリテーション
依頼された仕事は基本断らないほうが良い。
そう考えていますし
相談された場合にも、そのように答えています。
体調不良とか家庭の事情があるとか、そういう場合は別として。
自分でいいのか悩んでいるような場合には。
初めて受ける内容の仕事だと
不安もあるし
想像もつかないし
大変だけど
やってきた仕事には、その時自分に必要な、そして達成できそうな
課題が含まれていたりすることが多いと感じています。
仕事が終わってから、あるいはひと段落してから
あぁ、この部分が自分には曖昧だったけど
この仕事を通して明確化できたな。って感じることが多い。
やり遂げるまで、悶々としたり
やらなきゃって思いつつも、捗らない時には自己嫌悪に陥ったりもするけど
それでも何とか踏ん張って頑張っているうちに
わかっていそうでわかっていなかったことが
自分の中で明確になってくる。
逆に言えば
それしかできない、やりようがない、とも言えますが。
必要なタイミングで必要な課題が現れる。
そんな風に感じています。
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BPSDは私たちが名付けた「名前」であって「実態」ではありません。
本来なら「名前」をつけたところから
その「名前」も併せ持つAさんの困りごとに対して援助することが
私たちの仕事なんじゃないかと思います。
ところが
現実にはBPSDという名前がついたところから
名前だけが一人歩きしてしまって
どうしたら名前を減らせるか、なくせるか
という視点で対応されてしまう。。。
Aさんという一人の人の「存在」、Aさんという一人の人の「在りよう」が背景化してしまう。。。
「AさんがBPSDをすることもある」という見方ではなくて
「BPSDのAさん」という風に固有名詞化させてしまう。。。
Aさんが徘徊していない時だってあるのに
そこには注目されずに
徘徊していることだけがクローズアップされてしまう。。。
そういった現行の在りように違和感を抱いている人は決して少なくないと思います。
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ずいぶん前に
ネットで見かけて気になっていたことがあります。
ドリルと穴のお話です。
T・レビットという人の「マーケティング発想法」という本の冒頭に
「ドリルを買う人が欲しいのは『穴』である」という言葉が記載されているのだそうです。
あぁなるほど!と思いました。
ドリルは手段として必要だから買うけれど
目的は穴を開けることだ。
どんな場所にどのくらいの穴をどんな風に開ける必要があるのかは
聞いてみないとわからない。
でも得てして私たちは、ドリルが欲しいんです。と言われれば
どんなドリルが欲しいんですか?と尋ねても
そのドリルでどんな穴を開けることが必要なのでしょうか?とは尋ねない。
あぁ。。。あるあるです。。。
同じコトが違うカタチで起こっている。
認知症のある方の生活障害やBPSD
食べることの困難や
Act.の選択
希望ややりたいことを尋ねること
目の前で起こっていることだけを切り取って
問題として捉えて解決しようとする。
本質は問題ではなくて
能力も障害もあるからこそ、何とかしようとしている
だから、どんな風に何を何とかしようとしているのか
そこをこそ、観ることによって確認することが大事。
希望や、やりたいことは
まさしく、「ドリル」であって
希望ややりたいことという言葉に投影されている「穴」を確認することが大事。
こちらのサイトには、明確に書かれています。
http://marketing-campus.jp/lecture/noyan/045.html
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例えば
脳卒中後遺症片麻痺のある方に対して
痙性が高くて服の脱ぎ着が大変な場合
病気・障害によるものだと知らなければ
「もっと力を抜いて」と言ってしまうかもしれません。
病気・障害によるものだ
と言う理解があって、じゃあどうしたら良いのか、と言う話になります。
麻痺側から袖を通したり
前開きの上衣を用意したり
と言う対応の工夫があって
服の脱ぎ着がラクになると言うことになります。
介助を受けるご本人だってラクになります。
これと全く同じことが
認知症のある方に対して言えそうでいて言えていない現状があるのではないでしょうか。
ご家族の方の
「認知症という病気だと理解しても私たちの介護がラクになるわけではない」
という言葉が現状を伝えているのではないでしょうか。
「それが認知症という病気なんですよ」
「それは症状なんですよ」
そう言われるだけでは、介護するご家族が疲弊してしまいます。
先の脳卒中後遺症片麻痺のある方に対して
服の脱ぎ着が大変なのに
「無理やり着させてはいけません」
「相手のペースに合わせて着替えさせましょう」
とだけ言っているようなものだと思います。
脳卒中後遺症片麻痺のある方の暮らしの困難は
例え、リハをしても適切な対応の工夫があっても
ゼロにはならないかもしれませんが
少なくすることは可能です。
認知症のある方も全く同じだと考えています。
