Category: よっしーずボイス(ブログ)

昨日の記事の続き。
そのココロは…のココロの巻です (^^)
遠くから指し示した椅子に座れる
…ということは
たくさんのモノの中から
椅子に注意を焦点化することができ
それを覚えていられて
なおかつ、椅子にたどり着いた時に
「座る」という動作を遂行することができる
…という能力があることを表しています。
目的地まで歩く+座る
という同時並行課題ができる
目的地を明確化できる
目的地を忘れずに覚えていられる
…ということです。
目的地の椅子のところまでお連れして
その場で「座る」こと「だけ」を 説明する。
そうすればできる方も大勢いらっしゃいます。
物理的距離の遠近によって
必要とされる能力も異なってくる。
ご本人の能力は必ず任意の環境下で発揮されるものなのですから、環境とペアで語られるべき性質のものです。
そこにこそ、私たちの介入・対応の工夫の余地がある。
ところが、現実には、この部分が あまりにも自覚されていないように感じられてなりません。
「対応の工夫」というモノが
いろいろなところでいろいろに囁かれていますが
結局のところ、『ご本人の能力』と 『対応の工夫』とは、一対のものであって切り離しては語れない。
まず、評価があって、初めて工夫を語ることができるのだと感じています。
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指差しながら
「あそこの赤い椅子に座ってください」
で、赤い椅子に座ることができる方もいるけれど
赤い椅子のところまできて
「ここに座りましょう」と手で指し示して
ようやく座れる方もいる。
距離…って大事。
そのココロは…明日!
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『 ありが10(とう)なら
芋虫20(はたち)
蛇は25(にじゅうご)で嫁に行く 』
お年寄りから教えてもらいました!
意味は聞いたけど…よくわからなかった(^^;
地域によって
ミミズが出てきたり
19でお嫁さんに行ったり
どうも微妙に言い回しが変わるらしいです。
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相手の内面が変わる時には
変化を待つことも必要。
3歩進んで2歩下がる(^^;
そんな時もあるけど
良くなっていく時には
右肩上がり一直線まっしぐら…ってわけじゃない。
良くなったり悪くなったりしながらも
だんだんと
着実に
変わっていく。
その変化を待つのも仕事。
その間の不安な気持ちを支えるのも仕事。
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言葉に頼りすぎて
言葉にとらわれすぎて
本来
言葉をのせている、あるいは、言葉が伝えるはずのモノを
見失ってしまうのは哀しい。
言葉に頼りすぎず
言葉にとらわれすぎないで
受けとめられるように
伝えることができるように
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ちょっとずつでも
前に進んでいるという実感が
すごくすごく嬉しい。
それを誰かと共有できると
もっともっと嬉しい。
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私たちが用いる「テストバッテリー」は
通常は「障害」を明らかにするために用いられている。
そして「障害」を軽減するためにリハを行っている。
でも、認知症のある方に対して
「障害」を明らかにするためにテストをしても
効果的な援助には結びつかない。
臨床で必要なのは、
「能力」を把握するための「評価」だから。
その過程において
「障害」を把握することで
「能力」が把握できることはあっても
認知症という病気は
その定義上、不可逆的な進行性の疾患だから
今、既にある「障害」を軽減するためのトレーニングは
できない。
大切なことは
今ある能力を発揮すること。
埋もれていて活用されていない能力を見いだすこと。
そのための「評価」ができるようになること。
「検査」ではなくて。
「認知症は難しい」という言葉をよく聞くけれど
難しいのは「認知症」じゃなくて
「検査」以外の「評価」が難しいんじゃないのかな?
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見た目、同じように見えるかも。ですが
さしだされた手の動きが
伝えてしまうモノがある。
小さな子どもにさしだす手
恋人にさしだす手
お年寄りにさしだす手
同じようにみえて
全然違う。
伝わるのは
無自覚であったとしても
さしだす手に込められた「意図」
意図こそが伝わる。
もしも、手をはねのけられたとしたら
自分の無自覚な意図を
反省したほうがいいのかもしれない。
その無自覚さこそを反省したほうがいいのかもしれない。
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