実習で思い知ったこと

もう何十年も前のことですけれど
私も実習に励む学生でした。

実習で学んだことは数あれど
思い知らされたことは、責任の重さでした。

対象者の方を評価する

今は指導者がいて
教えてくれる、フォローしてくれる、間違いを正してくれるけれど
いずれは(そう遠くないうちに)こんな私が自分一人で
対象者の方を評価してその評価に則って治療をしなくてはいけない
その責任の重さにとても怖くなりました。

だからこそ、学ばねば。
自分の不出来のせいで対象者の方に不利益があってはいけない。

本当に必死でした。。。
「OTとはなんぞや?」なんて考える暇もない。

自分が納得できる、本当に効果のある考え方とそれに基づいた方法論を
自分の中で整理して言語化できるようになったのは、もっとずっと後のこと。

皮肉なもので
「OTとはなんぞや?」なんて考えたこともない私が
今では「OTとは何か」を明確に言葉にできるようになりました。

ま、当たり前といえば当たり前ですよね。
だって私はOTとして養成され仕事をしてきたわけで
それ以外の何者にもなれなかったのだと
今はわかります(^^;

卒業してからしばらくは
よくわかりもしない、出来もしないくせに
とりあえずはその場を取り繕うようなことしかできなかったし言えなかったし
そういった自分を心底情けなく思っていたし
色々な本を読み、研修に出かけ、でも自分にとっての手応えがなくて
本当に辛い時期が続きました。

自分の求めていることと違うということはわかるけど
どうしたら良いかがわからない。。。

でも、そこで諦めなくて本当に良かったと思っています。

諦めていたら
事実を事実として認識できず
自分が困らないように、事実を事実のままに認識できる人を否定するようになっていたと思う。

対象者の方に対しても
周囲の人に対しても
自分自身に対しても
誠実では在り得なかったと思う。

心の片隅で、葛藤を覚えていても知らぬふりをして
日々の安寧を優先していたと思う。

対象者の方に信頼されなくても
対象者の方を信頼することができなくても
そんな自分で平気なふりをするしかなくても
何にも感じないように不安や葛藤を抑圧していたと思う。

うわー今こうやって書いていても本当にイヤ!
そんな自分にならなくて、本当に良かった。。。

長くて遠い回り道でしたけれど
時間もかかったけれど、
私にとっては意味のあることで必然だったと思うし
無駄になんてなっていないと思ってはいるけれど
これからの未来を担う人たちに同じ苦労はしてほしくない。
その分の時間とエネルギーをより建設的な方向で使ってほしいと願っています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4298

適切さ//目標

唯一絶対の、万人に効果的な方法などない。

ハウツーを当てはめるようなやり方では
目の前にいる固有のAさんの役に立つことは難しい。

その時その場のその状況において
「適切な」対応をとれること

私がずっと追い求めてきたこと

そして
「適切さ」の根拠は
誰かの承認、誰かの同意なんかではなくて
目の前にいる固有のAさんの目標に置いています。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4297

「何?」「誰?」

私は昔
「誰が言うか」よりも「何を言うか」ということを重視していましたが
今は「誰が言っているか」ということを重視しています。

「誰が」というのは
地位の高低、有名・無名、SNSのフォロワー数の多寡
などという意味では全くなくて
どんな立ち位置で
どんな風に物事を捉える人なのか
という意味です。

人によって
「言葉」の深み、広がりが全然違う。

一見、凡庸な言葉のようで
使う人によってはそうではなかった。ということに遭遇したことがきっかけです。

なぜ、この人がこんなことを言うのだろう?
と思ったら、必然があって使っていて、その内容に深く感じ入りました。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4286

身体の働き>筋力低下

「NHKのくねくね体操」のことを記事に書きました。
https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4278

生活期にあるお年寄りの場合に
暮らしの困難とりわけ移動に関する困難が生じると
「筋力低下→筋力を落とさないように運動」という図式めいた考え方が一般的になっているように思われます。

でも、本当にそうなのかなぁ?という疑問はずっと抱いていました。

例えば
歩けてもスムーズには立ち上がれないというお年寄りはたくさんいらっしゃいます。
一般的には、大腿四頭筋の筋力強化をして、立ち上がりの練習をして。。。
という「リハメニュー」が提供されることが多いのではないでしょうか?