〇〇という困りごとは
病気・障害によるもので
こんな風にしたらどうでしょうか
という提案が具体的にできること
そのためには、能力を的確に見出せること
結果としてのパターンはあるけど
能力と障害が異なるから
「こうしたら良い」というハウツーはない。
だけど、考え方の提示はできる。
ご家族の介護がラクになるように
ご本人の困りごとが少しでも減るように
そのために求められていることは
理解→病気・障害→仕方ない
ではなくて
理解→病気・障害→能力→対応の工夫→ラク
なのだと考えています。
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PTOTSTのためのサイト POSTさんに
「Activityの選択についてー階層性ー」の記事が掲載されました。
URLはこちらです。
https://1post.jp/3021
作業療法士は文字通り、作業(occupy)を手段とする専門家ですが
案外、作業手段としてのActivityの選択の考え方について
明確に言語化して教わる機会が多くないという印象を抱いています。
「作業療法士とは?」と尋ねられて
「言葉にするのは難しい」と多くの作業療法士がこぼしますし
かつて、私も悩んでいました。
リハの養成校在学中に高校の時の友人に「どういう仕事?」って聞かれた時には
定義を答えていましたし。。。(^^;
「作業療法は素晴らしい」「作業はスゴイ」
と語る作業療法士はたくさんいて
その一方でそう語る作業療法士が
「質問された時に言葉で作業療法を説明できない」という現状は
作業療法士の一人として素朴にヘーンなの!って感じています。
自分がヘンだと感じることは
少なくとも自分自身の言動としては行いたくないですから
よっしー版として、ご提案⭐︎
小児分野(今は発達と言うんですよね)でOTとしてのキャリアをスタートさせ
老健に長く勤務したバックグラウンドを持っているから
多分いろいろと自分自身の頭で考えることができたんだと思う。
そのことの幸運に感謝しています。
作業療法とは何?
作業の何が対象者に寄与できるの?
やりたいことをやると元気になるのはなぜ?
そういった日々の仕事にかき消されそうになるような本質への問いに
葛藤を抱えながらも向き合い続けている方へ向けて
よっしー版として、ご提案⭐︎
あなたがあなたの考えを見出せるようになるまでの間
一時期、仮の考えとして活用してもらえたらいいな
と考えて提案します。
作業療法は他の様々な療法と同じように
対象者に寄与できるための一つのツールなんです。
ツールだからこそ、ツールに使われるのではなくて
ツールの強み、弱みをよく認識して活用できるようにならないと。
かつて、様々な失敗を重ねてきて
ようやく言語化できるようになった一人の作業療法士からの提案です。
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バリデーションを学んで本当に良かったと思う。
そして、今さらながらに
バリデーションの良さに気がつくことがある。
これからもきっとこんな風にして
何回も気づき直し、学び直しすることになるのだと思った。
共感しているフリは、確実に伝わる
ということを改めて実感
「理解はできなくても共感することはできる」
バリデーションの実践には
ものすごく感情と感覚を使うけれど
背景にある理論の組み立ては、ものすごく明解で論理的
実践のための枠組みだから
できるようになることを求めている。
そこが性に合う。
私はお涙頂戴はキライなんです。
耳触りの良い綺麗な言葉が流行っているけれど
その実践の難しさを思うと
(だって自分の子供に寄り添うのだって難しいことだし、何事も唱えていれば叶うわけでもないし)
流行り言葉には飛びつけないし、情緒的な展開に対しても
じゃあ、どうやって実現するのかそっちのが大切って考えてしまいます。
実践のための枠組み
論理的な明解さ
バリデーションを学べて本当に良かった。
そして、繰り返し学び直せることに感謝を。
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通所系あるいは入所系の事業所において
「何をしてどのように過ごしていただくか」
というのは課題の1つです。
日々の業務に忙殺されて
実は何となく提供していたり
できる→やっていただく
という視点で考えているだけだったり
雑誌などに掲載されていたことを行ってみたり
という場合が少なくないのではないでしょうか。
その最たるものが塗り絵です。
塗り絵が悪いわけではありません。
ですが、なぜ目の前にいるAさんに塗り絵なのか
その提供理由を明確に言語化できる人がどれだけいるでしょうか。
塗り絵は手を使うし色の区別も必要だから認知症の進行予防によい
と言う人もいるかもしれません。
でも、塗り絵をしても残念ながら認知症という状態像は進行していきます。
そのことを最も自覚しているのは認知症のあるご本人です。
努力してもできなくなる、難しくなってきた…そのような実感を明確に感じています。
逆に私たちの立場で考えてみて
数学の問題は論理的思考力を鍛えるのにいいからやりましょう
と言われてどれだけの人が積極的にやるでしょうか?
