「あれ?立てた」5

トランスファーの場面で
膝も股関節も屈曲してしまい
全身に過剰に力が入って硬くなってしまう方だと
重介助になってしまいます。

その方、ベッドで端座位をとって靴の脱ぎ履きをする時に
コロンと後方にひっくり返りそうになりませんか?

仰向けに寝ていても
全身がまるで一本の丸太のようにガチガチになっていませんか?
骨盤と肩甲帯の間で分離運動ができていない状態ではありませんか?

このような状態像の方は
「筋力低下のために移乗動作全介助」と誤認されることが多いものですが
表面的に関節可動域訓練や大腿四頭筋の筋力強化などをしているだけだと
逆効果になってしまい本当に筋力低下を起こし寝たきりになってしまう恐れが非常に高いケースです。

そのような方法は
ご本人にとっても介助する人にとっても良いコトがありません。
今現在も将来にわたっても。

もしも膝や股関節に屈曲拘縮を起こしていて
トランスファーの時に足が伸びなかったとしても
ベッドに寝ていただいた時に伸展制限がマイナス30度くらいであれば
トランスファーの自立度が向上し介助量軽減できる可能性が高いです。
立ち上がりの時の身体の使い方が改善し
立位保持の時に下肢で自重を支えられるようになる可能性が高いです。

どうするかというと。。。(続く)

 

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「あれ?立てた」4

「どうせムリでしょ」と対人援助職が内心思っていながら
表面的に笑顔を取り繕い「頑張りましょう」と表面的に「言う」ことは
最も重要で最も必要な過程を通り越して
結果だけを表面的になぞっている
つまり、手段の目的化をしているだけです。

当然、そのような対応では効果が出るはずもありません。
ところが手段の目的化をしている人は
「私はこんなに頑張ったんだけど効果が出ないのは
やっぱり認知症だから仕方ないよね」
と誤認しがちです。

頑張りどころも頑張り方も
私に言わせればズレてるけれど、
当人にとっては頑張っている(まさしく)ので
結果として誤認するしかないというのも理解はできます。
賛成できないけど。

そういう人には
異なる体験が必要です。

「重度の認知症のある方でも変わるんだ」

そういう体験ができた後で
認識と対応を変えられる人もいる。

変えられない人は
どこまで自覚できているかはともかく
変えたくない、自分は変わりたくないという強い思いと
その思いに至る必然性があるということ。

単にラクして良い目を見たいという人もいるかもですが (^^;
それはないよね。
ラクして良い目を見られるのは
対象者の状態が軽度で心身ともに余力がある方だと思う。

それにしたって
対象者に負担がかかっているわけで。。。
今「問題が表面化しない」からといって
「問題がない」わけではない。

そこを見据えたうえで
いろいろな事情を総合的に勘案して
「問題を先送りする」という判断は有りだとは思いますが
誤認・混同・無自覚とは全然違います。

手段の目的化は
ケアの現場のあちらこちらで散見されています。

それはきっと今に始まったことではなくて
ずっと潜在化していたことなのだろうと感じています。

必要に迫られて作ったマニュアルが次のマニュアルを生む
ということにならないように

目の前に起こることに誠実に対処していく
そこから地道に積み重ねていく

課題も解決への道も
常に目の前に展開されている
そう感じています。

 

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「あれ?立てた」3

体験を通して
「立てるようになるかも」
と実感していただけることが肝要と考えています。

例え、全介助の時からでも
「あれ?」「なんか違う」「楽に動けた」
という体験そのものがまず必要で
その蓄積をしていくと本当に変わってきます。

誤学習を長期間積み重ねてしまった方には
異なる身体の使い方を習得するまでには時間がかかりますが
その過程においても「エラーレスラーニング(誤りなし学習)」を
蓄積することが肝要です。

認知症のある方は体性感覚を通して感受することができます。
再生(自分から思い出す)できなくても
再認(正解を提示されれば思い出せる)できる方はとても多い。
特に体験を通して再認できる方は重度の認知症のある方でも大勢います。

身体に直接働きかけるADLの介助は
その都度再認という能力に働きかけられる貴重な場面
重度であるほど認知症のある方にとって重要な場面と言えます。

でも、実際は逆になって考えられていることがあるんじゃないかな?
「どうせわからないから」
って対応されてしまうことがあるのではないでしょうか?

