「あれ?立てた」

筋力低下は結果として起こっていて
本当は身体の使い方の問題だった
ということってすごく多くみられています。

お年寄りや
認知症のある方が
歩けても立ち上がれないような時に
「立てない=筋力低下」
という図式的な理解が広まっていますが
声を大にして言いたい。

立てない=身体の使い方が不適切なだけ

身体の使い方のトレーニングをすれば、立ち上がれるようになる

身体の使い方のトレーニングをせずに
大腿四頭筋の筋力強化だけをしても効果がない
表面的に立ち上がりを何回繰り返しても効果がない

立ち上がれるだけの身体の使い方ができているから
回数を重ねられるのであって
立ち上がれるだけの身体の使い方ができていないのに
回数だけやったって無意味どころか逆効果になってしまいます。

頑張ろうと思っても
効果が実感できなければ
自信を喪失してしまいます。

やってみたら効果が実感できた
やってみたら身体が動いた
という体験があるからこそ、
結果として、もう一度頑張ろうと思える。

結果の前提である体験なしに
「頑張れ」と言っても相手には届かない。
手段の目的化の声かけをしているだけだから。

「食べる」こともそうですが
「立ち上がり」も乳幼児期から繰り返し行なってきた
究極の手続記憶でもあります。

全介助でも立位保持できない
両膝が屈曲してしまい、股関節も屈曲してしまい
過剰に力が入っているので移乗時に介助者の負担も大きい方がいました。
(こういうケースは非常に多い)

硬くなっている筋肉のリラクゼーションをして
座り方を何回も繰り返すことによって
身体の使い方をトレーニングしたら
全介助でラクに立ち上がり、股関節・膝関節伸展位で立位保持できるようになりました。

「あれ?立てた」

その時のご本人の言葉です。

私にとって衝撃の言葉でした。
なぜなら。。。(続く)

 

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ADL介助はコミュニケーション

ADL介助はコミュニケーション

結果として起こっている
できる、できないを見て
できないところを介助してそれで終わってしまうのは
本当にもったいない。

ADL
食事にせよ、更衣にせよ、排泄にせよ
認知症のある方は、必ず環境を感受し、その方なりに認識し、関与しようとしている。
一見、不合理であったとしても。

その一連の過程を
私たちが把握することが叶えば
表面に見えなくなっていただけの、能力を観ることにつながる。

能力を把握できれば
私たちの介助も自然と変わる。

「親切に」「優しく」「怒らずに」
というスローガンを唱えずとも
認知症のある方の現状を把握できた結果として
自然と「親切に」「優しく」なり、「怒らない」ようになる。

コミュニケーションだから
双方向に影響をしあう。

たとえ
今すぐに認知症のある方の能力を観ることが出来ないにしても
観ようとしている意思があるということが大切。

コミュニケーションだから
その意思は伝わっている。

コミュニケーションが始まっている。

 

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会話の工夫14

何か綺麗なものを作れたり
誰かと楽しく話をしたり
それは素晴らしいことで
その可能性を追うことも大切だけど

ADLは認知症のある方の身体に密接に関係していること
手続き記憶を活用できる場面でもあるから
何か特別のことをすることが難しくなってしまった方には
とりわけ、意思疎通困難な方には
ADLをもっときめ細やかに観察・評価・検討することが
ブレークスルーにつながっていくことが多々あります。

「食べられるようになるスプーンテクニック」
に詳述していますので是非ご覧ください。

ADLを単にADLと捉えるだけだと
できるところはやっていただき、できないところは介助する
で終わってしまいますが、それではもったいない。

ADLという「場面」に反映されている
その方の能力と困難と特性を把握できる貴重な場面だからです。

Activityは、過去の経験の有無や得手不得手が
大きく関与してしまいますが
ADLはしたことがない人はいないし
(例え介助下であっても経験はしている)
得手不得手に関係なく、遂行してきた活動です。

できることのでき方を観察・質的評価をきちんと実施し
能力と障害の反映を洞察すると
認知症のある方がどんな風に環境を把握し環境に働きかけようとしているか
ありありと実感できるようになってきます。