かつて老健に勤務している時に
入所の方でも通所の方でも
立ち上がれない方に対して、座る練習をしただけで
立ち上がれるようになった方が相当数いらっしゃいました。
こちらにも、その内容で何回も記事を書いています。

もしよろしければ
このページの一番上右側にある窓から「立ち上がり」で検索してみてください。
過去の立ち上がりに関する記事一覧を参照することができます。

私は
本当は筋力低下が起こっているのではなくて、身体のはたらきが低下している。
その結果として筋力低下も起こりえる。
と考えています。

だから座る練習で立ち上がれるようになったのだと。
正確に言うと、
座る練習で立つ・座ることの関する身体のはたらきを高めることができたので
立ち上がれるようになったのだと。

座る練習をする過程で積極的に的確に「援助」することが必要で
自立するためには、独力での動作練習を繰り返すだけでは実は効果的ではない。

身体のはたらきを高めるために、まずは的確な援助が必要で
身体のはたらきが高まった結果、独力でもできるようになるのだと。

そして
本来「援助」とは、何の援助でもそういうものなのではないか
と考えています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4288

観える現実が異なる

認知症のある方への対応として
いろいろ言われていますが
職員がどんな視点で関与しているのかによって、観える現実が異なってくる
という前提に関する議論・検討が少ないように感じています。

能力が低下しているから
と観るか
能力によって代償・適応しようとしているか
と観るか

同じ現実に対して、異なる視点で異なる現実を見ている。
だから、どうしたらいいか、意見も違ってくる。

意見の違いは、はっきりわかりやすいから認識しやすいし
現実に必要と迫られていることも相まって、論点としてすり替えられがちです。

視点の違いは、認識しにくい。
そもそも自分がどんな視点を持って観察しているのかということに無自覚な場合が圧倒的に多いです。

「意図こそが重要」

これは、スティーブ・ジョブズの言葉ですが
正しく!
視点によって関与の在りよう、意図が決まってくる。

まずは
視点によって観える現実が異なっている
という本当は当たり前のことから始めると
問題設定の問題に対して、クリアに検討できるようになると考えています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4283

オススメ!「NHKのくねくね体操」

みなさま、ご無沙汰しておりました。
お変わりありませんでしょうか?

私は元気でしたが、あることに取り組んでいてなかなか記事更新できませんでした。
そちらもようやく目処が立ち、久しぶりにここに戻って書いています (^^)

今日はオススメの体操をお伝えしたいと思います。

テレビでご覧になったことのある方も多いと思いますが
NHKの『体の動きをよくする「くねくね体操」「がにがに体操」』です。
https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_725.html

特に「くねくね体操」がオススメ⭐︎

私は、坐骨神経痛になってから、膝や腰が万全ではないのですが
「くねくね体操」を繰り返すと、最初は「がにがに体操」で肘と膝がつかなかったのですが
いつの間にか「がにがに体操」ができるようになりました。

生活期のお年寄りに対して
「筋力強化」「筋トレ」よりも先にやることがある!と常々思っている私にとって
「神経に働きかけて体の動きをよくする」と言う考えはとても納得できます。

小学校の体育に取り入れられているというのも
とても良いことだと思います。

徳島大学名誉教授の荒木秀夫先生が考案されたとか。
なんでこの動きの組み合わせなのか、自分なりに考えてはいますが
荒木先生のお考えをお聞きしてみたいです。
今は難しいでしょうけれど、いつか先生のご講演を聴けたらいいなぁ。

先生がどうお考えになるかはわかりませんが
立位でくねくね体操が難しい方は
椅子に座ってやることでも効果があるように感じています。

お怪我や痛みや障害のある方は
実際に始める前に医師やセラピストにご相談になってから行ってください。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4278