そうすると
認知症のある方には
「立てない」と思われつつ介助されてるということが伝わり
立ち上がりの場面で
「あ、これは前も立てなかったことだ」と再認し
どう身体を動かしたら良いのかわからないまま動かされることに
頑張って力を入れて適応しようとして
(実際には誤介助誤学習となってしまっている)
結果として、「やっぱり立てない」という再確認にしかならない。。。

介助者も認知症のある方も
双方が「立てない」という認識を強化しあってしまう。。。

そんな現実から脱却していくためには
「エラーレスラーニング(誤りなし学習)」で
異なる体験に基づいた異なる認識を積み重ねることです。

「あれ?」
「立てるかも?」
「立てそう」
と感受しながら
「この前はラクだった」と再認しながら
「できるかも」を積み重ねていく。。。

その第一歩は
認知症のある方の能力を的確に見出すことができる、対人援助職の意思と洞察力です。

そして次に
どう身体を動かしたら良いのかを実地に伝えることができる
そして、動くだけの身体に変化させられる、対人援助職の技術です。

たった一人でも
そのような対人援助職がいれば
認知症のある方は、重度な方でも持っている能力に応じて変わります。

まずは
最初の一人になれるように。。。

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「あれ?立てた」2

「あれ?立てた」

この言葉がスッと出てきたということは
立てないものだと、認知症のある方自身が思っていた
ということを意味しています。

その前提として
立てない体験がずっと続いていたということも容易に推測できます。

さらにその前提として
職員も暗黙のうちに「立てない」として対応していたということが推測できます。

認知症のある方も職員も「立てない」と思い込んでいる。

立ち上がりという日常の中で頻回に行われる動作場面において
体験するたびにその思い込みが強化されてしまっている
まるで催眠にかけられたかのように

こうなると悪循環

どんなに機能アップを意図して大腿四頭筋の筋力強化をしても
実際の場面では真逆の体験をして
思い込みを強化しあってしまっているので
立ち上がれるようにならない
ということになってしまいます。

じゃあ、どうしたら良いのか

別の体験もしくは擬似体験が必要

「あれ?立てた」

そこから次の展開に持ち込める第一歩が始まります。
展開のキーワードは「エラーレスラーニング(誤りなし学習)」です。
なぜかというと。。。

 

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「あれ?立てた」

筋力低下は結果として起こっていて
本当は身体の使い方の問題だった
ということってすごく多くみられています。

お年寄りや
認知症のある方が
歩けても立ち上がれないような時に
「立てない=筋力低下」
という図式的な理解が広まっていますが
声を大にして言いたい。

立てない=身体の使い方が不適切なだけ

身体の使い方のトレーニングをすれば、立ち上がれるようになる

身体の使い方のトレーニングをせずに
大腿四頭筋の筋力強化だけをしても効果がない
表面的に立ち上がりを何回繰り返しても効果がない

立ち上がれるだけの身体の使い方ができているから
回数を重ねられるのであって
立ち上がれるだけの身体の使い方ができていないのに
回数だけやったって無意味どころか逆効果になってしまいます。

頑張ろうと思っても
効果が実感できなければ
自信を喪失してしまいます。

やってみたら効果が実感できた
やってみたら身体が動いた
という体験があるからこそ、
結果として、もう一度頑張ろうと思える。

結果の前提である体験なしに
「頑張れ」と言っても相手には届かない。
手段の目的化の声かけをしているだけだから。

「食べる」こともそうですが
「立ち上がり」も乳幼児期から繰り返し行なってきた
究極の手続記憶でもあります。

全介助でも立位保持できない
両膝が屈曲してしまい、股関節も屈曲してしまい
過剰に力が入っているので移乗時に介助者の負担も大きい方がいました。
(こういうケースは非常に多い)

硬くなっている筋肉のリラクゼーションをして
座り方を何回も繰り返すことによって
身体の使い方をトレーニングしたら
全介助でラクに立ち上がり、股関節・膝関節伸展位で立位保持できるようになりました。

「あれ?立てた」

その時のご本人の言葉です。

私にとって衝撃の言葉でした。
なぜなら。。。(続く)

 

