私が疑問に思うこと
えてして
リハやケアの現場では
「その人らしく」ということと「ADLの介助」が切り離されがち
その人らしく=レクや手工芸やお話などの時間をとってすること
ADLの介助=できることはしていただきできないことを介助する
ADLの介助にこそ、
その人らしく…ということが問われると思うんだけどな
ADLの訳は「日常生活動作」だけど
現実には、ADLって「動作」じゃなくて「行為」だもの。
11月 28 2011
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11月 25 2011
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11月 24 2011
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11月 22 2011
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11月 21 2011
ご存知のように
HDS−Rの最後は語想起課題です。
あまり答えられなかった方は不全感を抱えてしまいます。
特にセッションの最後にHDS−Rを行った場合には
失敗体験、喪失体験を抱えたままリハ室を出ることになります。
ですので、終わり方には気をつけています。
例えば
野菜の名前を「じゃがいも、さといも」
の2つしか答えられなかったとしたら
「焼き芋にするお芋って何芋でしたっけ?」
「輪切りにして天ぷらにしたり、
大学芋にするお芋って何でしたっけ?」
等とヒントを出して答えてもらったり
「じゃがいもを使ったお料理って何がありましたっけ?」
「じゃがいもを使ったお料理で1番好きなものって何ですか?」
等とお話したりします。
もちろん、
ここで得られた情報は今後の展開に活用することはあっても
HDS−Rの検査結果に反映されることはありません。
検査終了後、すぐにおしまい!ではなくて
ワンクッションおくようにしているだけです。
そうしたからといって
失敗体験や喪失体験に伴う感情を解消できるわけではありませんが
こちらのマナーとしてそうしています。
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11月 18 2011
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11月 17 2011
昨今、実習生からよく聞く言葉です。
そんな時に私はこう言っています。
「HDS−Rをとらなくても記銘力について誰にでも明確に説明できるくらいに把握しているならとらなくていいよ。でも、それができないならきちんととりなさい。」
本来、HDS−Rに限らず、検査というものはすべからくそういうものです。
ある視点からみた一面を明確化してしまう…
もちろん、配慮は必要です。
でも、なぜ検査をするのか。
大切なことは
私たちはプロとして適切な援助をするために
必要な情報を得るために検査をするということなのです。
だとしたら、考えるべきは
必要な情報を他の代替手段で入手できるのか?
できなければ、必要な情報を入手できる方法を遂行するしかない。
そして、検査過程において
対象者を傷つけるおそれをおかしてまで入手したのだから
結果や得られた情報を
きちんと援助に活用するということなのではないでしょうか。
HDS−Rをとることが目的化してしまったり
援助にHDS−Rから得られた情報を活用できていないということを
もっと考え直したほうがいいように感じています。
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11月 16 2011
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