そうすると接し方が変わる。
変えるのではなくて自然に変わる。
認知症のある方の現状の理解の深度が滲み出る。

認知症のある方に
話しかける言葉の一つ一つに滲み出る。
そう感じています。

 

 

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会話の工夫13

認知症のある方で
立ち上がりはできるけれど歩くのは不安定な方って結構いらっしゃいます。

そんな方が立ち上がったら
たいていの方は「立っちゃダメ!」「立たないで!」
って言うと思います。

でも、その言葉だと認知症のある方は立ち上がり続けてしまうんです。

私は「座っていて」と言っています。
緊急性の高い時には「〇〇さん、止まって!」「ストップ!」
と言います。

違いが分かりますか?

「 Do not 」「してはいけない」と言われても
どう行動を修正したらいいのかわからないのです。

今している行動は良くない、やめてほしいとしたら
どうしたら良いのか、修正すべき行動を言葉にする
「 Do 」を言われなければ行動を修正できないのです。

「立っちゃダメ」「立たないで」という禁止表現ではなく
「座る」「止まる」という、してほしい行動を直接言葉にします。
それから
「どうしたんですか?」
「どこに行きたいんですか?」
と立ちたかった必然を尋ねます。

立ち上がるには立ち上がるだけの必然があります。

トイレとか
お尻が痛いとか
お風呂に入ろうと思ってとか
家に帰らなくちゃとか。。。etc.
その必然性に応じて対応していきます。

時には
じっと座っていられない
落ち着いていられない
という状態のこともあります。

そんな時には
「立たないで」「座っていて」と「言う」のではなくて
「 Be Calm 」
「 Calm 」という状態に「なれるように」援助することを考えるのが
私たちの仕事だと思っています。

「 Calm 」という状態になったから
結果として、
立ち上がらない、座っている
という状態になる。

「 Do 」ではなくて「 Be 」として。

結果だけを求めて
「立っちゃダメ」「立たないで」
と言い続けることは手段の目的化になってしまっている。

一つ一つの場面で
自分の声かけを具体的に内省・検討していくと
本当は何に悩むべきかということが
自分の中で明確になってくる。

将来、建設的に対応できる自分になるための
模索の道を進めるようになってくる。

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会話の工夫12

「アポロ13」という映画があります。
私の大好きな映画のひとつです (^^)

エド・ハリス
ゲイリー・シニーズ
トム・ハンクス
出演している俳優さんも大好き

初めて見た時には
なんといっても
本当にあったことだという衝撃

宇宙空間での致命的な事故
度重なる困難
地上のスタッフと搭乗員との連携・必死の努力で無事帰還。。。

あの時代に
手計算で計算してるシーンや
バックアップスタッフが同様の環境下でシュミレーションするシーンは感動的です。

「ウィキペディア:アポロ13」
「映画で感じる!ものづくり:アポロ13」

未見の方には是非オススメします!

私がハッとしたシーンは
危機的な状況でパニックに陥りかけた状況で
エド・ハリス演じる飛行管制主任が
「 Be cool 」って言ったんです。
字幕では「冷静に」だったと思う。

その言葉を聞いて思ったことがあります。

日本だと
「静かにしなさい」
っていう言葉はよく聞きますが
「静かにする」んじゃなくて「静かになる」んだよなぁって思ったんです。

「 Do not 」ではなくて「 Be 」

私にとって、大きな気づきでした。

(続く)

 

 

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会話の工夫11

認知症のある方に接する時
お話しようとするにも
ADLの介助をしようとするにも
リハをしようとするにしても
必ず目を見て
(仮に目が合わなかったとしても)
挨拶してから何をするのかを説明しています。
(説明の仕方はいろいろですが)

たとえ
意思疎通が困難な方であったとしても
アイコンタクトができなかったとしても
大声で叫んでいても

基本中の基本ですが
徹底していると
疎通が良くなってくるケースが本当に多い。
その方の能力に応じて変化を実感できます。

能力が喪失したのではなく
見えなくなっていただけなんだ。。。

BPSDが激しかったり
意思疎通が低下していると
「何を言ってもわからない」と思い込んでしまう人もいるかもですが
絶対にそんなことはないので
基本に忠実に徹底して継続していただきたいと思っています。