モチロン、嬉々として集中して取り組む人だっているでしょう。
当たり前ですけど、人によりけり。ということなんです。
そして、事業所を利用していない時のご家庭での過ごし方について
多くの場合、ご家族は「何をして過ごしてもらったらよいのか」悩んでおられます。
でも、利用している事業所からアドバイスをもらえることもまた少ないように感じています。
この問題は介護保険サービスの事業所において
あまり表面化していなかったとしても存在している問題だと感じています。
単に「やりたいことをやる」「好きなことをやる」というだけでは
解決できない問題があるどころか、逆効果にすらなる場合もあるということについては
いろいろなところで述べてきました。
若年性認知症のある方の居場所がない。という問題もあります。
ですが、問題の本質は本当に「Where」なのでしょうか?「What」なのでしょうか?
本当は「How」が問われているのではないでしょうか?
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今、私が接している認知症のある方は
さまざまな援助を受けながらも
暮らしの困難が解消されなくて入院された方だから
対象者の母集団がある意味、限定されている可能性があるとは思っています。
「問題がない」方が存在しているけれども、私がただ会う機会がないだけなのだと。
ただ、表面的に「問題がない=適切な対応ができている」とは言い切れないとも感じています。
「こんなに明確に説明されたのは初めて」
「今まで誰も教えてくれなかった」
「そういうことだったんですね」
私に言われたご家族の言葉です。
在宅で介護保険サービスを複数使っていても
それぞれの事業所はそれぞれの役目を果たそうと一生懸命に努力されていることと思います。
けれど、その一方でサービスを使ってもご家庭での困りごとに対して事業所がアドバイスをする
ということもまた少ないように感じています。
つまり、介護保険サービスを使っているにもかかわらずご家庭での家族間での困りごとは
ご家族がなんとかするしかない…という構図もあるのではないでしょうか。
NHKスペシャルで放送された「介護殺人 当事者たちの告白」
その取材記録をまとめた本です。
NHKスペシャル取材班『「母親に死んでほしい」−介護殺人・当事者たちの告白−』新潮社
この本の中には
介護殺人に至ったケースの3/4は何らかの介護保険サービスを利用していた
なかにはホームヘルパーを毎日利用していた方もいた
隣近所からも孤立しているわけではなく近隣との交流がある方の方が多かった
という記載があります。
介護だけに没頭して
ご家族だけが抱え込んでいるわけではない
にもかかわらず悲劇が起こってしまっている。
つまり、単にサービスを利用するだけでは解決しない
ということが現実に示されているのです。
本の中には
「認知症という病気を理解しろと言われても理解しても介護負担が軽くなるわけではない」
という介護者の言葉も記載されていました。
この言葉に
まさしく現在表面化はしていない、けれども厳然としてある
認知症のある方をとりまく現実の一端が端的に示されているように感じました。
認知症のある方に適切な対応の工夫は
介護する側にとっても負担が軽くなる方法です。
お互いにとってプラスの体験を得られるようになります。
1人でも多くの方に伝わりますように。。。
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