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ADL介助はコミュニケーション

ADL介助はコミュニケーション

結果として起こっている
できる、できないを見て
できないところを介助してそれで終わってしまうのは
本当にもったいない。

ADL
食事にせよ、更衣にせよ、排泄にせよ
認知症のある方は、必ず環境を感受し、その方なりに認識し、関与しようとしている。
一見、不合理であったとしても。

その一連の過程を
私たちが把握することが叶えば
表面に見えなくなっていただけの、能力を観ることにつながる。

能力を把握できれば
私たちの介助も自然と変わる。

「親切に」「優しく」「怒らずに」
というスローガンを唱えずとも
認知症のある方の現状を把握できた結果として
自然と「親切に」「優しく」なり、「怒らない」ようになる。

コミュニケーションだから
双方向に影響をしあう。

たとえ
今すぐに認知症のある方の能力を観ることが出来ないにしても
観ようとしている意思があるということが大切。

コミュニケーションだから
その意思は伝わっている。

コミュニケーションが始まっている。

 

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会話の工夫14

何か綺麗なものを作れたり
誰かと楽しく話をしたり
それは素晴らしいことで
その可能性を追うことも大切だけど

ADLは認知症のある方の身体に密接に関係していること
手続き記憶を活用できる場面でもあるから
何か特別のことをすることが難しくなってしまった方には
とりわけ、意思疎通困難な方には
ADLをもっときめ細やかに観察・評価・検討することが
ブレークスルーにつながっていくことが多々あります。

「食べられるようになるスプーンテクニック」
に詳述していますので是非ご覧ください。

ADLを単にADLと捉えるだけだと
できるところはやっていただき、できないところは介助する
で終わってしまいますが、それではもったいない。

ADLという「場面」に反映されている
その方の能力と困難と特性を把握できる貴重な場面だからです。

Activityは、過去の経験の有無や得手不得手が
大きく関与してしまいますが
ADLはしたことがない人はいないし
(例え介助下であっても経験はしている)
得手不得手に関係なく、遂行してきた活動です。

できることのでき方を観察・質的評価をきちんと実施し
能力と障害の反映を洞察すると
認知症のある方がどんな風に環境を把握し環境に働きかけようとしているか
ありありと実感できるようになってきます。

そうすると接し方が変わる。
変えるのではなくて自然に変わる。
認知症のある方の現状の理解の深度が滲み出る。

認知症のある方に
話しかける言葉の一つ一つに滲み出る。
そう感じています。

 

 

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会話の工夫13

認知症のある方で
立ち上がりはできるけれど歩くのは不安定な方って結構いらっしゃいます。

そんな方が立ち上がったら
たいていの方は「立っちゃダメ!」「立たないで!」
って言うと思います。

でも、その言葉だと認知症のある方は立ち上がり続けてしまうんです。

私は「座っていて」と言っています。
緊急性の高い時には「〇〇さん、止まって!」「ストップ!」
と言います。

違いが分かりますか?

「 Do not 」「してはいけない」と言われても
どう行動を修正したらいいのかわからないのです。

今している行動は良くない、やめてほしいとしたら
どうしたら良いのか、修正すべき行動を言葉にする
「 Do 」を言われなければ行動を修正できないのです。

「立っちゃダメ」「立たないで」という禁止表現ではなく
「座る」「止まる」という、してほしい行動を直接言葉にします。
それから
「どうしたんですか?」
「どこに行きたいんですか?」
と立ちたかった必然を尋ねます。

立ち上がるには立ち上がるだけの必然があります。

トイレとか
お尻が痛いとか
お風呂に入ろうと思ってとか
家に帰らなくちゃとか。。。etc.
その必然性に応じて対応していきます。

時には
じっと座っていられない
落ち着いていられない
という状態のこともあります。

そんな時には
「立たないで」「座っていて」と「言う」のではなくて
「 Be Calm 」
「 Calm 」という状態に「なれるように」援助することを考えるのが
私たちの仕事だと思っています。

「 Calm 」という状態になったから
結果として、
立ち上がらない、座っている
という状態になる。

「 Do 」ではなくて「 Be 」として。

結果だけを求めて
「立っちゃダメ」「立たないで」
と言い続けることは手段の目的化になってしまっている。

一つ一つの場面で
自分の声かけを具体的に内省・検討していくと
本当は何に悩むべきかということが
自分の中で明確になってくる。

将来、建設的に対応できる自分になるための
模索の道を進めるようになってくる。

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