問題は
どうして見えなくなってしまったんだろう?
ということです。

見えなくなっていた能力を取り戻せた
ということは
そもそも、見えなくならずに済んだ可能性だってあるのでは?
と考えています。

 

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会話の工夫10

私が新卒だった頃には
食事を始めとするADLの奥深さを全くわかっていなかった。
今、つくづくそう思っています。

言葉だけでのやりとりは限界があります。

重度の認知症のある方の中には
ADLが全介助、自発語もない方もいらっしゃいます。

だからといって
希望が全くないわけじゃない。

日々のADL介助そのものが
ノンバーバルコミュニケーションになる

ADLの介助を
目の前にいる方に対して適切に行えるためには
目の前の方の状態を観察して
何が起こっているのかを洞察できることが必要
洞察に基づいて介助してみて
自身の介助の適否を相手の反応を確認しながら修正しつつの関与が必要

その一連の過程において
目の前にいる方の「援助」をしようという自らの意図を揺るがせずにいることが
一連の過程を担保することになる

言葉は行き交うことがなかったとしても
行動というもう一つの言葉
身体反応というもう一つの言葉が
沈黙の中で豊かに行き交っている。

適切なADLの介助ができれば
それは、同時に、ADLの下支えとなる、あるいはメタ機能としての
コミュニケーションー観察・洞察・確認ーが
適切に行えていたということの証左となります。

意思疎通困難な方の食事介助を行うと
食べられるようになることと並行して
疎通が改善されるようになることも多々経験しています。

「食べられるようになるスプーンテクニック」
に具体的に記載していますので是非ご覧ください。

最初の頃は単に嬉しかっただけですが
起こっていることの意味がわかってくると
嬉しさも増す反面、怖さも実感するようになってきました。

認知症のある方は
能力を喪失してしまったわけじゃない

そういうことが深く実感できる体験は
対人援助職を続けていくことの支えであり励みであり
襟を正す機会にもなっています。

 

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「ヴォーカルコミュニケーション」

精神科医のH・S・Sullivanの言葉を紹介します。

 

「verbal therapy はない。あるのは vocal therapy だけで ある。」

精神保健福祉愛知2014
「サリヴァンの非言語的コミュニケーション論とそのフロム=ライヒマンによる発展」
愛知県精神保健福祉センター 保健管理監 藤城 聡

 

「精神医学的面接とはすぐれて音声的(ヴォーカル)なコミュニ ケーションの場である」

「精神医学とはなによりもまず音声コミュニケーションの問題である。
コミュニケーションとはなによりもまず言語的だという思い込みはきわめて重大な誤りではなかろ うか。
述べられた命題文のほんとうのところが何であるかをおしえるのは、言語にともなう音である。」

「精神医学的面接」みすず書房 1986年

 

認知症のある方に対しても
通底するところがあると感じ、また考えています。

言葉だけに頼り過ぎたり
言葉をのせる声が威圧的だったり金切声だったり平板だったりすると
言葉が届く前に
声に反応して
拒否という正直な行動で返ってくる。
反応としての行動だから、結果として起こっている反応だけを見て
どう修正しようか、どうなくそうか、と考えても
反応の元を正さなければ悪循環になってしまいます。

声で伝わる。
声が伝えてしまうことがある。

おそらく、認知症のある方への対応の工夫について
声について公言している人はそう多くはいないでしょう。

結果として不適切な「声」で対応していて
不適切な反応としての不適切な言動や生活障害やBPSDを引き起こしてしまい
表面的に対応を検討するという悪循環が起こっている恐れが高いと思います。

逆に言えば、これからもっと「対人援助職が声に注目」して
自身の声を意識化することができるようになれば
変わってくることがたくさんあるだろうと考えています。

精神医療に携わる私の知人は
「言葉でウソをつけても、声はウソをつかない」
と言っています。

本当にその通りだと感じています。

 

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