認知症の人と家族の会「実態調査報告書」が公開されています

認知症の人と家族の会のHPにて
「認知症の人と家族の思いと介護状況及び市民の認知症に関する意識の実態調査報告書」が公開されています。

報告書はこちらからご参照いただけます。(サイズが重いのでDLに時間がかかります)
概要版はこちら。

非常に丁寧・詳細にまとめられていて頭が下がります。
読み応えのある報告書ですが、概要の確認はもちろんぜひ詳細をご一読ください。

「認知症に関わる支援者の意識調査」から、一部を抜粋します。
支援者の「そう思う」「ややそう思う」と回答の割合です。

「認知症の人に優しく接することができる」               91.1%
「認知症の行動の意味を理解することができる」              77.5%
「認知症の人へのケアには自信がある」                  55.9%
「認知症の人への支援は専門家が適切な支援を実践してくれると思う」 55.1%

『支援者自身が専門的な支援を受ける立場で回答していると思われ、複雑なケア現場の現状が示唆された』
とまとめられています。

かつて
あるご家族から言われたことがあります。
「いろいろな相談機関に相談に行った。
言われることは確かにその通りだと思ったけど
これに困っていると相談したことへの答えは返ってこなかった。
ここで初めて答えをもらえた。」

また
NHKスペシャル「私は家族を殺した”介護殺人”当事者たちの告白」
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160703
をみた時の衝撃も忘れられません。

介護殺人に至ってしまったケースの3/4で何らかの介護保険サービスを利用していた
にもかかわらず、最悪の事態に陥ってしまったということ

介護家族の
「認知症を理解したって私たち家族の介護は楽になるわけじゃない」という言葉

今までは
介護を家族だけでなく、もっと「場」を増やす、関わる「人」を増やす
という量的拡大がまず必要だったのだと思います。

でも、これからは切実に「質」の向上が求められている。

介護現場では多くの専門家が優しく在りたいと心がけているけれど
それだけでは適切な支援はできない、自信がないと感じながら働いている人の多さを改めて実感しました。

専門家たりえる実践の担保がこれからもっと必要になってくる。

改めて背筋が伸びるような思いをしました。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4280

原因と結果

原因と思っていたことが
実は、結果だったということも起こり得ます。

盲信してしまうのは本当に怖いと感じています。

正常より低下しているような状態を目の前にすると
どうしても、その低下が原因と判断してしまいがちですが
実は、結果だったということも起こり得ます。

例えば
食事場面において
喉頭挙上の動きが悪いという事実があったとして
その事実をどれだけ科学的に客観視できるように
テクノロジーが進歩するのはとても良いことだと思います。

けれど
「喉頭挙上の動きが悪い」という事実があるということと
「喉頭挙上の動きが悪い『から』上手に食べられない」という『原因』とは別の話であって
『事実』と『原因』と混同してはいけないと考えています。

もしかしたら
その『事実』は他の何らかの理由や必然があって『結果』として起こっているのかもしれません。

今まで視覚化できなかった『事実』を明確化できるようになったからといって
そして、その『事実』が通常とは異なるからといって
目の前の困難が『事実』によって引き起こされているとは限らない

他の理由や必然があって
『結果』として起こっている『事実』なのかもしれません。

その判断は私たち人間にしか、できない。

認知症のある方や生活期の方の食事介助においては顕著です。

不適切なスプーン操作を続けていると
認知症のある方が本来持っている準備期の能力低下をきたしてしまうので
結果として口腔期が乱れてしまい
次に咽頭期が低下してしまいます。

ところが、
適切なスプーン操作を続けると
認知症のある方が本来持っている準備期の能力発揮を促すので
口腔期の能力が戻り
咽頭期まで戻ってくる
ということも現実に起こっています。

認知症のある方の咽頭期の能力低下という『事実』は
『原因』と思われていたけれど
実は、不適切なスプーン操作の『結果』だった
ということが現実に起こっているのです。

だからこそ、変えられることもある。

そして
同じコトが食事介助以外の場面でも違うカタチで起こっている。

科学技術の進歩によって
今まで知ることができなかったことを平等に誰もが認識できるようになるのは
素晴らしいことだと思う。

でも
事実と原因と結果とは違う

原因と思われていたことが
実は結果だったということも起こり得る。

思考回路が因果関係論的なICIDHに染まっていると
どうしても新事実発見→原因発見→原因改善のように考えてしまいがちだけれども
相互関係論的なICFの思考回路を習得することによって
新たな知見を過大評価も過小評価もせずに
事実を事実として組み込んだ現状認識、評価、アセスメントに結びつくのだと考えています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4265